定年退職後は、ゆっくりと旅行を楽しむとか、外国へ時間をかけて出かけるという人の話をよく耳にする。北海道へ行ったことがないので、自由な時間ができたら、行ってみたい。35年前に3年間勤務した、懐かしいイギリスの日本人学校や当時住んでいた場所を、もう一度訪ねたい。
そう思いつつ、未だに実現していない。定年退職した当時、父は90歳を迎えようとしていた。高齢の父を一人家に残して、長い旅に出るわけにはいかない。父を連れての長旅も難しい。旅とは全く縁のない生活が続いている。この10年間に出かけたのは、京都への一泊二日の旅一度きりである。
自転車に乗り始めてからは、ちょっと出かければ遠出をした気分になり、少し走ればひとり旅の気分も味わえる。それが旅への思いを代行してくれる。自転車ではるばる訪ねたと思うような場所でも、家からたかだか50㎞圏内である。父に何かあっても、タクシーに自転車を積んでもらって1・2時間もあれば家に帰り着く。安心な旅だ。
松尾芭蕉の『奥の細道』の序文ほど格調は高くないが、自分も「いずれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」にいる。「舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いをむかふるものは、日々旅にして旅を栖(すみか)とす」と、芭蕉は云うが、近場で自転車に乗っているだけで老いてしまっては、本当の旅を住処にしたとはいえない。旅に出た気になって、自分を欺いている。
自転車に乗り始めるまでは、いずれ旅に出るときは車を使うことを想定していた。今なら、どんな長旅でも断然自転車で出かける。
本物の自転車旅のプランも漠然と描いている。北海道へ行くなら、苫小牧まで車に自転車を積んでフェリーで行く。翌日から、午前中に自転車で50㎞ほど走り、次の町へ移動する。例えば初日は函館までか。妻は車で同じ行程を走る。町に着いたら、午後は妻の自転車も車から降ろして、二人で町を訪ねて回る。それを繰り返して、最北の宗谷岬まで行く。
少々無謀かもしれないが、イギリスへ行くのもプランは同じだ。ロンドンまで飛行機で行く。自転車を2台、現地で調達する。レンタカーを借りる。私は自転車で、妻は自分の自転車を車に載せて、午前中に次の町へ移動する。例えば、オックスフォードまで行く。午後は自転車2台で町を訪ねて回る。35年前には妻もロンドンで車を運転していたので、今も乗れるだろう。
このパターンに現実の町を当てはめて、旅をつづける。いつ旅立つチャンスが来てもいいように、午前中は自分一人で50㎞、午後は妻と二人で20~30㎞と決めて、毎週2、3回は自転車で走るようにしている。
何歳になっても、準備さえしていれば旅に出られる。心配することはない。芭蕉も芭蕉が崇拝した西行も、晩年になって奥州を歩いて旅している。私には、自転車、ところによっては自動車という強い味方もある。
いつも走っている道が 北海道の道に変るだけだから そりゃ走れるにちがいない |
走りなれてるこの道が イギリスの道に変っても そりゃ走れるにちがいない |
朝から一人で50㎞ 午後には二人で20㎞ 毎日それだけ走れたら そりゃどこだって走れるさ |
雨にも負けて 風にも負けたら 年寄りだから休めばいいさ |
なぁに案ずることはない 芭蕉さんも西行さんも てくてく歩いてその昔 みちのくまでも旅をした |
今回は心にしみるお話でした。
返信削除この10年間は、お父様のことを思うと遠くへ出かけることもできない状況。
しかし、そんな縛りのなかでも自分ができることの楽しみを見つけていく。
私は何十年もほとんど縛られることなく、自由気ままに好きなことができる環境でありながら、
大したことはやっていませんでした。行こうと思えば、世界一周も可能なのに・・・。
一つには、旅行がそれほど魅力的でないというか自分自身が好きではないということがおもな原因です。
でもこの3年あまり、自転車に乗るようになってから少しずつ目の前の世界が変化してきて、気軽にあちこち旅をしてみようかなという気分になっています。
人間の一生という限られた時間を、少しでも満足できる日々にしていきたいと思う毎日です。
自分がいつまで元気に自転車に乗っていられるか。いつまで生きていられるか。それがはっきりすれば、これから先の生き方も決めやすいし、計画も具体的に立てられるのでしょうけれど、それが判らないので困ります。判らないから面白いのかもしれないですけど…。
返信削除今でも、やり残していることはないと思っていますが、これから先に、もっといろいろなことができれば、それはそれで嬉しいので、やりたいことをいっぱい考えておきたいです。
自転車で出かける旅も、本当にその日が来るのかどうか判りませんが、プランさえ練っていれば、チャンスがあればすぐにも出かけられるので、準備だけはしておこうと思います。