冬をむかえる

冬をむかえる
'20.12.22 愛知県海部郡飛島村梅之郷 日光川排水機場付近にて撮影

2021年12月25日土曜日

転ばぬ先に杖

 「馬ごとにこはきものなり。人の力の争ふベからずと知るべし。乗る馬をば、先ずよく見て、強き所・弱き所を知るべし。次に、(くつわ)・鞍の具(あやう)きことやあると見て、心に懸かる事あらば、その馬を馳すべからず。この用意を忘れざるを馬乗りとは申すなり。これ、秘蔵の事なり」。『徒然草の第186段に、吉田という馬乗りが言ったこととして、こう書かれている。

 自転車も、クロスバイク、ロードバイクやマウンテンバイクなどといろいろな種類のものに乗っていると、その自転車ごとに、手ごわいものである。馬は人の力で争っても及ばないものと知れとあるが、自転車も侮ってはいけない。自転車は機械なので、人間の力の及ばない仕事をしてくれる。それには危険も伴う。まずは、よく見て、どんな特徴のある自転車なのかを知るべきだろう。

 次には、轡・鞍ではないが、乗車のポジションやサドルの位置、ブレーキの効き具合や変速機の調子などに危ないと思うところがないか確認することも馬と同じである。ちょっとでも、気になるところがあれば、その自転車に乗って走ってはいけない。この用心を忘れない人が、本当の自転車乗りというものである。「これ秘蔵の事なり」。自転車に乗るときの大事な秘訣なのである。

 兼好さんの時代に自転車があれば、馬乗りと言わず、自転車乗りの秘蔵の事を書いたかもしれない。

 少し前になるが、朝日新聞に、「点検 自転車人気 乗る前に」「低い整備意識 故障・不具合で大けが」という見出しの記事が掲載されていた。

「コロナ禍でニーズが高まる自転車について、大半の人が点検や整備をする習慣がないとの調査結果が公表された」「au損害保険が(略)公表したアンケートによると、乗車前点検について『ほとんどしない』『全くしない』と回答したのが合わせて86.9%」「故障や不具合が原因の事故に遭ったり遭いそうになったりした人も19.5%いた」とある。

 記事の後半では自転車保険にふれ、加入を勧めている。乗り慣れている油断から、思いがけない事故が起きる。よく見て、強き所・弱き所を知り、危ないと思ったら乗らないで点検することをこの記事でも取り上げている。

 今年は、自転車の年間走行距離が1万㎞を超えた。毎日休まず27㎞走らないと1万㎞にはならない。多少の膝の痛みがあったが、幸い大きなトラブルはなかった。自分の自転車をよく見て、ブレーキの効き具合、タイヤの空気圧や変速機の調子を確かめ、異音が出ていることはないかと心に懸けて、体調とも相談しながら走っていることが功を奏していると思っている。

 自転車に乗るのに、杖をつくわけにもいかないが、転ばぬ先に杖を準備しておくくらい「用意を忘れざる」自転車乗りを心がけ、さて、来年も今年のペースで乗れるかどうか。


師走の空に下に
自転車をおく
今年は1万㎞も走った

時間に置き去りにされたものと
時間を追いつづけているものと

自転車には自転車の
時間が流れている

道が突然閉じられていたり

道はそれでもその先へつづいていたり

目を凝らして
用意を忘れなければ
秘蔵のことが見えてくる

 

2021年12月18日土曜日

拘る(こだわる)

 自転車のこと一つとっても、人によって拘るところが違うようだ。拘泥するなどというと、何だか悪い拘りのような語感がある。泥沼にはまっているような、泥がこびりついているような、という連想をするのは自分だけだろうか。何かに拘って、突き詰めようとすることは悪いことではない。むしろ、モチベーションを高めることになる。

 はじめてスポーツバイクに乗り始めたころは、走行距離に拘っていた。1日に何キロ走れるか。どこまで自転車で行けるか。走り始めてみたら、案外遠くまで行けるので、それが面白くなったのである。それまでは、自転車を通学に使ったり、近所へ買い物に行くときや村の寄り合いに乗って行ったりするくらいしか考えられなかった。せいぜい4~5㎞も乗ればいいところだろうというのが、自転車のイメージだった。

 クロスバイクを手に入れて乗り始めたら、20㎞、30㎞は簡単に乗りつづけられることが判った。1日中走っていられるし、そうすれば、走行距離は100㎞を超える。走行距離への拘りである。

 自転車に乗って出かけるようになると、同じような自転車に乗っている人と出会う。自転車を見せてももらったり、話を聞いたりしていると、自転車そのものへの拘りに気づく。雑誌や自転車に関する書籍も買い込んで、いろいろな部品や用品にも拘り始める。少しレトロな感じのする自転車がいい。年齢相応の雰囲気がある自転車に乗りたい。自転車を自己流で改造するという拘りである。

 それほどスピードを出すわけではないが、少しは速く、遠くまで行きたいと思って、ロードバイクも手に入れることになった。舗装路ばかりでは物足りない。荒れた山道へも入って行きたい。そう思ってマウンテンバイクも買ってしまった。用途の違う自転車を試したいという拘りである。

 次から次へと、拘ることが湧いてきてきりがない。新しいものを求め、のめり込むのはいいが、厳に慎まなければならいないことがある。他の人に自分の拘りを押し付けることである。ロードバイクでないと自転車ではないとか、マウンテンバイク以外の自転車に乗っているものは自転車乗りではないと主張をする人もあるようだ。人には人の、事や物への拘りがきっとある。自分と同じであることを人に求め、強要し、自分の拘りを吹聴するのはあまり格好がよろしくない。

自転車と付き合っているうちに、それとも、自転車に付き合ってもらっているうちに、拘ることが増えてきた。その拘りも自分だけの密かな楽しみということにしておかないと、顰蹙を買うことになりそうだ。 趣味などというようなものは、拘りのかたまりである。拘りもたしなみのうちくらいにしておきたい。執着し過ぎて泥沼にはまり、頭だけ出しているようではつまらない。 


冬にこだわって
冬に分け入る

冬にこだわって
冬の道を行く

冬にこだわって
冬の里山を巡る

冬にこだわれば
冬の展望

冬にこだわれば
冬の清澄

冬には冬のざわめき
遠くに少年たちの
声がきこえる





2021年12月11日土曜日

磨く

 師走ともなれば、スーパーやホームセンターでは季節商品として掃除用具が目立つところに並べられる。車の洗車グッズも同じような扱いを受けている。陳列棚を見ていると、「鏡面仕上げ」と銘打ったワックスがある。自動車用のワックスにも家の床用のものにもある。「激ツヤ」「高光沢」などと外箱や容器に大書したものもある。それらのワックスを使えば、鏡のように表面がきれいになり、驚くほどの艶がでるというアピールだろう。

息子が小さかったころに、「父さんは鏡面仕上げが好きやね」と言っていたのを思い出す。どうせワックスをかけて磨くなら、艶が際立って、光沢が冴える方が磨き甲斐がある。磨けば即結果に現れるので気持ちがいい。鏡面仕上げに憧れる。

 とはいえ、本当に光沢を出そうとすると、なかなか一筋縄にはいかない。何を磨くときでも、下地をきちんと整えて、汚れを落としておくことが大事である。汚れの上からワックスを引いても、うまく塗膜ができないので、きれいな艶は得られない。高価なワックスを買って、簡単にきれいな艶を出そうとしても思うようにうまくいかない。

 父は、98歳になる今も革の鞄を磨いている。手や腕の運動になるらしい。高価なワックスは必要ないという。ぼろ布で表面をこすり、ブラッシングを繰り返せば、革は光るというのが口癖である。下地をならして磨けば自ずと光沢は出る。ラジオを聴きながらせっせと鞄を磨く。リウマチで変形した指で器用にブラシを使って磨く。父の磨いた鞄の艶には深みがある。光らせようと思って磨いたのではなく、磨くという行為を楽しんでいる結果が深い光沢になる。

自転車の車体は面積が小さいので、磨くのに時間はかからない。だからといって、簡単に終わらせるのではなく、だからこそ時間をかけて磨けば、フレームもリムも、チェーンなども見違えるようにきれいな艶がでる。

 汚れがひどければ、洗剤やコンパウンドを使って下地を綺麗にする。それからワックスをかけておけば、しつこい汚れがつかない。普段はワックスを拭き取るときに使う布で、軽く表面を磨けば光沢は蘇る。磨くともなく磨く。チェーンなどは注油をしてしっかり拭っておけば光沢を帯びて、これが乗り心地にも関わるから侮れない。

 いくつになっても、自分を磨くことも大切だとは思うが、これは鞄や自転車を磨くように簡単にはいかない。下地を整えて、ということは、生き方を根元から見なおして、磨かなければならないのだから、一朝一夕にできることではない。

 この歳になって、自分を磨いてもそれほど光るとも思えない。父の鞄磨きのように、気張らずに力を抜いて、自分を磨くことを楽しめばいい。ひょっとしたら、深みのある艶が出るかもしれない。鏡面仕上げを目指すのは、愛用の自転車だけでいいだろう。ついでながら、年末の大掃除には床磨きもしたいとは思っている。


あなたが光を映さなければ
あなたの姿はわからない

あなたが光の波長を決めないと
あなたの色はわからない

あなたに光があたるとき
わたしはあなたがよく見える

あなたに光がとどかなくても
わたしはあなたを見ていたい

あなたが影にまぎれても
わたしはあなたを探すだろう

あなたが闇にしずんでも
わたしの指先はあなたの形を
わたしの網膜はあなたの色を
きっと覚えているだろう

あなたがあなたでいるかぎり
わたしはあなたを見つづける








2021年12月4日土曜日

偉大なる先輩たち

 県立北勢中央公園の遊歩道の端に自転車を停めていると、そばを通りかかった男性が同じように自転車を停めた。ふらりと自転車散歩に出たという装い(よそおい)である

「どうも帰り道が判らなくなってしまったようで…」と、その人が私に話しかけるともなく小声でつぶやいた。よく見るとかなりの年配である。「おじさん、どこからおみえですか」と尋ねる。「四日市。家は阿倉川なんやけど…」。それが本当なら、からここまで15㎞はあるだろう。まさか、徘徊、ということもあるまい。

「聖宝寺まで行った帰り道に、初めての道を通ったらどうも道に迷ったようで…」。何と、その日は朝から既に55㎞も走ったとの由。電動アシスト自転車の性能に詳しく、ナビアプリも装着してある。しばし、朝からの冒険譚に耳を傾ける。「家に帰ると70㎞くらいで、ちょうどアシストの電池がなくなりそうなんです」

「おじさん、おいくつですか」と訊いてみた。「85歳になりますわ」。一瞬なりとも徘徊などと思った自分は不届き千万、猛反省。アシスト付きの自転車とはいえ、1日の走行距離が70㎞。85歳にして、何たる健脚。公園の出口や帰り道の大まかな方向をお教えした。

「いろいろと話を聞いてもらって」、「ご親切に道まで教えてもらって」、「今日は家に帰って家内に話すいい土産話ができました」と、再び自転車にまたがって走っていかれた。「お気をつけて」と見送った後姿は、55㎞も走ったあととは思えないほど溌剌としていた。

 翌日、弥富・木曽岬方面へ出かけようとして、木曽川の堤にさしかかったところで、この日も年配の男性に声をかけられた。「どっから来たの?」、「あんたの自転車はええやつやなぁ」、「どこまででも行けそうやが」、「わたしは、家が弥富なんやけど、これから海津温泉まで行くんやわ」、「家から10㎞くらい来たけど、もう6、7㎞はあるでなぁ」。

 今回はこちらから尋ねなくても、尾張訛りで矢継ぎ早の語り口。昨日のこともあるので、徘徊を心配することもない。「失礼ですけど、おいくつですか」とようやく見つけた話の切れ間に尋ねた。「85やがね」。またしても85歳か。

 この人からは、弥富まではどういう道を走ると面白いか、木曽岬方面へはどう行けばいいか、いろいろな道を教えてもらった。日ごろから、この界隈を自転車で走り回っておられる様子。因みに、自転車は電動アシストなし。前かごに温泉グッズと思しきものを満載。偶然出会った85歳たちは超元気、恐れ入谷の鬼子母神。

 そういえば、私の尊敬する大先輩で、小学校の女性校長をされていた方も、妙齢。85歳近くになっておられるはずだ。先日、私のブログを読んでくださったというお電話をいただいた。しばらく話していると、ご自分の自転車の話題になった。

「ちょっと、私、横断歩道の真ん中でこけてねぇ」。「せんせ、お怪我はなかったですか」。「そら自転車だから、かすり傷くらいはできたけど、そんなことより、前のかごの荷物が道路に散らばって、カッコ悪くてねぇ…」。まだまだ、どこへでも自転車でお出かけになられる勢いだ。70歳の私などひよっこも同然。85歳の大先輩たちとその健脚に乾杯! 


季節は移ろい

季節の色はかわり

秋は深まるというけれど

移りかわるのは季節ではなく
わたしなのだ
コペルニクスになって考えてもみよ
わたしは自転し
動きつづけ
かわりつづける

枯れ葉が散れば
掃きあつめたり

季節の花を
咲かせたりしながら
わたしたちは移ろう
わたしたちは自転し公転している


2021年11月27日土曜日

ブログのご縁

  少し前にデジャヴについてブログに書いた。池から現れた巨大な乙姫さまの写真を添えた。この写真のことで、ブログを読んでくれた知人からメールがあった。どこで撮影したものかという問い合わせだった。

地図に撮影場所を書き込んで返信した。岐阜県安八郡輪之内町海松新田の「乙姫公園」。京都の伏見稲荷、愛知の豊川稲荷と並び、日本の三大稲荷といわれ「おちょぼさん」として知られるお千代保稲荷の近くにある。

昔、魚獲りが達者な若者が、寄りつかないように言われていた川へ投網をした。すると不思議な力で川の中に引き込まれ、そこで、美しい女性に「ここへ来てはいけない」と咎められたという輪之内町に伝わる「大榑川の竜宮」伝説をもとに作られた公園らしい。

写真の撮影場所を知りたいというメールにはその理由が書かれていた。

「高校時代、悪友と大晦日の夜、年越し詣りにおちょぼさんに行こう、となり、バイクで二人乗り、厳冬のなか揖斐川を北上。二人ともおちょぼさんの場所をしっかり把握できていない。遠くに車の明かりが見え始めた。そちらを目指してバイクはフラフラ走る。迷いながらすったもんだしていると、突然暗闇のなか池が現れる。通り抜けようとして浮かんだシルエットは大きな像。ギャーっ、とふたりは声も出せずにアクセルをふかす。そのあと、おそらくおちょぼさんに参らずに帰路のついた記憶。あれから50年。おちょぼさんに行くたびに、あの池の像はどこにあるのか、はたまたデジャヴかと気に留めて探したりしていました」

年越しに見た得体の知れない池の中の巨像が脳裏に焼き付いて、実際に見たものなのか幻想なのか、長い間メールの主を悩ませていたものらしい。偶然見たブログの写真がその時の像と重なったというわけだ。後日、追伸届いた自転車で乙姫公園を訪れて、50年も前に見た深夜の不思議な光景を、確認できたとのことであった。長年の謎がやっと解けたことに感動しきりという内容だった。

 自転車に乗っていると珍しい光景を目にし、いろいろな人に巡り合う。縁は異なもの味なものというのは男女の縁ばかりではなさそうだ。自転車のことをブログにしていると、ここでも思わぬ発見があったり、出会いがあったり、これも何かのご縁に違いない。

 先週は、膝に痛みがあったので、平坦な道をプラプラと走った。四日市市寺方町というところで、お堂の屋根が目に留まった。高角山大日寺。せまい境内には、しあわせ菩薩さんと幸福地蔵さんが並んで安置されている。門前には身代わり如来さんも鎮座ましまして、いかにも幸せになれそうな空間だ。本尊の一丈六尺の大日如来坐像は拝めなかったが、お寺を辞すると心なしか膝の痛みが和らいでいた。真夜中の乙姫さまとの強烈な出会いほどではないが、これもご縁。

ここはどこかと尋ねられた
昼間に行っても不思議な感じのする場所だ

50年ぶりに再会したと写真が送られてきた
厳寒の深夜、突然乙姫さまが現れたら
肝をつぶすに違いないない
「ここへ来てはいけない」

お千代保稲荷の鳥居が
ヘッドライトに浮かび上がるはずだった

ふとしたご縁で
しあわせ菩薩さんと
幸福地蔵さんに出会う

身代り菩薩さんとも
お会いできた

ご縁を運べるように
自転車に荷台を取り付た


2021年11月20日土曜日

E-bikeと走る

  10年ほど前に、父が電動アシスト自転車を買った。初めて乗ったときには驚いた。自分が怪力の持ち主になったかと錯覚する。ペダルに脚を乗せて軽く踏むと、自転車は大きな力で前に押し出される。最近、知人が電動アシスト付きのスポーツバイクを手に入れた。E-bikeといわれる新種の自転車である。

 電動アシスト自転車に初めて乗ったときにも驚いたが、E-bikeにはもっと驚かされる。外観は、ほとんどクロスバイクやロードバイクと見分けがつかない。これまでのアシスト付き自転車のように大きな電池をサドルの下につけているわけではない。アシストするモーターも小型のものがクランクの付け根にあって、ほとんど普通の自転車と見分けがつかない。しかも、驚くことに、スポーツバイクと同じような外装の変速機が装備されている。

 アシスト付きの自転車は、電池切れのときには重くて走りが難渋する。E-bikeは変速機を駆使すれば普通のスポーツバイクのようなスピードで走れる。電池が切れても自分の力で充分に走れるし、電源を切っておくこともできる。電池を節約し、アシストの量を抑えて走れば、航続距離は100㎞を超える。驚くほど長い時間、モーターの力を借りられる。

 E-bikeに乗る人たちと一緒に走りに出かけた。40㎞程の距離を2時間で走った。自分一人が普通のロードバイクで、あとの三人はE-bikeである。

 自転車は自分の力で「転がす」車という意味に解釈していたが、E-bikeは自転車が自分の力で「転がる」車だと考えを変えた方が良さそうだ。乗り手が転がすというより、転がる車に乗せてもらうことになる。もちろん、乗り手も多少の力を出さないと動かない。自転車なのでペダルは踏む、そうすれば勝手に走り出すという感覚だ。電源を切れば、普通の自転車のように自分の脚力だけでも走れるが、向かい風のときや登り坂でモーターの力を借りるうま味を覚えたら、電源を切る気にはなれないだろう。

 E-bikeは時速24㎞までアシストが使える。向かい風がどんなにきつくても、そのスピードまでならペダルを軽く踏んでいれば巡航できる。坂道でも我武者羅に力を入れる必要はない。モーターが見えない力で速度を保ってくれる。

 きつい向かい風の中、E-bikeと一緒に走ってもアシストのない私は、前を行く人の真後ろについて、スリップストリームを使わせてもらった。かなりパワーを節約して走れる。それでも、一度離されると、再びすぐ後ろにつくためには相当の力が要る。坂道では、スリップストリームの効果を期待できない。登坂はすべて自分の脚力に頼ることになる。

 E-bike一緒に走りながら考えた。E-bikeと同じペースで走るべきではない。こちらの走りに合わせてもらえば兎も角、E-bikeに合わせて走ったら、力のない私の脚や膝はまちがいなく壊れる。E-bikeは自転車ではない。全く次元の違う新種の乗り物なのだ。

ブリヂストン アシスタ U STD
売れ筋の電動アシスト自転車
自分が力持ちになったような気になる
ヤマハYPJ-R
外装22段変速のロードバイク
驚異的な走りを見せる
E-bikeという名の新しい乗り物(?)

E-bikeに乗る人たちと走る
同じペースで走るには
超人的な脚力が欲しい

アシストもなく
サポートもなく
心細さと一緒に走る


一緒に走るだけで
アシストされている

季節の色や風の匂い
この先にある風景が
気持ちをアシストしてくれる





2021年11月13日土曜日

いつか遠くへ

  定年退職後は、ゆっくりと旅行を楽しむとか、外国へ時間をかけて出かけるという人の話をよく耳にする。北海道へ行ったことがないので、自由な時間ができたら、行ってみたい。35年前に3年間勤務した、懐かしいイギリスの日本人学校や当時住んでいた場所を、もう一度訪ねたい。

 そう思いつつ、未だに実現していない。定年退職した当時、父は90歳を迎えようとしていた。高齢の父を一人家に残して、長い旅に出るわけにはいかない。父を連れての長旅も難しい。旅とは全く縁のない生活が続いている。この10年間に出かけたのは、京都への一泊二日の旅一度きりである。

 自転車に乗り始めてからは、ちょっと出かければ遠出をした気分になり、少し走ればひとり旅の気分も味わえる。それが旅への思いを代行してくれる。自転車ではるばる訪ねたと思うような場所でも、家からたかだか50㎞圏内である。父に何かあっても、タクシーに自転車を積んでもらって1・2時間もあれば家に帰り着く。安心な旅だ。

 松尾芭蕉の『奥の細道』の序文ほど格調は高くないが、自分も「いずれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」にいる。「舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いをむかふるものは、日々旅にして旅を(すみか)とす」と、芭蕉は云うが、近場で自転車に乗っているだけで老いてしまっては、本当の旅を住処にしたとはいえない。旅に出た気になって、自分を(あざむ)いている

 自転車に乗り始めるまでは、いずれ旅に出るときは車を使うことを想定していた。今なら、どんな長旅でも断然自転車で出かける。

 本物の自転車旅のプランも漠然と描いている。北海道へ行くなら、苫小牧まで車に自転車を積んでフェリーで行く。翌日から、午前中に自転車で50㎞ほど走り、次の町へ移動する。例えば初日は函館までか。妻は車で同じ行程を走る。町に着いたら、午後は妻の自転車も車から降ろして、二人で町を訪ねて回る。それを繰り返して、最北の宗谷岬まで行く。

 少々無謀かもしれないが、イギリスへ行くのもプランは同じだ。ロンドンまで飛行機で行く。自転車を2台、現地で調達する。レンタカーを借りる。私は自転車で、妻は自分の自転車を車に載せて、午前中に次の町へ移動する。例えば、オックスフォードまで行く。午後は自転車2台で町を訪ねて回る。35年前には妻もロンドンで車を運転していたので、今も乗れるだろう。

 このパターンに現実の町を当てはめて、旅をつづける。いつ旅立つチャンスが来てもいいように、午前中は自分一人で50㎞、午後は妻と二人で2030㎞と決めて、毎週2、3回は自転車で走るようにしている。

何歳になっても、準備さえしていれば旅に出られる。心配することはない。芭蕉も芭蕉が崇拝した西行も、晩年になって奥州を歩いて旅している。私には、自転車、ところによっては自動車という強い味方もある。

いつも走っている道が
北海道の道に変るだけだから
そりゃ走れるにちがいない

走りなれてるこの道が
イギリスの道に変っても
そりゃ走れるにちがいない

朝から一人で50㎞
午後には二人で20㎞
毎日それだけ走れたら
そりゃどこだって走れるさ

雨にも負けて
風にも負けたら
年寄りだから休めばいいさ

なぁに案ずることはない
芭蕉さんも西行さんも
てくてく歩いてその昔
みちのくまでも旅をした


2021年11月6日土曜日

私と私の自転車の限界

  「人生、下り坂最高」というのは、NHKの『こころ旅』という番組で、自転車旅を続けているメインキャラクターの火野正平さんが、下り坂にさしかかったときのセリフである。人生の下り坂に歩を進めてしまえば、それほど力みかえることもない。火野さんと年齢の近い私にもその心境はよく判る。自分の身の丈に合わせて無理なく生きていられるのはしあわせだ。

自転車は自転車で、これまた下り坂は最高なのである。同じように自転車に乗る自分にも火野さんの感覚がよく判る。何しろペダルを踏まなくても進む。位置エネルギーを使って、転がり下りるのだから、進むどころかどんどん加速する。そこに追い風でも加わろうものなら、さらにスピードは上がる。脚力には見合わないスピードで坂を下っていて、時速40㎞を超えると、ここらがほぼ限界かと思う。これ以上は危ない。

人によって、スピードの限界は異なる。私の瞬間最高速度の記録は、安物のサイクルコンピュータの計測によれば時速57㎞だ。計測値に誤差があるだろうし、人に言えば無用の心配をおかけするだろうから、大きな声で言うべき数値でもない。プロのロードレーサーともなれば、最高速度は時速80㎞にも達する。

 坂道ではなく、無風の平坦地ではどうか。私の場合、スピードが出過ぎるという危険はない。危険なほどスピードを出す脚力がないからである。本気でペダルを踏んでも、限界は時速35㎞。しかも、10分も走れば息が上がる。

 では、1日に走れる距離はどうか。これは100㎞程度である。日の長い時期であれば、もう30㎞くらいは余計に走れる。平均速度20㎞で走れば5時間で走り終える距離である。距離が長くなればなるほどスピードが落ち、休憩は多くなる。100kmの後半ともなれば、休憩の時間も長くなる。100㎞を走るには、都合7時間ほどかかる。

 安全に時速50㎞の速度まで走ることができて、トラブルなく1日に100㎞走るためには、自転車のコンディションを保つ整備も必要だ。自分でやれる整備は、これくらいのコンディションを維持するのが限界である。

 時々は仲間とも走るが、一緒に走るのは4人までが限界だと思っている。何台かで走れば、前と後ろの自転車に気を遣う。安全への配慮が数倍必要になる。一人なら1日100㎞走れても、何台かで走れば、その半分くらいが限界だろう。トラブルの発生率も高くなるし、休憩時間のおしゃべりも長くなる。助け合って走るとはいうものの、疲労も大きくなる。

 乗る人の脚力も自転車の性能も違うので、限界を決めるのは難しい。私と私の自転車との組み合わせに限って考えると、限界はこんなものだろう。70歳がすぐそこまで来て、私を待っている。私と私の自転車の限界が、今後広がることは考えにくい。あわてて限界など決めなくても、いずれは向こうからやってくる。下り坂にいることを甘受するふりをして、前方に登り坂があれば密かに挑戦してみる。限界は曖昧なままにしておいて、私は私の自転車で無理のない走りを心がける。


空が澄んでいてマリア像に出逢う
砂の一粒ひとつぶが限界を結び
砂の一粒ひとつぶで像を結んでいる

やがて限界を解かれる砂の像は
一粒ひとつぶの砂に還る
マリア像のための一粒だったことを
砂は砂の記憶に刻みつける

今週は東海道関宿まで行った
随分と遠出をしたが
道に限界の線は引かれていない

琉球朝顔が
限界を知らぬ気にひろがる

空の蒼が
限界を超えて深まっていく











2021年10月30日土曜日

取扱説明書

 家電製品や機械製品には取扱説明書がつきものだ。それを読めば、電気や機械に詳しくない人でも、製品を正しく安全に使いこなせるはずである。自転車は構造がシンプルとはいえ、命をあずける機械である。多くの人は子どものころから乗っていて、ごく自然に乗れるのが当たり前のようなところがある。取扱説明書など不要と思う人も多いだろう。ところが、スポーツ自転車を乗りこなそうとすると、そうはいかない。正しい乗車姿勢や複雑な変速機の使い方が求められる。

 はじめて手に入れたブリヂストン・アンカーというスポーツバイクには、「取扱説明書(オンロードスポーツ車編)」がついていた。自転車に関する法律の紹介から始まって、各部の名称、乗る前の重要点検ポイント、してはいけない危ない乗り方とつづく。正しい取扱いと使用条件も詳しく解説されている。説明は38ページに及び、ブレーキの使い方や変速の方法についても懇切に説明がされている。それでも、初めてスポーツバイクに乗る者が説明を熟読すれば、性能を活かし安全に乗れるかというと心もとない。    

作家の三島由紀夫が何かのインタビューに、「文学は薬や栄養剤ではないので、時には(太宰治の作品のように)死に誘っても構わない」と応えていたが、取扱説明書は絶対に死に誘ってはならない。文学作品のように感動や共感・反感を呼び覚ますことはないが、人の行為を正しく確実に導く役割がある。取扱説明書の作者は、文学者よりも表現力の才能を求められるかもしれない。説明書を作る人は、初心者でも間違いなく製品が使えるようにと、ことばの使い方や図説に苦心惨憺しているに違いない。

 2台目、3台目に買ったロードバイクとマウンテンバイクは、ブランド名は違うが、同じ新家工業(株)の製品である。使用目的の違う自転車に、全く同じ内容の取扱説明書が添えられている。必要なものは添えてありますというアリバイ作りのような気がしなくもない。作り手にもユーザーにも、自転車の取扱説明書など必要ないだろうという判断がどこかにあるとすると怖い。

 最近では、電子版の取扱説明書が普通になっていて、インターネットでダウンロードしないと手に入らないということもある。自転車販売店では、初めから乗りこなせることを前提にスポーツバイクを売っている。取扱説明書や販売店での製品説明が形式だけのおざなりなものになっているとするとそれも怖い。

 『妻のトリセツ』、『夫のトリセツ』から『わたしの取扱説明書』や『老いの取扱説明書』など、何だかわけのわからない取扱説明書も巷にはあふれている。不要なトリセツはともかく、自転車を手に入れたら取扱説明書を丁寧に読んでみることである。説明が多少不十分でも、自転車の意外な機能や特性、便利さに潜む危険などを発見するかもしれない。取扱説明書の取り扱いが大事なのである。 

乗り出す前に取扱説明書を読んで
乗ってからも取扱説明書を読んで
そうするうちに自転車が形を変えて
だんだん面白い乗り物になってくる

取扱説明書のお手入れの仕方を読んでも
自分流の手入れをきちんとしていないと
10年近くも乗っている自転車は光らない

ひらりとまたがって
ペダルを踏めば
どんなところへでも
連れて行ってくれる

幼稚園児のころに教わった乗り方で
どんな自転車にでも乗れてしまう
『人生に必要な知恵は
 すべて幼稚園の砂場で学んだ』
         (R.フルガム)
自転車の乗り方は
 すべて幼稚園児のころに学んだ

それでも遠くまで乗ろうとすれば
取扱説明書を読んでおくのがいい
里山の取扱説明書なんていうのも
そのうち欲しくなるかもしれない

ブリヂストン・アンカーの取扱説明書
そもそもどうやれば倒れずに乗れるのか
そんな説明はどこにも見当たらない

2種類の自転車に添えられた
内容は同じ取扱説明書
自転車の用途によって乗り方は違うし
説明の仕方によっては乗り方も変わる