自転車に乗ると空気の壁に突き当たり、押しもどされる。空気を読み、空気と折り合いをつけてすり抜けるか、強引に空気を切り裂いて走るのか。空気を無視することはできない。
少し前になるが、NHKの「チコちゃんに叱られる」という番組で、「空気を読む」とは何を読むのかという質問が取り上げられていた。出演者は的外れな回答をして、チコちゃんに「ボーっと生きてんじゃねぇよ」と叱られ、明かされた答は、「0.2秒の短い時間に現れる顔の感情表現をみて、相手の本音を読む」ということだった。だとすると、「空気」とは、ごく短い時間に表出される潜在意識のことだといえる。
15年ほど前には「KY」ということばが流行った。「空気を読めない」人のことである。「空気を読めよ」という警句にも使われた。今ではKY語といわれ、ローマ字で省略する日本語の代表格になっているが、KYというときの「空気」のとらえ方は曖昧な気がする。
チコちゃんが紹介していた「空気」も「KY」の使い方も、ちょっと安直にすぎる。山本七平著『空気の研究』(1977年)には、「空気」を知りそれを読むという行為が、一筋縄ではいかないことが示されている。山本は、イザヤ・ベンダサンというペンネームで『日本人とユダヤ人』(1970年)を著して、日本人論の先駆けをなした人である。『空気の研究』では、日本人特有の議論の中に見られ、意志決定や判断材料にもなる「空気」の醸成や特性を論じている。「空気」を読み、それに従わなければならない、あるいは従ってしまう危惧についても取り上げている。
山本は、戦艦大和最期の特効出撃が「空気」によって決まったという例を引く。孫引きになるが、『文藝春秋』(1975年8月号)の記事に「全般の空気よりして(大和の)特効出撃は当然だと思うという発言が出撃を決めた」とある。山本によれば「大和の出撃を無謀とする人びとにはそれを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。(ところが出撃の)正当性の根拠はもっぱら「空気」なのである。議論は最後には「空気」で決められる」ことになる。詳細なデータや根拠を明示しても、目に見えない「空気」には勝てないのである。
多数決の原理を真に理解できない日本人は、会議で決めたことを「あの時の空気では、ああ言わざるを得なかった」と覆す。その夜の「飲み屋の空気」では別の結論を出すという事例も上げている。国や宗教、文化の違いで、「空気」の醸成のされ方や「空気支配」が異なることについて克明に記していて、「空気」について深く考えさせられる。
『文藝春秋』最新刊(2021年3月号)のコロナウィルス対策関連の記事の中で、「空気で動く日本政府」という小見出しが目をひいた。同誌の他の記事でも同じような文脈で「空気」が使われている。重大な局面では、無色透明の「空気」が見えてくるらしい。どうやら、空気にはいくつもの種類がありそうだ。自転車に上手に乗るためにも、日常の「空気」に取り込まれないためにも、空気の研究を深め、空気の読み方を考えたいものである。
初詣に出かける 年が明けたというだけで気持ちが改まる 清澄な空気が漂う |
冬の昼下がり ひだまりの空気は やわらかく暖かい |
空気が冴える 山が近い |
みんなで走れという空気で みんな同じ方向に走り出す |
空気を読んで大勢が走り出す 空気を読まないパンダは 遠くで仰向けに転がっている |
たまには手入れもしてほしい 空気を読んで 近所の自転車が 集まって来た |