冬をむかえる

冬をむかえる
'20.12.22 愛知県海部郡飛島村梅之郷 日光川排水機場付近にて撮影

2023年7月29日土曜日

自転車再開

 11年間自転車に乗っているが、10日も続けて走らないということはこれまでなかった。父の葬儀の後しばらく乗るのを控えていた。ちょうどひと月になるので自転車を再開したいと思う。

 再開をするには時節がよくない。とにかく暑い。暑さに身体が慣れていないところへ、体力も衰えている。例年であれば、ずっと乗りつづけているので、梅雨の蒸し暑い時期も、梅雨明けの強烈な陽ざしの下でも、身体は少しずつ季節の変化になじんでくれている。

 水分を十分に取って適度に休憩をはさめば、1日中走っていられるくらいの体力はあると自負していた。今年は勝手が違う。朝に弱いので、起き出して外へ出るころには陽は十分に高く、真夏の日差しがふりそそぐ。自転車に乗る前には、必ずタイヤに空気を入れることにしているが、ポンプのハンドルを押すだけで汗が噴き出す。

 この陽ざしの中へ自転車を漕ぎ出すのかと思うと、勇気がいる。無謀なことをしているのではないかと思えてくる。例年、今の時期には年間の走行距離の半分、5,000㎞くらいは走っているが、今年はまだ3,000㎞に満たない。今年は自転車にばかり乗っていないで、人に会うことや話すことに時間を割きたいと思っていた。

 父の弔問に来ていただく人と会ったり、家にいることが多いので友だちが遊びに来てくれたりで、今年の方針通りにはなっている。

 とはいえ、全く自転車に乗らないでいるのは落ち着かない。今週になって少し乗り始めた。再開はゼロから始めるよりも難しい。中断する前の感覚とのずれや体力が落ちていることの不安が大きい。初心にかえるにはいい機会かもしれない。

 慎重に行きましょうと自分に言い聞かせてゆっくりと走り出せば、猛暑とはいえ久しぶりに自転車できる風が心地よい。空の青さと樹々の緑がまぶしい。ペダルを踏みだすと、身体の力と軽快なリズムが蘇えってくる。いつの間にか爽快さが暑さや不安を追い抜き置き去りにする。再開早々つい遠くまで走ってみたくなった。

家にいれば
庭の芝生も
自転車も
手入れができて
きれいにはなる

少し走ってみる
リズムが蘇える

いつの間にか
夏が来ていて
夏にとけこむ

自転車をつたわって
感覚が蘇えってくる

廃校になった
小学校も
今は夏休みだ

夏がすぎても
子どもたちは
もどってこない
再開ができることもあれば
再開ができないこともある





2023年7月22日土曜日

自転車の出番あり

  父の葬儀を終えたが、その後も弔問客が続いている。通夜や葬儀に参列できなかったといって、家を訪ねてくださる人がある。留守にしているわけにはいかない。

 家にいつづけて身体を動かさないとどうも体調がよろしくない。自転車にはしばらく乗っていない。屋外へ出て狭い庭の芝生を刈ってばかりいると、芝生の元気までなくなりそうだ。

 暑いので家にこもって映画など観ている時間がここのところ増えた。何本も同じような傾向の作品ばかり観ていては飽き足りない。この際、変わった映画も観てやろうという気になる。

無声映画など面白そうだ。小津安二郎監督『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932)、『出来ごころ』(1933)。これが、妙に新鮮である。モノトーンの画面に慣れると、色彩が見えてくる。父の子ども時代くらいに撮られた作品だろう。

 自分が生まれ育った時代の作品も探してみる。同じ小津監督の『父ありき』(1942)、『長屋紳士録(1947)、戦後の作品になると役者はセリフをしゃべる。さらに、『東京物語』(1953)、『東京暮色』(1957)、ちょうど私の生まれたころである。小津監督の映画は品行方正で、枠にとらわれ過ぎのきらいもある。ちょっと窮屈で退屈になる。少し傾向のちがった同時代の作品を探してみると、ありました。

久松静児監督の『警察日記』(1955) 、『続・警察日記』(1955)。ここまで来てようやく、映画の中に自転車の出番も、ありました。警察署の日々を描く作品なので、おまわりさんの自転車が続々と登場。古い時代を設定をして撮った映画ではなく、時代はリアルガチなので興味は尽きない。

町の中をゆっくりと警らする自転車、事件現場へ急ぐ自転車。警察官が大勢で駆けつけたと思わせる何台も駐輪された自転車。役者の演技とは別のところで、自転車も演技する。当時は新しかったはずの、時代を経て今は古い自転車。つい、そういうところへ目が向かう。悠長ともいえる物語の展開とノスタルジー。こんな映画もあるし、こんな映画の観方もあって、自転車の出番もあるというお話。

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時代をさかのぼれば
見えてくるものがある

これと同じ光景を
小学校の帰り道で
見たような気がする

馬とすれちがった
おまわりさんに
私も同じ道で
すれちがった

映画のおまわりさんは
家の近くの駐在所にも
いた人のような気がする

ぼく(右)も
同じ時代を生きた
子ども心に
おまわりさんは
怖かった

時代をさかのぼれば
同じ場所に行きつく


2023年7月15日土曜日

次の予定

  走行会を無事に終えて、予定の場所へ帰り着くとする。「では、次回は来週の後半くらいで、天気と相談しながら日取りを決めて走りましょう」と、簡単に約束をして別れる。次の走行会で何か特別の企画などがあるときは、集合場所や日時、準備物まで打ち合わせてから解散する。

 中学校の教員をしていたので、転勤はつきものだった。長年月にわたって同じ学校で勤務をしないという決まりがあって、いつまでも同じ学校にはいつづけられない。年度末が近づいて、人事異動があるかもしれないと思うと、気分が落ち着かない。異動が発令されれば、これまでの仕事の整理をして、次の勤務校に移る準備をする。走行会にしても、仕事にしても、一段落するころには必ず次の予定があるということだ。走行会はこれにて解散と誰かが言わない限り、次の予定はその次の予定へとつながる。

 仕事のことにもどれば、たった一度だけ、次の予定がない人事異動があった。定年退職である。次の年には、自分はもうどこの学校にもいない。そう決まっているので、次の予定もない。異動の準備をする必要はない。予定がないというのは気楽なものだと感じたが、実は、送別会や退職祝いの会に招いてもらうという次の予定が待っていた。

 先月、父は、自分の予定をすべて白紙にもどして永い眠りについた。人生の最後に一度だけ、次の予定を全く考えなくてよい刻限がおとずれる。残った者たちは、故人を送るために、次々と予定を立てることになるが、旅立つ本人は自分にかかわる次の予定をすべて帳消しにしてしまう。

 次の予定を全く考慮しなくてもよい機会が、人生の最後におとずれると思うとそのときが楽しみだ。「あとのことは全てお任せします。どうぞよろしくお取り計らいください」と次の予定をすべて投げ出してしまうのは、きっと気分がいいだろう。そんなことを思いながらも、今のところは弔問に来ていただく人の対応や父の遺品整理で、次に自転車に乗る予定を立てられずに困っている。

次の予定をこなすために
愛用の自転車を手入れしたと
走行会仲間から連絡があった

次の予定のために
自転車を手入れしている仲間が
他にもいる


次の予定のために
今日の予定をこなしている

これといって次の予定のない日には
ずっと先の予定のことを考えている

明日もあさっても
来週も来月も来年も
その先もずっと
次の予定のないときが
いつかやってくる





2023年7月8日土曜日

父の遺したもの

 「Aujourd'hui, maman est morte.(今日、ママンが死んだ)」。カミュの『異邦人』の有名な書き出しである。先週、私の父も逝った。99歳と6カ月の生涯だった。

 父の死について書き出すのは難しい。『異邦人』の主人公、ムルソーのことばを借りた。もって回ったいい方になった。物語の前後はかなり異なる。

 父は最晩年の5年間を介護施設でお世話になった。コロナ禍の影響で、外出も面会もままならぬ時期が続いた。外の世界にふれることにも、人と会うことにも不自由でさみしい想いをしただろう。最後は眠るように静かに息を引き取ったのが、残った者の救いである。

 大正12年に父はかなり裕福な家に生まれたらしい。ところが父の親の世代が良くなかった。私の祖父の兄弟たちがいろいろな事業に手を出しては失敗をした。家財はたちまち尽き、父の幼少期は貧しさのどん底だった。学資にも事欠く始末で、父は尋常高等小学校を卒業すると働かざるをえなかった。手先の器用さを活かして機械工になった。戦時中は戦闘機の整備をしていたという話を聞いた。

 私の記憶にある父は、古いオートバイをどこからともなく手に入れて来て、夜遅くまでいじっていた。調子よく走るようになると、他の人に譲って、別のものを持ち込む。思うように調子が出ないと不機嫌だったのを覚えている。そうでなくても普段からとっつきにくいところがあった。

 父の若いころの数少ない写真が残されたアルバムを探し当てた。戦中、戦後の厳しい時代を生き抜いた姿が残されている。時代が少し下ると写真の枚数が増える。生活に多少の余裕も出てきたのだろう。晩年は頑固さも失せて、好々爺然としていた。

 アルバムの中に、私が自転車に乗っている写真を見つけた。父が改造してくれたと思える跡が残っている。オートバイをいじる片手間に、自転車を作ってくれたのか。今、私がマゴチャリを作っているのと同じようなものだ。知らぬうちに、父はいろいろなものを私に遺してくれている。

一家を支えた
父の業

世代を超えて
同じ情景

大きすぎる自転車は
座布団がサドル代わり

補助輪は
父の手製か

サドルのある自転車も
こしらえてくれた

整備中のオートバイに
跨らせてもらう
父の弟とツーショット

孫娘の自転車を
男の子用に改造
父の作った
最後のマゴチャリ
威風堂々




2023年7月1日土曜日

マゴチャリ(孫の自転車)Ⅱ

  中国の人がやっている廃品業の店で、子ども用自転車を1,000円で買ったことは前にも書いた。これは乗れないと思うが買っても大丈夫かと、店主の方が心配していた。フレームや部品はかなり錆がすすんで、タイヤは擦り減りパンクしていた。

 危ないと思われるタイヤやブレーキなどは新しい部品をネットで購入して交換した。安いホイールを買ったら、新品にもかかわらず軽く回らない。ハブ(軸)を分解してグリスアップするというおまけの仕事までついて来た。

 廃品の自転車ということは、孫本人にはいわずに、出来上がってからを見せることも考えた。再生させるということも伝えたかったで、種明かしをした。ハンドル周りの部品やペダルなど最後に組み付けるところは、孫にも手伝ってもらった。

 いよいよ試乗である。初めから道路へ乗り出すわけにはいかない。公園自転車デビューということになった。小さな自転車を乗り回していたので、公園内で走ることにためらいはない。勢い込んで乗り出すが、今までと勝手が違う。大きくて重い、しかも何と6段変速付き。走り出してみると勝手が違うので戸惑っている。

 おっかなびっくり少し走るだけで、もっとスピードを落とせと言わなければならないほどに乗りこなす。しばらくはわが家に自転車を置いて、孫と一緒に乗ろうと思っていたが、自分の家に持ち帰りたいといって、その日のうちに父親の車に積んで帰っていった。

 後日譚である。孫の家の向かいに孫と同じ歳の男の子がいる。孫の家を訪ねて、二人が自転車で遊んでいるところに出くわした。「このおじいちゃんがぼくの自転車を作ったんやで」、「おじいちゃんは、自転車でどこまででも行く人やで」と私を友だちに紹介してくれた。 

 再生した自転車をかなり気に入ってくれているようだ。孫のいう、「自転車でどこまででも行く」というのは、どこまでのことかよく判らないが、そのいい方はあながち間違いでもない。

自転車が小さくなったと
みんながいうのだけれど
ぼくが大きくなったのだ

自転車が大きくなっても
ぼくは小さくならないで
ぼくもまた大きくなった

早く乗れるように
ぼくも組み立てを
手伝うことにする

はじめて乗ってみたら
大きくなった自転車は
ちょっと手ごわそうだ

でも少し走れば
ほらこのとおり

これなら自転車で
どこまでも行ける