無我の心境というのがある。無我夢中になるということもある。どちらも心は空っぽになっているということだろう。
仕事をもっているころには、心がなかなか空っぽにならなかった。何かしら気持ちの中に引っかかったり、ぶら下がったりしているものがあった。無我夢中で仕事をしていたというと聞こえがいいが、悪戦苦闘の連続。五里霧中。自転車に乗ることを知っていれば、気分転換を図るにはもってこいだったかもしれない。忙しさに紛れて、そういう時間も見出せなった。
心が空っぽになるというのは、いいことばかりではない。思い煩うことが多すぎると、心ここにあらずということになりかねない。煩わしいことや難題を抱えすぎて、放心の体、心は空っぽというのは困る。
自転車に乗っていると、気持ちが軽くなって、気に病んでいたことが、いつの間にか雲散していることに気づく。これも一種のライダーズ・ハイか。流れていく景色と無心で対話している。こんな風に心が空っぽになるのがいい。
一緒に走っている自転車仲間とこんな話をしたことがある。心を病んでそこから抜け出せない人が少なくない。うつ状態や引きこもりから抜け出せない人たちの苦しみは、余人には判らないことも多いかもしれない。そんな人たちに、自転車を勧めてみたらどうだろう。仲間で一緒に走るときに、誘うことは可能である。特にセラピーというようなものではなくても、一緒に黙って走るだけでいい。とりあえず、家にある自転車を引っ張り出して乗ってみる。家に自転車がなければ、借り物でもいい。
自転車に乗っていて出会う景色を愛で、自然の中で聞こえてくるいろいろな音どもに耳を澄ませているだけで、十分な癒しになる。しかも、心地の良い疲労感がついてくる。いつの間にか迷いが吹っ切れて、心が空っぽになっているかもしれない。私の自転車仲間は、リタイアしたおっさんばかりなので、全く気がおけない。小難しいことを話すこともない。黙って自転車に乗る楽しさを一緒に味わい、外の世界が満更捨てたものではないと改めて気付くだけでも儲けもの。心を病んで、仕事に専念できない人や家に閉じこもっている人を誘って、一緒に自転車で走る。そんな手伝いができないものかと、仲間で考えた次第。
もちろん、自転車に乗ることは、いいことづくめではない。事故のリスクもあれば、パンクなどの故障がストレスになることもある。道路上では、自動車から邪魔者扱いされることもある。それでも、いつものお気に入りのコースを走っていれば、いつの間にか心は空っぽ。極楽とんぼ。思いつくのは鼻歌くらい。心のすき間がなくなって、新しい世界へ踏み出すことを躊躇っている人に、自転車を勧めてみるのはいいかもしれない。
こういう写真を撮っているときには、
カメラのこちら側に私がいて、
私の心は空っぽになっている
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こういう写真を撮っているときにも、
やはりカメラを構えている私がいて、
自転車と風景を眺めている
私の心は空っぽなのだ
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この写真のときには、
空がどんよりしているが、
それでも、私の心はやはり空っぽである
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心が空っぽになって
振り返った私はこんな具合?…である
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さあ、この先どこまで行こうか…
なんて、考えたり考えなかったり、
何しろ、心は空っぽなのだから
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自転車の影はすき間が多い
影がうすいわけではないのに、出しゃばりすぎず、
何となく空っぽ…なのがいい。
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