冬をむかえる

冬をむかえる
'20.12.22 愛知県海部郡飛島村梅之郷 日光川排水機場付近にて撮影

2021年2月27日土曜日

空気の研究

  自転車に乗ると空気の壁に突き当たり、押しもどされる。空気を読み、空気と折り合いをつけてすり抜けるか、強引に空気を切り裂いて走るのか。空気を無視することはできない。

 少し前になるが、NHKの「チコちゃんに叱られる」という番組で、「空気を読む」とは何を読むのかという質問が取り上げられていた。出演者は的外れな回答をして、チコちゃんに「ボーっと生きてんじゃねぇよ」と叱られ、明かされた答は、「0.2秒の短い時間に現れる顔の感情表現をみて、相手の本音を読む」ということだった。だとすると、「空気」とは、ごく短い時間に表出される潜在意識のことだといえる。

 15年ほど前には「KY」ということばが流行った。「空気を読めない」人のことである。「空気を読めよ」という警句にも使われた。今ではKY語といわれ、ローマ字で省略する日本語の代表格になっているが、KYというときの「空気」のとらえ方は曖昧な気がする。

 チコちゃんが紹介していた「空気」も「KY」の使い方も、ちょっと安直にすぎる。山本七平著『空気の研究』(1977年)には、「空気」を知りそれを読むという行為が、一筋縄ではいかないことが示されている。山本は、イザヤ・ベンダサンというペンネームで『日本人とユダヤ人』(1970年)を著して、日本人論の先駆けをなした人である。『空気の研究』では、日本人特有の議論の中に見られ、意志決定や判断材料にもなる「空気」の醸成や特性を論じている。「空気」を読み、それに従わなければならない、あるいは従ってしまう危惧についても取り上げている。

 山本は、戦艦大和最期の特効出撃が「空気」によって決まったという例を引く。孫引きになるが、『文藝春秋』(1975年8月号)の記事に「全般の空気よりして(大和の)特効出撃は当然だと思うという発言が出撃を決めた」とある。山本によれば「大和の出撃を無謀とする人びとにはそれを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。(ところが出撃の)正当性の根拠はもっぱら「空気」なのである。議論は最後には「空気」で決められる」ことになる。詳細なデータや根拠を明示しても、目に見えない「空気」には勝てないのである。

 多数決の原理を真に理解できない日本人は、会議で決めたことを「あの時の空気では、ああ言わざるを得なかった」と覆す。その夜の「飲み屋の空気」では別の結論を出すという事例も上げている。国や宗教、文化の違いで、「空気」の醸成のされ方や「空気支配」が異なることについて克明に記していて、「空気」について深く考えさせられる。

 『文藝春秋』最新刊(20213月号)のコロナウィルス対策関連の記事の中で、「空気で動く日本政府」という小見出しが目をひいた。同誌の他の記事でも同じような文脈で「空気」が使われている。重大な局面では、無色透明の「空気」が見えてくるらしい。どうやら、空気にはいくつもの種類がありそうだ。自転車に上手に乗るためにも、日常の「空気」に取り込まれないためにも、空気の研究を深め、空気の読み方を考えたいものである。

初詣に出かける
年が明けたというだけで気持ちが改まる
清澄な空気が漂う

冬の昼下がり
ひだまりの空気は
やわらかく暖かい

空気が冴える
山が近い

みんなで走れという空気で
みんな同じ方向に走り出す

空気を読んで大勢が走り出す
空気を読まないパンダは
遠くで仰向けに転がっている

たまには手入れもしてほしい
空気を読んで
近所の自転車が
集まって来た


2021年2月20日土曜日

七つの池を巡る冒険

  寒の戻りがあるとはいうものの、陽気は春めいてきた。本格的な春になったら、7つの池を巡る冒険に出かけたい。大仰ないい方であるが、実は大した冒険ではない。7つの池に特別の意味はない。9つの池でもいいし、たったひとつの池を探すというのでもかまわない。ちょっと気分を変えて走りたいときの呪文ようなものである。

 朝、目が覚めると自転車のためにあるような好天。さて、今日はどの辺りを走ろうかと考える。適当にぶらぶらと、というだけではいかにも芸がない。「7つの池を巡る冒険」と唱えれば、いつも走っているコースに抑揚がつく。子どものころは、名前などつけなくても毎日が冒険の連続だったが、大人には理屈が欲しい。

 いつも気軽に走っている、員弁郡やいなべ市内の云わばホームコースのようなところには、池や溜が点在する。人里をほんの少し離れると、樹々の間にひっそりと水をたたえる池や溜に出会える。湖といえるほど名前の知られた立派なものはない。池はもともと魚を生かすためのもので「生ける」が語源。溜は灌漑用に人工で水を「溜め」たものらしい。名もない小さな池や溜も、四季折々の変化を水面に映す姿には独特の神秘が宿る。冒険を企てる価値はある。

 どんな冒険に出かけるときも、ルートはざっくりと決める。厳密な道程はない。この辺にも池はあったはずだ、という極めて不確実な探索。目的の池に向かって走っていると、思わぬ所で初めて見る池に出会うこともある。子どもの頃に泳いだり魚を釣ったりしたことのある大きな池を探し当てたら、意外に小さかったという驚きもあった。昔の記憶そのままの場所もあれば、周りに遊歩道など整備され、よそよそしくなって乙にすましている池や溜もある。冒険してみないとそれも判らない。

 いなべ市はツアー・オブ・ジャパンのロードレースが転戦する場所の一つに名乗りを挙げ、最近は多くのライダーがその聖地を訪れる。「いなべサイクル・マップ」なども発行されていて、それを頼りに走るライダーが多いのだろう。マップには見どころなどを織り交ぜ、無難なコースが紹介されているので、お決まりの道を連なって走っている人たちを見かける。地図の見方を変えて、お仕着せのコースから外れてみれば、自分が発見者だと思えるようなワインディングロードがあって、その向こうに冒険が待っている。人影の絶えた魅惑的な池や溜に出会えるという僥倖もある。

 先日、家に遊びに来た友人を近くの溜に案内した。誰も知らない秘密の場所を教えるかのように、得意になっている自分がおかしかった。子どもの頃には日常茶飯事だった冒険を、しばらくはすっかり忘れていた。この歳になって、もう一度、いざ冒険、と呪文を唱えて自転車で出かける。近場を巡るサイクリングが、人跡未踏の秘境を尋ねる旅に早変わりする。


人影のない冬の池は
まるごと自分の庭的気分

はるばる来た…
実は振り返れば我が家が見えるくらい処にある

子どもの頃には「西村の溜」と呼んでいた
暗くて怖いところだったが
公園に取り込まれてしまった
柵など張りめぐらされて
妙によそよそしくなった
溜が怠けてくつろいでいる

この溜は昔の姿のままで頑張っている
地図にはあるのに
どうやって道を辿ればいいか判らない
溜の底からは何が出てくるか判らない

通りすがりに偶然出会った溜
地図にも名前が載っていない
昔から伝わる呼び名があるはずだ

誰も訪れないままにしておきたい場所がある
冒険を冒険のままで残してくれる場所である

村のはずれに「山の下」と呼ばれる
子どもには手ごろな小さい池があった
いつも魚釣りの子どもでぎわっていた
野放しの子どもが集まる池がなくなって
野放しの子どもはどこにもいなくなった

全国ため池百選だなんて
すっかり飼いならされて
よそ者になってしまった

選ばれてあることの恍惚と
     不安と二つ我にあり
     (太宰治、ポール・ヴェルレーヌ)
選ばれない方がいいことだってある








2021年2月13日土曜日

地図を読む

  ジェイムズ・ボンドは一世を風靡したスパイである。イアン・フレミングの原作には1953年に初登場、映画第1『ドクターNOは中学生の頃に観た。当時は『007は殺しの番号』という物騒な邦題で劇場公開された。1964年公開の第3作『ゴールドフィンガー』でボンドの乗るアストンマーティンDB5にはナビゲーションもどきの装置が搭載されていた。時代の最先端である。ボンド映画に登場する最新の機器にはわくわくのしどうしだった。

 ボンドがハイテクのスパイグッズを優雅に使いこなす古いタイプのスパイだとすると、ジェイソン・ボーンは全く新しいタイプのスパイ(両者ともイニシャルはJ.B.)である。第1作『ボーン・アイデンティティ』で銀幕に初登場する。ボーンは、彼自身がスパイグッズであり、武器である。翻訳機を使わなくても、外国語を自由に操る。身近なアイテムを通信機や武器に作り変え、使いこなす。ナビが必要なら、彼自身が地図を記憶にインプットしてしまう。

 ボーンはCIAの暗殺計画に失敗して、証拠隠滅のために命を狙われる。同業の暗殺者に襲われ、行く先々で地元警察からも追われる。パリで警察官に追いかけられるシーンでは、逃走の直前にパリの市街地図を読み取って記憶する。彼は脳裏に刻まれた地図を頼りに自在に逃走経路を見つけ出す。逃走車は最新装備満載のアストンマーティンやTOYOTA 2000GTではない。今にも壊れそうなミニを巧みに操る。第二作『ボーン・スプレマシー』でも、ナポリからベルリンまで古いメルセデスベンツでの逃避行の途中、ミシュランの地図を助手席に広げ、走りながら道路網を覚え込む。ベルリンの市街地図も瞬時に記憶する。

 私の自転車は、国境を越えて走るわけではない。猛スピードで何かを追ったり追われたりすることもない。自転車で走るたかだか100㎞くらいのコースは、地図に頼らなくても覚えてしまいたい。ボーン流を真似て、走りたい場所の地形を前日に地図で読み取る。但し、瞬時にという訳にはいかない。実際に走り始めたら、ランドマークをつなぎながら地図を見ないで走る。自転車に乗り始めた頃から、地図は記憶して、走り始めたら見ないことに決めている。思わぬ史跡などに行き会って、得した気分になることもあるが、ときには見当ちがいの道に迷い込み、焦りながら地図を確認する事態も出来(しゅったい)する。ジェイソン・ボーンになるのは難しい。

 映画のヒーローの地図の読み方を真似て自転車に乗る。子どもの頃に、自転車を月光仮面まぼろし探偵のオートバイに見立てて乗りまわしていたのと、ちっとも変っていない。映画『大脱走』の終わりに近いシーン、スティーブ・マックイーン演じるヒルツ大尉は、ドイツとスイスの国境の柵をオートバイの大ジャンプで越えようとする。それを真似て、オフロードバイクでジャンプの練習を繰り返したこともあった。地図を読み、ヒーローになったつもりで自転車を漕ぐ。バーチャルリアリティの世界は今に始まったものではないし、コンピュータの中だけのものでもない。


街の中を地図を読まずに走る
何だか懐かしい気がする街並みに出会う
場所は記憶の地図に記しておく

自転車のよく似合う通りを行く
記憶の地図に書き込んでおく

地図を読まずに走っていたら
信長さんに出会った

秀吉さんにも出会った

別の記憶にある地図の中で
生まれたばかりの信長さんに
出会ったこともある

一夜城の跡では
秀吉さんと再会した

人生の地図や時間の地図を
行ったり戻ったりして
自転車に乗っている

鳩も記憶に読み込んだ地図をたよりに飛ぶのか
ヒーローにあこがれて飛びつづけるのか


鳩にも自転車乗りにも
記憶の中に読み込んだ
人生の地図や時間の地図はある

やり残してしまったことや
いつかやってみたいことや
忘れてしまっていることや
鮮やかによみがえることや
ついに行けなかった場所や
これから出かけたい場所や

記憶の中の地図には
ルートがひかれている
定点がしるされている

鳩は双の翼で
自転車乗りは双の銀輪で
記憶の平面にひろげられた
人生の地図や時間の地図を
行ったり戻ったりしながら
飛んだり走ったりしている




2021年2月6日土曜日

省エネを考える

   省エネという言い方には違和感を覚える。エネルギーの使用量を節約するということなら、節エネだろうけれど、これも語感が良くない。節水は掛け声になるが省エネや節エネには緊張感がない。用語や名称を省略して使うのは難しい。最近しきりに使われるオリパラのごときは、オリンピック・パラリンピックがゲームソフトかデザートの一種のように聞こえてしまう。

 ともあれ、省エネということばはすっかり定着しているので、そのまま使うとして、自転車の省エネを考える。自転車の省エネの要素は、空力と重力、それに摩擦力である。空気の抵抗を減らして、車体を軽くする。あとは回転部分の摩擦を減らせば、自転車は楽に速く走る。乗る人の使うエネルギーを節約できるという理屈だ。

 本格的にスピードを競うレースでは、グラム単位で自転車を軽量にするらしい。フレームの材料や構造はもちろん、ギアやチェーン、それにサドルなどの各部品も徹底的に軽くする。身に着けるウエアやヘルメットも軽くする。アマチュアの自転車乗りでも、ほんの数グラム軽くするために何万円もかけるという話を聞く。車体の総重量がわずか7kg程度になるらしい。回転する部品の摩擦を減らす工夫や、空気を切り裂くためのデザインにも心血が注がれる。

 あるとき立ち寄った自転車屋の、私と同年輩のおやじさんが、自転車の整備や調整のノウハウを教えてくれた。私が、自己流でオートバイの整備などしていたことはあるが、自転車は奥が深いというと、我が意を得たとばかりに延々と話が続いた。オートバイをいじっていた人には、ネジを90度まわす、180度まわすという自転車の微妙な調整が難しい。ネジを闇雲にまわして、調整を狂わせフレームを歪めると力説された。オートバイだって、キャブレターの調整などは微妙だったけど…と思いながら聴いていた。

最近あまり乗る機会がないといって、おやじさん愛用の自転車を見せてくれた。高価なカーボンのフレームで部品の軽量化にもこだわった1台とのこと。お金をかけた分は速く走れるようになるか尋ねてみた。一番知りたいところである。果たしてその返事は、実際には思うほど速くならない。手をかけた高価な自転車に乗っているという優越感で、多少は自転車が速くなったように感じる。メンタルの要素が大きい。脚力を鍛える方が大事、というものだった。なるほど、そういうものかと大いに合点(がてん)がいった。

カーボン製の軽いフレームや軽快に回る部品、風の抵抗を減らすウエアを手に入れても、メンタルを左右する程度の効果しかない。少しでも高額の自転車や部品を売りたいはずの、おやじさんの正直な結論である。だとすれば、私のような高齢で平凡な自転車乗りの省エネ対策は、せいぜい体脂肪を燃やして、あとは余分な物を持たないことくらいか。

先週、雪が積もった
雪を見ながら走った

少し雪の深いところまで行ってみた

雪が車輪に凍りつく
走るほどに重くなる
生きるほどに重くなる
余計なものは削ぎ落すことだ

先週、あまり人の来ない池を見に行った

池を巡り、ぬかるんだ道に乗り入れた

泥が車輪についてくる
走るほどに重くなる
生きるほどに重くなる
余計なものは捨てさることだ

寒いのでいっぱい着込んで乗っている
軽量化も空力特性もあったものではない
おまけに自転車にはいっぱい積んでいる
省エネとは削ぎ落すこと…
とはいえ、気持ちも身体も寒すぎては困る


※ 愛車の軽量化や部品の交換が功を奏し、速くなった、快適になったという人の
  話も聞きます。愛車精神が走りを変える。それももちろん有りだと思います。