冬をむかえる

冬をむかえる
'20.12.22 愛知県海部郡飛島村梅之郷 日光川排水機場付近にて撮影

2023年1月28日土曜日

走行会のこと

 仲間うちでは走行会と呼んでいる。特にグループの名前があるわけではない。イベントを企画するわけでもない。週に一度、メンバーの都合を考えて集まり近場を走る。普段は4人のメンバーの家からほぼ同じ距離にある、三岐鉄道北勢線大泉駅隣で地元の野菜などを売る「うりぼう」に集まる。全員が参加できて、雨が降らないことが開催の最低の条件である。

 これまで、ロードバイクかクロスバイクで走っていたが、昨年メンバー全員がマウンテンバイクを手に入れたので、走り方が変わった。近場の道は走り尽くした感があったが、マウンテンバイクで走るようになって、コースのバリエーションが増えた。何年も前からマウンテンバイクを所有していた者もいるが、最近手に入れたメンバーが一人いる。新しく乗り始めたメンバーにも無理のないダートコースや林道が走行会の選択肢に加わった。

 クロスバイク・ロードバイクで走るか、マウンテンバイクにするか、事前の打ち合わせ事項が一つ増えたが、どちらにするかは思いつきで決めている。昨年1年間の記録を集計したところ、クロスバイク・ロードバイクで走った回数が15回、マウンテンバイクで走った回数が16回だった。走行距離はというと、前者が522㎞、後者は525㎞。計算して走ったように、回数も走行距離も同じである。一回おきに乗るとか、毎回の走行距離を決めているというわけではない。思いつきで自転車を選んでいて、この結果は奇跡である。

 平均年齢70歳以上のメンバーの勘と知恵はあなどれない。走り方は入門ライダーの域を出ないが、それなりの結果はきちんと残す。仲間うちで何でもないことを褒め合い、自画自賛し、がんばり過ぎないようにがんばる。高齢者の走行会は今年も同じようなペースでつづいていくだろう。 

あちらへ行くか
こちらにするか

あれをしたり
これをしたり

あちらを向いたり
こちらを向いたり

あれも試し
これも試す

ここで停まり
ここで考える

こちらから
あちらへと
越えていく
進んでいく


2023年1月21日土曜日

いきはよいよい

 ここ数年、新年初の遠乗りには一人で名古屋の熱田神宮へ行く。何となく今年も行ってみるかという軽い気持ちで出かける。この寒い時期に往復80100㎞の距離を走れるか。気持ちと身体の力試しのようなところはある。

 今年も、先週になって、穏やかな天気の日を見つけて出かけた。往路は、長島から木曽岬へ向かい、飛島村、十四山村を抜けて名古屋市に入る。走りながら、ふと心に浮かんだ歌がある。「いきはよいよい、かえりはこわい」。

何度も走ったことのあるコースなので、力の配分はわかっているつもりだが、途中天候や風向きが変わることはないだろうか。50㎞往ったら、50㎞を帰らなければならない。今回に限ったことではないが、自転車の遠出にはいつも同じ不安がつきまとう。

「とおりゃんせ、とおりゃんせ、ここはどこの細道じゃ」と口ずさみながらペダルを漕ぎ、漕ぎながら考える。童謡の「いきはよいよい、かえりはこわい」とはどういう意味なのか。自転車の遠乗りの歌でないことは確かだ。

 「子どもが七つになったので、お礼詣(れいまい)りがしたい」「7歳までは神様の子として守られているが、これからは、自分で生きていかなければならない。お(まいり)帰り道からはこわいことになる「こわい」には「たいへんだ、難儀だ」という意味もある。

 「いきはよいよい」の「よいよい」は「やっと、何とかして」の意味があり、「往路はやっとの思いで来たが、帰りはもっと大変だ」という意味にもなる。童謡の解釈には諸説あるようだ。

 そんなことを思いながら、「いきはよいよい」熱田神宮に辿り着いた。初詣ででもないので、鳥居の外から簡単に参拝を済ませる。帰りの道のりを考えると気が重いが、「帰りは怖い」などと思っていては、一人で遠出はできない。帰り道も楽しんで走りたい。ペースを守ってペダルを踏みつづければ、いずれは無事に帰り着く。


通りゃんせ通りゃんせ
ここはどこの細道じゃ

天神さまの細道じゃ

ちっと通してくだしゃんせ

御用のない者通しゃせぬ

この子の七つのお祝いに
お札を納めに参ります


いきはよいよい
かえりはこわい
       
こわいながらも 
通りゃんせ通りゃんせ


                               

2023年1月14日土曜日

起承転結

 仕事柄たくさんの人の前で話す機会が多かった。中学校の校長をしていたころには、学校の儀式的行事、卒業式や入学式などをはじめ、全校集会でも話をした。

 人の前で話すときは、必ず原稿を書いた。話し言葉で原稿をつくっておけば、途中で話題がそれても原稿にもどればいい。何を言っているのかわからないという混乱は避けられる。短く話言葉で書く原稿にも、起承転結とか序破急という、文章の構成には気をつけた。

 序破急は、もともとは雅楽の曲の構成である。「序」はゆっくりとスタートしていくパート、「破」は静けさを破り拍子が加わる。最後の「急」は、クライマックスに向けてテンポを上げて締めくくる。起承転結でいえば、「起」と「承」が「序」、「転」が「破」、そして「結」が「急」にあたる。形式にこだわりすぎると面白味がないが、自分の言いたいことだけを思いつきで並べても、聴き手や読み手を困らせるだけである。

 自転車に乗る時にも起承転結がある。自転車で家を出る。今日はどこへ行こうか。コースを決めていないことが多い。走りながら風の向きや雲の様子を見て走る方角を決める。あらかじめコースを決めてあるときも、自転車と身体、双方の調子を確かめながら走り始める。徐々に体が温まり、その日のペースが決まる。「起・承」であり、「序」である。

 途中、思いがけない急坂に苦しむ。知らない場所に迷い込む。突然開ける素晴らしい景色に息を呑む。写真におさめたりする。小休止の場所を決める。思わぬ人に出会ったりする。これは「転」、「破」。

帰り道を急ぐ。または、ゆっくりとその日の楽しみをサドルの上で反芻する。無事に家に着けば、簡単に自転車の点検くらいはしておく。「結」であり「急」ともいえる。

 形にこだわりすぎることはないが、形に当てはめると判りやすいことや整理のつくことも多い。ただし、この文章が形にかなというと、しい

新しい年を迎えてめでたい


新しい年を走り始める

山の声を聞いて

道に誘われて

見慣れた場所にも
新しい景色を見る

季節のなかの
1日のなかの
自転車の上の
起承転結


2023年1月7日土曜日

もう1年

  12日が誕生日なので、今年満71歳になった。賀寿に云う古稀は70歳の年祝いで、本来は数え年で祝う。数え年なら72歳なので、古来稀な人生を既に2年も余分に生きた。もっとも、最近は私の父のように100歳くらいにならないと、古来稀なりとは言ってもらえない。

 毎年、初日の出を見に海の見えるところまで15㎞ほど自転車で出かける。今年は、70歳も越えたので、無理をして出かけなくてもいいかという気分になっていた。夜の明ける前から自転車を漕ぎ出して、こけたりしたら大変だ。これまでは、元旦の日の出が見られるかどうか、年末から天気予報を気にしていた。昨年の暮れは、それもあまり気に留めなかった。

 大晦日の床に就くときに、とりあえずはと思い、目覚まし時計を5時にセットした。早起きは苦手な(たち)であアラームってもしもそれに気がつけば、もしも目が覚めれば、そして、もしも支度をする気になれば、自転車で出かけようかと迷いながら就寝した。

 アラームは鳴り、それに気づき、しかも目が覚めて床から抜け出した。外は少し明るい。東の空に雲はない。ご来光は拝めそうだ。例年になく暖かい。自転車を漕ぎ出す気になる。6時、やおら走り始める。空は明るさを増すが、何、慌てることはない。日の出の時刻は72分。1時間ほどかけて15㎞走れば、揖斐川の河口、伊勢湾の日の出に間に合う。

 辺りが少しずつ明るくなり始めて思う。70歳を過ぎたから、何かを始めるとか辞めるとか、もしも80歳まで生きれば、あれを始めるとかこれを辞めるとか、年齢を区切りに使うことはない。

 自転車には乗れる間は乗る。初日の出に間に合うように走れる間は走る。年齢を重ねれば、転倒や事故に遭うリスクは高まるかもしれないが、自分のやりたいことを自分で抑えることはない。自分のやりたいように、もう1年。東の空が明るく赤く染まるころには、出かける前の迷いは消えて、すっかり強気になっている。

曙光が見えて
なお心細い

約束の場に来た安堵

ここに居れば会えるという期待

期待が確信になって
姿をあらわすとき

明るい空の強気

今朝は
見慣れた山が
雪をかぶって高い