冬をむかえる

冬をむかえる
'20.12.22 愛知県海部郡飛島村梅之郷 日光川排水機場付近にて撮影

2021年4月24日土曜日

はるがきた

 はるがきた はるがきた どこにきた
  やまにきた さとにきた のにもきた
  
       はながさく はながさく どこにさく
  やまにさく さとにさく のにもさく 
  
       とりがなく とりがなく どこになく
  やまでなく さとでなく のでもなく
    (高野辰之作詞・岡野貞一作曲)

 この童謡の繰り返しの何と単調なことか。この単調な繰り返しは、春でなければ成り立たない。夏を繰り返せば暑苦しい。秋なら繰り返していると深まりすぎてしまうし、冬だと冷えきってしまうだろう。

自転車に乗っていると、季節のうつりかわりには敏感である。風の暖かさ爽やかさ、陽のぬくもりと夕暮れのなごり。水の流れる音や樹々の揺れ方にも春が来たことを感じる。春の気配を先取りできるのは自転車のおかげである。

 それなのに、春の訪れを今頃書いているというのでは遅きに失する。季節を感じるセンサーが古びて、狂いが生じてきたというわけではない。ずっと前からセンサーは反応していたが、山にも里にも野にも自転車で出かけていって、春がやって来ていることを確かめていると、今になってしまう。どこに行ってもいつもどおりの春が来ているか、見てまわるには時間がかかる。

 春の訪れは、待ちに待った客人がはるばる訪ねて来てくれるのに似ている。いつの間にか、青葉、新録の季節になってしまうので、あまりゆっくりと話し込んではいられないが、遠来の客人と自転車に乗りながら過ごす時間は大切にしたい。春が来たことを何度も繰り返して歌っていたくなる。

 日足がのびたので、自転車に乗るには都合がいい。夕暮れにせかされて帰り道を急ぐ心配はない。心おきなく沿道の春を眺める。気分も身軽になれる。いつもの道からちょっとはずれて、竹やぶをぬけたり、雑木の林の向こうをのぞいたりする。自分が真っ先に発見したと思えるような、秘密にしておきたい場所が見つかる。春の秘境探検である。自転車を停めて川や池のほとりに降りてみる。そこにも春が来ていることを確かめながら、一息いれる。紫煙をくゆらす。今年も春が来ていることに安心する。

 山や里、野の春だけでなく、川や海の春も確かめにいった。萌える草、満開の花、こずえの新芽、光る水面、自転車に映る陽光。眼福の至りである。景色の色や光ばかりではない。季節の味も堪能できた。高級な食材を買うゆとりはないし、自分の味覚にも自信はないが、掘りたての筍をいただいて、春の香りと食感を存分に楽しんだ。口の中にも春がひろがる。飛び切りの贅沢である。菓子作りの得意な走行会仲間がこしらえてくれた桜餅が美味い。桜の花びらをちらし、ほんのりと桜いろに染めた外郎(ういろう)もごちそうになった。春の口福を味わうことができた。今年も満遍無く、いつもと変わらない春が来た。





山に来た春
樹々の間から春の陽がのぞく

里に来た春
道普請や農道の草刈りなど
村役に出そろう軽トラック
色は白ときどきシルバーがお決まり

野にも来た春
放牧されている自転車
ライダーも自転車も歓談中
(この写真は走行会の仲間が撮影)

山にも里にも野にも花が咲く
鳥もないている

春は海にも来ていて
ひねもすのたりのたりかな

海から吹く春風
春は影でさえ明るい

春風が大きな羽根をまわす
季節も銀輪もまわり始める








2021年4月17日土曜日

「こころ旅」を視る

  BS放送が受信できないので、NHKBS番組「こころ旅」を知らなった。自転車を始めた頃、火野正平が自転車に乗っているのを見て始めたのかときかれたことがあった。何のことだかわからなかった。放映開始の時期は、私が自転車に乗り始めた頃と重なっている。

その後、You Tubeに総集編の一部が公開されているのを視て、面白そうな番組だと思っていた。先日、友人から録画した番組を視せてもらった。昨年の春先に桑名市でロケをしたものが再放送されたらしい。全編通して視るのは初めてのことだ。番組は、俳優火野正平が視聴者から寄せられた手紙を読むところから始まる。視聴者のエピソードとともに紹介される「こころの風景」を目指し、20㎞程離れた場所から自転車で出発するというのが決まりらしい。

 録画で視せてもらったのは、桑名市の揖斐川の河口に近いところからスタートし、多度町の内母(ないも)神社の参道を目指すというものである。揖斐川の堤防をさかのぼり、旧美濃街道と思われる道を民家の間を縫って走る。火野がこれから訪れる場所への期待や沿道の風景を見て感じたことなどをつぶやきながら、自転車を漕ぐ様子をハンディカメラがとらえている。

 自転車が連なって走る遠景も収録されている。これは撮影用の車から撮ったシーンだろう。5台の自転車が連なって走る。先頭は火野の自転車である。その後ろには、カメラ、音声、監督、そしてメカニックのスタッフの自転車が付き従うらしい。大名行列である。撮影からメカの調整まですべて自前で行う私の自転車旅とは大違いだ。

自転車乗りとしては、火野の姿や沿道の風景だけでなく、自転車そのものや乗り方にも目が行く。先頭を行く火野の自転車はイタリア製の高級バイクらしい。愛車の手入れくらいは自分でするのだろうか。自転車は磨き上げられていて、リムの反射が道路に映る。途中、息が上がって苦しそうな場面もあるが、今回のコースがそれほどハードだとは思えない。自転車で走るのは過酷だという印象が強調されるのは気になる。 

何度も走ることがある場所なので、自分の走りと重ね合わせて視ることができて興味深い。意地悪な視方をせずに番組を楽しむことにする。全編を通してゆったり流れる時間は視ていて心地よい。火野の語り口やラディングギア(装束)にも癒される。知らない場所で収録された他の回もぜひ視てみたい。

番組の中で、火野が下り坂にさしかかると「人生、下り坂最高!」と叫ぶ場面があるらしいが、今回は下り坂がなかった。人生の下り坂を謳歌するというのは大いに同感である。人生半ばの、あるいは自転車での下り坂は、次に上昇するための助走路になる。老い先の短い者は、助走などと構えずに下るに任せるというのも(いさぎよ)友人に次回放送も録画してもらおうか厚かましいことを考えている

「こころ旅」の出発点 
揖斐川河口付近を訪ねる
エイリアンの襲撃に見えるのは長良川河口堰

桑名から多度に向かう揖斐川堤防
この時期、送電線が春を送ってくる

「こころ旅」結びの地 
内母神社を訪ねる
自転車仲間の菓子職人(?)が作った
抹茶カステラをお供えする

私たちの「こころ旅」
自転車を連ねて走るが
カメラマンも音声担当もいない
いるのはおやつ担当の菓子職人(右端)だけ

私の「こころの風景」
自転車で走っていると
こころに残る風景は随所にある
昔懐かしい場所を辿ることも…


2021年4月10日土曜日

コンビニのライダーたち

  短い距離を走るときも、長距離をはるばる行くときも、休憩はつきものである。コンビニは恰好の休憩場所になる。食料や飲み物を調達できるし、愛煙家にとっては喫煙場所にもなる。山道にさしかかるような場所にあるコンビニはライダーのたまり場になる。これから登坂する人も、山道をはるばる越えて坂を降って来た人も、ちょっと一息入れたいと思うのが人情である。

 ライディングウエアに身を包み、カラフルなヘルメット、アイウエア。颯爽とコンビニの駐輪場に自転車を乗り入れて、ヘルメットを脱ぐ、サングラスを外す。若いと見えたライダーの実態は、意外にも「おっさん」ということが多い。平日の昼日中、当てもなく、あるいは当てがあってか、気儘に流しているさすらいの「おっさん」ライダーが増殖中なのだ。 

 生類憐みの令ならぬ同類親しみの礼を尽くし、ことばをかけあう。ここでは、歳のころなら70歳前後と思われる人を同類のおっさんとみなす。超パワフルそうな人もいて侮れない。定番の会話は、「どこから来られましたか?」「どこまで走るのですか?」から始まる。その前に「今日は自転車日和ですね」「風がきついので走るのが嫌になりますわ」が挟まることもある。「きれいなバイクですね」「軽そうですね」が次に来る。「ビアンキ、この色がいいですね。カーボンフレームですか」「ラレーですか。フレームはクロモリですね」などへ会話は移る。

 目が合って、挨拶を交わすだけでは終わらずに話し込む相手には、同じ匂いがするらしい。しばらく話をしていると、「昔はオートバイに乗ってまして」となることも多い。よく似た経歴と興味関心の方向性をもっている。小休止中なので、「気をつけて」「また、どこかでお会いすると思います」ということで打ち切りとなるが、面白い話を拝聴し、思わず長い休憩になることもある。

 自転車歴を聞く。メカに詳しそうな人であれば、手入れのコツや役に立ちそうなグッズなども教えてもらう。速そうなロードバイクに乗った人が、自転車を磨くには仏具磨きに使うピカール(PiKAL)が一番だと教えてくれた。絶妙のおっさん感覚である。ホイールのバランスを取るのに、車のホイールのバランサーを真似て、釣り用のオモリをリムに張り付けているという、年式不詳のマウンテンバイクに乗ったおっさんにも会った。そのアイディアとこだわりに熟年ライダーの真骨頂を見た。

 たまり場的陽だまり的なコンビニは、おっさんライダーたちの出会いと社交の場でもある。ときには、自転車乗りだけではなく、オートバイのおっさんとの異種情報交換会にも発展する。経験や愛車精神を披瀝し合い、ときには体力を誇り、お互いに投げかける賛美のことばに勇気づけられて、また、走りつづける。


食料、飲料、コーヒー、たばこ
しばしの休息を求めてコンビニへ

どこからともなく
自転車が集まる

自転車遍歴 愛車の自慢
お勧めのコースに耳寄りな情報
おっさんの社交場


陽だまり、たまり場
コンビニ以外にも社交場はある

山間地域では猿の集団が出没する
撃退用護身用の装備も…
アイディアの交換も重要

知り合ったら、一緒に走るのもいい
ライダーはどこにでもいる

出会いはコンビニだけではない
いろいろな人たちと
いろいろな場所で出会う
「馬鹿な奴だと笑うなら
 なってみやがれその馬鹿に」
おっさんライダーにも
ピッタリの啖呵である




2021年4月3日土曜日

桜並木の満開の下を

 今週、桜が満開になった。いくつになっても、心ときめかせて花を見に出かける。自転車に乗るために、寒さに備えて着込んだり、厚手の手袋をはめたりすることはもういらない。すぐ自転車に乗り出せるのがうれしい。花冷えもあり、花曇りもするが、冷えたり曇ったりしても、「花」がそれを打ち消してくれる。自転車の季節の到来でもある。

満開になった桜を見ると「桜の森の満開の下」という呪文のような言葉が思い浮かぶ。これは坂口安吾の小説の題名である。満開の桜の花を単純に愛でているだけでは終わらない、怪奇譚とも読める。

「桜の花が咲くと人びとは酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です」という書き出しから始まる、この小説の主人公は鈴鹿峠に巣くう山賊の男である。「近頃は桜の花の下といえば人間がより集まって酒をのみ喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると恐ろしい景色になります」。主人公の荒ぶる男も、桜の森の花の下が恐ろしく嫌な感じがする。

 男は、鈴鹿峠を通る人々から金品を奪い、女をかどわかして自分の妻にしている。すでに人の妻がいる。近頃、通行人を襲って、亭主を切り殺し、新しく妻にした女はこれまでにない美形で、しかし非常な我儘である。男は、新しく妻にした女の求めるままに、人の妻うちの一人を女中として残し、他の六人を切り殺してしまう。

新しい妻は、無理難題を押し付けるが、男はそれをすべて聞き入れる。ついには女の求めるままに、女と一緒に山を降りて都暮らしを始める。都では、妻の我執を満たすための凄惨な生活が続く。やがて、都の生活に満たされることのない男は、桜の森が満開になるころに山へ帰る決心をする。山への道すがら、妻を背負って満開の桜の森へさしかかった男を不安と孤独が襲う。背負っていた妻は口が耳まで裂けた老婆となり、鬼と化す。それを絞め殺す男の狂乱と消滅。「桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分かりません。あるいは『孤独』というものであったかもしれません」

確かに、誰もいない満開の桜の下では、ふと冷たい風が吹き、あるいは、はたと風がやみ、あたりから隔絶された孤独な自分を感じたりもする。今年も、桜の花を見に行こうと、何人かの人から誘いを受けた。誘ってくれた人たちは、ひとりで満開の桜の下に近づかない方がいいと、うすうす感づいているのかもしれない。ひとりで桜並木の満開の下を自転車で走るときには、そこで自転車を停めたりせずに素早く通り抜けるのがよい。

ところで、物語の舞台になる鈴鹿峠には山族や盗人にまつわる話が多い。『今昔物語集』には「鈴鹿山に於いて、蜂、盗人を刺し殺しし語」という説話もある。今年あたり、京都まで自転車で行ってみたいと思っているが、最大の難所は鈴鹿峠である。この際、恐ろしいのは、桜の森でも山賊の出没でもなく、険しい坂道とその標高である。


桜の花の満開の兆し
緑も萌えはじめる

満開の桜を愛でる
桜花繚乱春たけなわ
陽気で快活な
底抜けの春もあるが… 

風がないのに風が鳴ったり
物音ひとつしなかったり
桜の森の満開の下の秘密
それは孤独かもしれない

満開の桜の下の隔絶
散り敷く花びらは
孤独の断片

遠くに満開の桜をながめる
春が遠くへの憧れをいざなう


桜の並木の満開の下を 
春は立ち止まることなく
足早に通り過ぎる