冬をむかえる

冬をむかえる
'20.12.22 愛知県海部郡飛島村梅之郷 日光川排水機場付近にて撮影

2021年6月26日土曜日

鉄道沿線を走る

  鉄道マニアには、興味関心の向かうところによって、いろいろな人がいるらしい。マニアのことを鉄道オタク、鉄道ファン、鉄ちゃん、または鉄子などと呼ぶ。さらにその人たちは、撮り鉄、乗り鉄、時刻表鉄。車両鉄に模型鉄。更には音鉄、文字鉄、収集鉄等々に分けられる。何をする人かは概ね見当がつく。変ったところでは、葬式鉄というのもある。鉄道路線の廃止や車両のラストランを見送る人のことである。まさか、ファンを大切にする鉄道会社でも、駅や電車の中で葬式はさせてくれないだろう。

 こういう人たちからは、それは鉄道マニアやファンにあらずとか、外道、邪道といわれるかもしれないが、自転車で鉄道沿線を走るのが面白い。強いてマニアの分類に割り込むとすれば、線路の横を走るので「横鉄」か「脇鉄」、「沿線鉄」でもいい。無理に鉄道マニアに加わらなくてもいいが、自転車愛好家にはチャリダーか自転車女子くらいしか愛称がないので羨ましい。呼び方はともかく、線路沿いを走ってみる。幸い我が家の近くにはローカルな鉄道路線が3本もある。

 例えば、こういう具合である。我が家から最も近い三岐鉄道北勢線の東員駅へ行く。そこから、できるだけ線路に沿った道を選んで走りだす。線路の脇に道があるとは限らない。ときどき、道は線路から離れる。離れた場合は、できるだけ早く線路脇の道を探してもどる。線路が鉄橋や切り通しにかかるときは、そこから近い橋や道路を探して迂回する。再び、できるだけ近いところで線路脇にもどる。線路と再会できても、道はまたすぐに線路から離れることもあるが、諦めずにまた戻る。これを繰り返して、北勢線の両端、阿下喜、または西桑名駅まで走る。両駅へは同じ10㎞程度の距離だが、途中迂回が必要なので、多少距離が長くなる。

 例えば、こんなやり方もある。終着の阿下喜駅まで行って、近くを走る路線に乗り換える。北勢線阿下喜駅からなら、三岐鉄道の別の路線にある、西藤原駅または、伊勢治田駅あたりへワープする。そこから、また線路に沿って、自宅に近い北勢中央公園口駅まで戻り帰宅する。阿下喜駅から、近鉄湯の山線の菰野駅とか湯の山温泉口まで移動して、四日市駅までの沿線を走るのも面白い。同じ線路沿いでも、走るたびに選ぶ道を変えれば沿線の景色は千変万化。途中で疲れたら、線路を離れて自宅を目指せばいい。

 横鉄的、沿線鉄的走法は安心感が強い。電車の線路は急峻なところを通らないので、急な登り坂が少ない。駅と駅の間を走っているのだから、走行中の地点から一区間の半分の以下の距離に必ず駅がある。辺鄙なところを走っていても駅はある。無人駅でも飲み物の自販機くらいはあるので、水分補給には事欠かない。トイレの心配もない。アクシデントがあっても駅名を告げて家人に平身低頭、お迎えを頼むこともできる。自転車を駅の駐輪場に預けて、電車で帰宅することもできる。自転車を始めて、少しずつ走る距離を伸ばしたいと思う時期にはうってつけの走り方なのだ。

線路脇に整備された道があるとは限らない
いつの間にか道が線路から離れてしまう
(三岐鉄道北勢線 阿下喜駅付近)

電車に抜かれたり、すれ違ったり
電車を見下ろしたり、見上げたり
(三岐鉄道北勢線 旧六石駅付近)

蕎麦の畑が線路と道を隔てている
蕎麦の花の向こうを機関車が行く
離れてもまた会える道が見つかる
(三岐鉄道 丹生川駅付近)

突然追い抜いていく貨物列車に
慌ててカメラで追いすがる
にわか撮り鉄になっている
(三岐鉄道 三里駅付近)

にわかマニアたちと沿線鉄を試してみる
自転車が疲れてホームに上がっている
乗り手をおいて電車で帰るつもりか
この路線は自転車の意志で電車に乗れる
(三岐鉄道 西野尻駅)

操車場の近くまで行ってみた
いつもと様子の違う電車に出会う
(三岐鉄道 保々駅)

屋根の上を走るのは親子か恋人たちか
空に向かって駅舎の屋上を駆けのぼる
(三岐鉄道 北勢中央公園口駅)






2021年6月19日土曜日

自転車の骨格

 アルミ、カーボン、チタンにクロモリ。形状記憶合金まで加えると、メガネのフレームのことかと思うが、自転車のフレームの素材である。自転車の特性は、フレーム(パイプでできた骨格)の材質でほぼ決まる。自転車という乗り物が世に出た当初、フレームは木で作られていた。今から200年も前のことである。その後は、長く鉄が使われた。

 アルミニウム合金が使われるようになったのは50年ほど前である。1970年代にアルミ合金のフレームができると瞬く間に自転車界を席巻した。アルミ合金は軽い。しかも錆びにくい。軽さが命の自転車には願ってもない材料である。軽さを追求したカーボンやチタンという材料もあり、最近ではかなり普及している。高価な自転車のフレームはほとんどカーボンかチタン製だ。特にカーボン素材は錆とは無縁で超軽量。自転車の性能を追求すればカーボン製のフレームに行きつく。

 スポーツバイクを値段で大まかに分けると、入門用のごく安価な2.3万円から、20万円までの自転車はアルミ合金のフレームが多い。実用車もほとんどはアルミ製である。20万円を超える自転車になると、カーボンのフレームが主流である。100万円をこえる自転車もある。本格的なレースに使われる自転車には、ほとんどカーボンのフレームが使われている。

 アルミやカーボンが全盛ではあるが、クロム・モリブデン鋼(クロモリ)という鉄の一種を使ったフレームも根強く残っている。価格帯でいうと、10万円以上、20万円前後までの自転車に使われている。クロモリ鋼は重くて錆びやすい難点はあるが、粘りと弾性に富んでいる。薄くて細いフレームでも荷重に耐えることができる。路面からの振動をやわらげてくれるので、長時間乗っても疲れない。

 初めてクロスバイクを買うときに、雑誌やカタログを漁っていて、クロモリのフレームを知った。その後、ロードバイクやマウンテンバイクにも手を出すことになったが、すべてクロモリフレームのものを選んだ。今風の自転車に較べてフレームが細身で、色使いも地味なものが多い。乗り心地はしなやかでやさしい。これは魅力だ。高齢のライダーにもってこいである。

 知人の自転車と交換して乗ったり、バイクショップで試乗したり、いろいろな自転車に乗る機会があったが、アルミフレームは硬くて振動が大きい。長時間乗ると疲れるだろう。カーボン製は軽すぎて不安定だ。車体が跳ねて、脚の力が後輪に伝わりにくい気がする。速さを競うような乗り方をしない限り、無用の長物。体幹や脚力の強い人でないと漕げない。

 自転車は好みのスタイルと用途に合わせて選び、長くつきあいたい。のんびりと自転車旅を楽しむなら、しなやかで古典的な造形のクロモリフレームが一推しである。ただし、乗り手の嗜好と体力は千差万別なので、素人が声高に薦めることでもないだろう。

1818年 「ドライジーネ」
ドイツのドレイス男爵が発明
(Wikipediaによる)
ペダルのないキックバイク

2021年 トレック Emonda SLR9 eTap
カーボンフレーム
重量6.75kg ¥1,369,500
(TREKカタログによる)
車ならフェラーリやランボルギーニか

2012年 ブリヂストン・アンカーUC5
初めての愛車
クロモリフレームのクロスバイク
決め手は細いフレーム

2013年 ラレー カールトン・ビンテージ
2台目も決め手は細身のクロモリフレーム
しなやかで端正なたたずまい

2018年 アラヤ マディ・フォックス
3台目もMTBでは珍しいクロモリフレーム
細いフレームは景色の邪魔をしない
MTBの無骨さを中和してくれる

強靭、軽量、耐震、耐久、何よりも美観
橋梁も自転車もフレームの要素は同じ

赤いフレームが道を位置づける
道を通りぬける気分を決める

赤いフレームが神の居場所を決める
気分を静謐な場所へいざなう







2021年6月12日土曜日

60年の時を経て

今年は例年になく梅雨入りが早かった。梅雨入り宣言が少し早すぎたのか、今のところ雨の日は少ない。自転車に乗る計画に差し障りが出ないのはありがたい。

 先週は、自転車仲間と旧東海道を走ってみようということになった。東海道5342番目の桑名宿にある七里の渡し跡から44番目の鈴鹿市石薬師宿まで、古い街道を辿った。いつものように、4人の自宅から等距離の場所にあるコンビニに集合する。七里の渡し跡まで15㎞ほど走って、いよいよ遠乗りのスタートいうことになる。途中、四日市宿を抜け、伊勢路と東海道が分岐する日永の追分で京へ上る道をとる。走り始めて35㎞ほどで無事石薬師宿に到着した。

途中、休憩や昼食の時間をゆっくりとりながら、いつものペースでのんびりと80㎞近くを走った。1日の自転車旅もいよいよ終わりに近づき、我が家からわずか数㎞のところまで帰りついてから、思いがけず懐かしい場所にめぐり会うことになった。

 三岐鉄道の北勢中央公園口駅からほど近い切り通しにさしかかったとき、道路脇に入る草生(くさむ)した小径が目にとまった。人跡が絶えているようで、よく見ないと道のあることも判らない。子どものころには何度も通ったことのある道だ。自転車を停めて仲間をその道に誘った。雑草の生い茂った道を少し登ると、記憶の底に残っているのと同じ跨線橋が掛かっていた。自転車に乗れるようになったころに、年上の子たちに連れてきてもらった場所だ。

 橋の周りには、雑木林の名残があるが、橋を渡った先は開けていて、住宅や手入れの行き届いた畑が見える。子どものころの記憶では、橋を包むように鬱蒼と茂る里山が続いていたはずだ。橋の上から物を投げたり、小便をしたりしないように、学校で注意を受けた憶えがある。そんないたずらの前例があったのだろう。跨線橋の近くから線路に降りて、レールに耳をあてて列車が近づくのを確かめたり、鉄橋を歩いて渡ったり、危険な遊びをしたことを思い出す。先生や大人たちには絶対に言えない秘密なので、60年間も封印してきた。

 目を凝らして橋の向こうの雑木の中を見ると、ターザンごっこに使った縄が樹々の枝から下がっている。樹の幹の根方(ねかた)には、枝を組んでこしらえた隠れ家が、昔のままの姿で残っている。一緒に行った仲間の顔が、いつの間にか昔馴染みの子どもたちの顔になっていて、橋の上では60年前の時間がそのまま流れている。

 跨線橋の下を過ぎる電車の音でふと我に返った。鬱蒼と茂っていた雑木林は空が透けて見えるほどに切り拓かれている。とはいえ、線路から響いて来る電車の音は、60年前と同じように耳にとどいたのだ。この日の古い街道を行く自転車旅は、懐かしい場所と時間に往き合うための長い序章だったのかもしれない。

小径を辿ると古い跨線橋があった
60年の時を経て同じ風が吹き渡っている

橋の下に線路が伸びていて
辿れば子どもの自分に出会える

聞き覚えのある音を響かせて
電車が橋の下を過ぎる

長い貨物列車がやって来る
貨車の台数に合わせて
子どもたちは未来の歳月を数える

長い貨物列車が過ぎていく
貨車の台数に合わせて
私は過ぎ去った歳月を数えている

橋の向こうに雑木林が名残をとどめる
ターザンのロープも
子どもたちの隠れ家も
跡形もなく消えた



2021年6月5日土曜日

正確無比

  几帳面とか神経質というわけでもないが、時計が正確に動いていないと気がすまない時期があった。初めて自分専用に持った時計は、中学生のときにもらった父のお古の目覚まし時計だった。毎晩発条ぜんまいを巻いた。その都度、時刻合わせもしていた記憶2つ目の時計は、高校の入学祝いに叔父が買ってくれた腕時計である。シチズンの自動巻き。流行の最先端。カレンダーもついていた。時刻表示に誤差が少ないのも自慢だった。分厚くて重たくて、新品ということもあって、腕が妙に疲れた。

 デジタルの腕時計が発売されたときは驚いた。ストップウォッチにアラーム、文字盤の照明までついていた。その後、電波時計が売り出されて、時計の時刻合わせは全く必要がなくなった。時計が正確に動くことが当たり前になったら、かえって不正確なことに寛容になった。最近は、昔ながらのアナログの腕時計を使っていた。薄くて軽くて、安価なので腕が疲れない。わずかに狂いが出るが、ときどきそれを自分で修正する手間も気に入っていた。世間の時間と自分の時間の誤差を埋める作業である。

 今夜、机の前に座っていて今更ながらに驚いた。自分の周りの時計は、修正しなくても全く同じ時刻を表示していて誤差がない。正確無比である。コンピュータの画面の右下に、小さく時刻が表示されている。コンピュータだから正確とはかぎらないと思い、スマートフォンの画面の時刻と較べてみた。全く同じだ。机の端に置いていた電子ブックの画面を開く。画面の上に小さく表示された時刻も変わりはない。はずしていた腕時計も確認してみる。昨年から使っているスマートウォッチである。スマホとブルートゥースでつながって時刻を修正するので、標準時刻をぴったりと表示していて当たり前である。

 持ち主が気づかない間に、時計たちはWi-Fiやらブルートゥースやら、それにGPSも使って、自分たちで時刻や場所のやり取りをしている。電源を切っても、バックアップされていて、動きは止まらない。時刻合わせは必要ない。時計たちが正確に時を刻む努力をしているうちはいいが、いずれ共謀して、わざとでたらめな時刻を表示し始めたら、世界は大混乱するに違いない。時計たちだけで勝手に絆を深めないように気をつけていたい。

 自転車に乗るときはサイクルコンピュータを使う。これがあまり高価なものではないので、時計に誤差が出る。誤差が出れば走行時間や平均速度の計算にも狂いが生じる。ときどき時刻合わせをするのは面倒だが、今のところ他の時計たちと共謀せず、自転車の動きを尊重してくれている。正確無比ではないところがかえって信頼できる。時の流れを時計に任せっ放しにせずに、自分でも早めたり遅らせたりする。自分の時間は自分で確かめる。自転車に乗るときは、自分の時間を自分の好きな長さで使いたい。

麦畑には麦の時間が流れている
麦の初夏は麦の晩秋である

麦は麦の時間で育ち
麦は麦の時に色づく

速い列車の時間は速く流れる

遅い列車の時間はゆっくりと流れる


階段をおりてしまった時間

      階段を登ろうとしている時間

自転車に乗ると自転車の時間が流れる
長くなったり短くなったり
速くなったり遅くなったり
正確無比ではなくてもいい
私には私の時間が流れているのだ