冬をむかえる

冬をむかえる
'20.12.22 愛知県海部郡飛島村梅之郷 日光川排水機場付近にて撮影

2020年7月25日土曜日

自転車のタイヤがパンクした


 きのう、自転車の後輪がパンクした。パンクに気づいたときの心持ちは、なんとも名状しがたい。ペダルが妙に重くなったと思っていると、徐々にその重さが増す。路面からの振動が体に直接伝わるころには、タイヤは見事にペシャンコにつぶれている。
 
 先週、前輪と後輪のタイヤもチューブも新品に交換したばかりである。今回は、タイヤを少し高価なものにした。ドイツ製である。ハンドメイド・イン・ジャーマニーとサイドウォールに誇らしげに書かれている。カーショップで安売りされている軽トラックのタイヤよりは断然高価。軽乗用車のタイヤの値段に迫る。
 
 タイヤを奮発したのには理由がある。最近、パンクが続いた。一緒に走る仲間が何人かいるが、彼らの自転車はパンクしない。(ひが)んでいるわけではないが、自分ばかりが不良をつかまされているのか自分の乗り方だけが悪いということでもないだろう。ならばということで、ちょっと高価ではあるが品質の良さそうなものを選んだそれが、30㎞ほど走っただけでパンクというありさま、なんという悲劇。チューブの品質によるところもあるので、タイヤばかりを責めるわけにもいかないが、とにかく、自転車悲惨物語である。
 
 仲間と走っているときにパンクをすると、他の人たちまで足止めすることになる。予定が狂う。心苦しい。修理に焦る。ちょっと長い休憩ということでご勘弁願うしかない。
 一人のときにパンクをすると、我ながら(あわ)れである。夏なら日陰を探す。冬の寒いときであれば、風を避けられる陽当たりの好い場所まで、とりあえず自転車を押して歩く。そもそも、自転車は乗り物なので、押して歩いているとすれ違う人に違和感をもたせてしまうらしい。曲りなりにもスポーツバイクの恰好をしていると、余計に不思議な感じがするのか。この人は一体何をしているのだろうという目で見られる。
 
 きのうは、強い日差しを避けて、病院の駐輪場の屋根の下を借りた。チューブを入れ替えるだけなので、所要時間は15分程度である。熟練した人ならもっと速いだろう。予備のチューブを1本は携行しているので、1度のパンクなら簡単に対応できる。2回目となると、チューブの穴をふさぐことになるのでひと手間増える。不運と諦めて修理するしかない。
 
 走る時間と距離が長ければ、パンクの確率が高くなるのは解る。解ってはいても、パンクした自転車だけは好きになれない。気を取り直し、開き直って修理にとりかかる。速く、正確にパンク修理ができる技を習得するいい機会である。原因を確かめて、次のパンクに備えるにはいい機会である。開き直るには、それが面倒なことでも、いい機会にめぐまれたと自分に言い聞かせるしかない。



新しいタイヤに交換した
いい機会なのでチューブも新調した
Continental GRAND PRIX CLASSIC 700×25C
クロスバイクには装備過剰?
Handmade in Germanyとロゴが入っている
どこがハンドメイドなのかよく判らないが…
信頼できそうなタイヤという気がする
これで、当分はパンクと縁が切れるはず…

ところが、交換した直後にパンクした
この写真は同じタイヤのものではないが…、
ホイールから外されたタイヤは哀しげである

マウンテンバイクならこんな道(?)も走るのだから
パンクしても不思議はない…
覚悟しているときには案外パンクしない

パンクさえしなければ…
どんな場所でも涼しい顔をして走っていられる

        番外
何事もいい機会なので…
この際、パンクの原因も調べておきましょう!!
チューブの損傷もチェック
きちんと修理のうえ、再利用しましょう!!!


何事もいい機会なので
自動車のタイヤもチェック入れときますよ!!!

日頃の点検をしていても
パンクするときはしますからね⁈






2020年7月18日土曜日

路面の状況、良し!?


 生きている間には、いいときも悪いときもある。平坦な道ばかりではない、ときには険しい道のりが待ち構えている。人生の区切り、学校の卒業式や結婚式の祝辞でよく聴くフレーズである。このあとには必ず、知恵や勇気でもって、あるいは力を合わせて、苦しいときを乗りきっていってほしい、そうすれば道は開けるという常套句が続く。お約束のような言い回しであるが、他に気の利いた言い方はないものか。
 
 かくいう私も、職業柄入学式や卒業式の祝辞を述べる機会があったので、よくそんなことを言った。若い人の結婚披露宴に招待されたときにも、同じようなことを口にした。
 自転車に乗るときも、これから進む道を見極めるのが難しいことがある。コース選びは楽しみだが、ときには一向に面白くない道に踏み迷う。思いもよらない険しい道に遭遇することもある。前方の路面の状況を見極めて走るのが意外に難しい。
 
 夏の生い茂った木々の枝が道路に濃い影を落していたりすると、路面の凹凸を隠してしまう。サングラスをかけていると、さらに見づらい。木漏れ日の下を軽快に駆け抜ける、というと気持ちが良さそうだが、意外な落とし穴がある。木の葉のトンネル。涼しそうだが、路面は暗くて見えにくい。
 
 オートバイや自動車は、サスペンションが道路の凸凹をいなしてくれるが、自転車の場合は直撃を受ける。突然、道路の突起に乗り上げたり、大きく口をあいた穴に前輪を落としたりしたら、まちがいなく転倒。タイヤが極端に細いので、側溝の蓋のすき間にタイヤがはまり込んだり、車の轍(わだち)に平衡をうしなったりもする。路面の状況を見誤ると危うい目にも合うが、それを見定めて走ることも楽しみの一つではある。

追記 私のスピーチ考 
 卒業式の式辞や結婚披露宴のスピーチをすると、「いいお話でした」と褒めていただくことがある。もちろん社交辞令である。どんなところが良かったですかなどと、お世辞を真に受けて訊こうものなら、相手は内容をほとんど覚えていなくて、困らせてしまうことになる。申し訳ないことではあるが、自分の卒業式のときの校長式辞や結婚式の主賓からいただいた祝辞の内容など覚えてはいない。
 
 ということであれば、スピーチはその場の印象が大事。聞く人の耳に快く響き、絶対に長すぎず、極端には短すぎない。漢語はさけて和語を使う。話がまだ続きそうなところで突然幕を引く。格調よりも心地よさ。式辞やスピーチの原稿を書くときには、そんなことに配慮したつもりである。ちなみに、漢語でなく和語を使うと、「配慮した」は、「気をくばった」ということになる。ぐっとやさしい。
 
 行く手の路面を見定めるのも、聴き手の関心を見極めるのも、これでなかなか難しい。



木々の影が濃い影を落とす
路面の濃淡が凹凸を隠す
さわやかに、軽快に走っていてもご用心!!
思わぬ道に迷い込む
光が魔法を使う
魔法にかかると路面の様子や方向さえも見失う



かなり登ってきた
うっかりすると、下の渓流へ転落しそう
熊が怖いので、ハンドルに鈴をつけている!?

険しいだけならまだいいけれど…
通せんぼではどうしようもない
せっかく登って来たのに、引き返せと言われても…勘弁してほしい!??

ほとんど使われていない高速道路の側道
路面新品、しかも平坦。貸し切りロード!!?
「未来に向かって輝かしい道を歩む!!」
 これも、華麗で偉大な常套句である!!!


2020年7月11日土曜日

めだかの学校

 長い間の教員生活でついた習い性は消えない。「学校」ときくと耳をそばだてる。自転車に乗っていてすれ違う学生さんは、みんな顔見知りのような気がする。元気よくあいさつをしてくれる子がいる。時には「がんばってください」、「熱中症に気をつけて」と優しく声をかけてくれる子もいる。
 通りすがりに見かける子どもたちの学校を想像する。あいさつをしたり声をかけたりしてくれる子たちの学校は、暖かい雰囲気と自由な気風に満ちているはずだ。
 ペダルを踏みながら、「めだかの学校」を歌ってみる。

めだかの学校は 川のなか
そっとのぞいて みてごらん
そっとのぞいて みてごらん
みんなで おゆうぎ しているよ

めだかの学校の めだかたち
だれが生徒か 先生か
だれが生徒か 先生か
みんなで げんきに あそんでる

めだかの学校は うれしそう
水にながれて つーいつい
水にながれて つーいつい
みんなが そろって つーいつい

 めだかの学校では、先生が威張らない。生徒も先生も一緒に、遊びや勉強に夢中になるので、区別がつかない。「めだかの学校はうれしそう」。うれしい学校へ通えるなんて、すてきなことである。
 
チイチイパッパ チイパッパ
すずめの学校の 先生は
むちをふりふり チイパッパ
生徒のすずめは わになって
お口をそろえて チイパッパ
まだまだいけない チイパッパ
も一度いっしょに チイパッパ
チイチイパッパ チイパッパ

すずめの学校」は、あまり感心しない。だいいち、やかまし。(むち)言語道断。生徒たちは、で、ダメ出しされうれ気持ない。学校は、自転車通り過る見知らぬおじさんに、天真爛漫ないろう。もちろん、子どもの科(とが)ではないけれど。

 自転車で走っていても、めだかの学校をとんと見かけない。少子化で統廃合がすすみ、学校が少なくなってしまったのか。子どもたちの学校とて同じ。山間を走っていると、廃校になった学校跡に行き合う。校庭に夏草がしげる。校舎や体育館がぽつんと置き去りにされている。めだかたちや子どもたちのうれしい場所が消えるのはさみしい。
 今は「日々是自転車」でも、教員根性は抜けない。ついつい学校のことなど考えている。

 ※ めだかたち、子どもたちの「たち」は本来は敬語 神や高貴な人につけた
   お子たち=お子さま方、という言い方を今でもする 公達、先達、友達



めだかの学校がありそうな場所で立ち止まる
そっとのぞいてみるが、近ごろ学校が見当たらない


こんな流れのところにはめだかの学校があったはずだが…

近づいてみても、どうも学校らしいものが見えない
自分が子どものころには、めだかの学校がたくさんあった

めだかの学校のありそうな小さな池をのぞいてみる
ここにも、学校が見当たらないし
遊んでいるらしいめだかの姿も見えない

廃校になった学校の昇降口
子どもたちでにぎわった場所だけれど…
二宮尊徳の像が佇んでいる

昼中でも子どもの姿が見えない校庭
地元の人たちの骨折りもあってか
校舎の周りの草は綺麗に刈り取られ、整備されている
廃校になっても愛校心は消えない
校舎の大時計が今も正確な時を刻んでいる(要拡大)

「子どもが少なくなっても、廃校にはすべきでない。子どもは地元で育てるべきだ」と言い続けていた友人が昨年亡くなった。めだかの学校も子どもたちの学校も、友人の姿さえも見かけなくなるのがさみしい。


   


2020年7月4日土曜日

自転車で遊ぶ


  遊びをせむとや生まれけむ
  戯(たはぶ)れせむとや生まれけむ
  遊ぶ子どもの声聞けば
  我が身さへこそゆるがるれ

「遊びをしようとして生まれてきたのであろうか。戯(たわむ)れをしようとして生まれてきたのであろうか。無邪気に遊んでいる子どもの声を聞いていると、私の身体や気持ちまで、つい動き出してしまいそうだ」
 後白河法皇(平安時代)は、今様と呼ばれる歌謡を好んだ。後世にそれを伝えようと、『梁塵秘抄((りょうじんひしょう)』に書き留めた。上の歌もその一つである。ちなみに、歌の最後の行、「こそ」「ゆるがるれ」は強意の係助詞「こそ」は已然形で受けるという「係り結びの法則」。高校の古典の授業が懐かしい。
 この歳になって、がんばって身体を鍛えることもない。身の程を知ることが大事。自転車は遊びと割り切って、邪気を捨てて楽しみたい。

 では、「遊び」とは何か。フランスの社会学者、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』を思い出してみる。
 ロジェ・カイヨワの遊びの定義
〇「自由な活動」遊戯が強制されないこと。強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
〇「隔離された活動」あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
〇「未確定な活動」ゲーム展開が決定されていたり、結果が分かっていたりしてはならない。ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。
〇「非生産的活動」財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。勝負開始時と同じ状態に帰着する。
〇「規則のある活動」約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。
〇「虚構の活動」日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。
 
 こんなややこしいことを考えていては、とても遊べるものではない。子どもの遊びを見ていて理屈を付けると、こんなことにになるのだろう。小難しいことは考えず、「我が身さえこそ ゆるがるれ」と言っている方が大人である。そうして、我が身がゆるぎはじめたら、自転車に乗る。

 自転車に乗っているときのことを想うと、カイヨワの定義が当てはまらなくもない。「強制」されず、「展開が未確定」で、何よりも「自由」。「財産や富」を生み出そうとしないというのが愉快である。日常に較べて二次的な現実、または、非現実に近い世界を、自転車は日常的に楽しませてくれる。


ロジェ・カイヨワの遊びの分類
自転車は「脱意志」「脱ルール」の範疇か?
めまい感覚というのがいい
自転車に乗っていると「運」もある(上の図参照)
運がよければ、素晴らしい光景が広がる
歌いたくなったり、叫びたくなったりする!??
とある神社の境内
かつては子どもたちのあそび場だった
お宮さんやお寺の境内で遊ぶ子どもを見かけなくなった
思いがけない光景は、突然来る!!?
大根、だいこん、ダイコン、DAIKON…
生産者には日常の光景が、通りすがりには非日常
ボーリングは競技スポーツなので「競争」
役目を終えたボーリング場の広告塔
思いがけない光景は、やはり突然現れる!!!
予想外の展開!??
今はあまり見かけない
「運」がよければ巡り合う
むかし遊んだ友だちと むかし遊んだ場所へ行く
むかし遊んだ友だちと むかし遊んだ遊びで遊ぶ 
むかし遊んだ友だちを いまも誘って一緒に遊ぶ