冬をむかえる

冬をむかえる
'20.12.22 愛知県海部郡飛島村梅之郷 日光川排水機場付近にて撮影

2022年2月26日土曜日

詩人と自転車

  静物のこころは怒り そのうはべは哀しむ / この白き器物(うつは)の瞳(め)にうつる /   窓ぎはのみどりはつめたし

 萩原朔太郎の『純情小曲集』に収められた「静物」という詩である。朔太郎さんは、処女詩集『月に吠える』の再版にあたり、自筆の前書きにはこうも書いている

「私の詩集()は正に今日の詩壇を予感した最初の黎明であったにちがいない。()この詩集によって、正に時代は一つのエポックを作ったのである。げにそれは夜明けんとするときの最初の鶏鳴であった。そして、実に私はこの詩集に対する最大の自信が此所にある」。日本近代詩の父といわれる詩人の自負であり、抱負である。

 ところがこの人の『自転車日記』という短い文章を読むと、これが同じ人とは思えない。「今日より自転車を習わんと欲す。()操縦すこぶる至難。ペダルを蹈めばたちまち顚倒す()身体皮肉痛苦甚だし。寄りて止めて帰る」。翌日には、「弟を伴いて教師となし…、弟曰く、さながら酔漢の漫歩に似たりと」。三日目にはようやく乗れるようになるが、坂道で転倒し「数ケ所の打傷を負えり」おまけに自転車を壊し、「再度自転車に乗らざるべきを約せり」と結んでいる。

 それでも、2週間後には練習を再開し、遠乗りができるようになる。そのひと月半後に、老婆とぶつかって騒動を起こしたところで「記して日記に銘す」と書いてこの日記は完了する。近代詩の父も自転車ライフの黎明期は覚束な気で、悲惨でもある。

 まるい空がきれいに澄んでいる  /  鳥が散弾のようにぼくの方へ落下し  /  いく粒かの不安にかわる  /  ぼくは拒絶された思想となって  /  この澄んだ空をかき撩(みだ)そう

 これは知の巨人といわれた吉本隆明の初期の詩集『転移のための十編』の中の「その秋のために」という詩の冒頭である。代表的な著書『共同幻想論』、『言語にとって美とはなにか』などは極めて難解で、何度も読むことを断念した記憶がある。この人の著書を持つことが知のステイタスだと考えられていた。

 その吉本さんの『自転車哀歌』という晩年のエッセイを読んだ。「足腰と視力がままならなくなった昨今では、二百メートルくらいを境に、それを超えたところに行くのには、自転車をたよるしかない」。自転車で転んでいると中学生や高校生が「小父さん、大丈夫?」といって助けてくれる。「『俺もそんな年齢になったか?』と恥ずかしかったが、『たしかにそうとしか呼ばれようがないよな』と諦めがついてからは『すいません』とか『有難う』と言えるようになった」。これがあの吉本さんかと疑うほど平易な文章で判り易い。

 近代詩の父も知の巨人も、自転車と出会った時期や自転車ライフも終わりに近づくころには、私のような凡人と大差ない。自転車との関係性は、孤高の詩人や偉大な評論家・思想家でも同じようなものだと知れると、ちょっと嬉しい。

この細いフレームには
意思が宿り思想が宿る
自転車とはそういうものだ

タイヤの山に
遠くの山が重なる
山は重複し反復し
連なっていく

自立し自律するために
走りつづける
自転車とはそういうものだ

人の速さよりは速いけれど
機械というには遅すぎる
この絶妙の心地よさはどうだ

今日には今日の目的地まで来ても
明日には明日の目的地があって
また走り始める
自転車とはそういうものなのだ



2022年2月19日土曜日

電子メールのこと

 かつては電子メールといっていた。エア・メールなどの方が市民権を得ていた時代だ。「電子」とことさらに言わないと何のことか判らなかった。今ではメールだけで通じる。英語と同じように動詞扱いでメールするともいう。私などはいまだにメールを打つというが、これは電報の名残か。

 内容が込み入っているメールの送受信には、パソコンのメールソフトを使うことにしている。これは手書きの書簡に近い感覚だ。ネットで買い物をしたときの領収書の受け取りや、知人に資料を送ったり、送ってもらったりするのにファイルや画像を添付することもできる。関係書類を同封するというのに似ている。スマホでは、年寄りには画面が小さすぎるし、文書の現実味に欠けるのでパソコンの方がよい。

 自転車の走行会もメールには大いに助けられる。前日に、「急ですが、明日走ります」とメールして「雨雲が来るので、走るのはやめます」と1時間前に中止することもできる。相手の都合で読んでもらえるので、電話のように相手を呼び出す必要がない。。仲間内では一斉に同じ内容を送信できるのも便利だ。集合場所や目的地を知らせるには、地図に場所を書き入れて、それを添付して送るという手もある。

 メールには弊害もある。喫緊の連絡が入る可能性があるので、スマホを手放せない。家に置き忘れて外出するようなことがあると落ち着かない。来もしないメールに縛られているようで窮屈な思いをする。

 メールでは簡潔に意図を伝えるのが目的なので、余計なことを省略する。まだるいことは書かない。時候の挨拶はもちろん、定型の拝啓や敬具、前略に早々は全く使われない。省略された文章を使うのが普通で、極端な場合は単語だけということもある。助詞や助動詞、接続詞や感嘆詞は置き去りにされ、敬語も無視される。まるで失語症である。 

    走行会の案内をメールすると「了解です」と返信が来る。正確には、「内容を了解しました。参加します(または、申し訳ないが欠席します)」というべきところだろう。「ご案内ありがとうございます」がその前にあってもよいが、仲間内ではかえって他人行儀か。返事を受け取った方も、「了解」は「走行会に『参加』」の意味と解釈して了解しているが、了解しているようで実は双方とも正確な結論に達していない

 自転車に乗っていて危険が迫れば、「危ない」と言っている暇はない。「あっ!」と叫ぶのが精一杯だ。登り坂でどうしようもなく苦しいときには「苦しい」と言えず「くっ!」という音だけが口をついて出る。単語にもならない、あっ、くっ、という音こそ魂に近い表現なのだ。メールで言葉を省略するのも、意志を速く伝えるための工夫かもしれない。メールにはメールの作法がある。ただし、電子メールで意思を通じ合うには、ことば足らずを補う忖度や斟酌が要るように思う。


電子の画面のなかに
短く切られてしまった
ことばが閉じ込められる

電子の画面のなかで
ことばは切り取られ
ことばは貼り付けられ
ことばは繰り返され
ことばが意味を失う

了解とは同意だと了解するか
了解だが拒否だと了解するか
ことばが波立って揺れている

電子の媒介に耐える
新しい意味をさがして
飛びたて、ことば

電子の介入に耐える
新しい意味をせおって
飛びつづけよ、ことば


2022年2月12日土曜日

晴輪雨輪

 本を読まなくなった。仕事をしているころは、商売柄、子どもの成長や発達に関する本を多く読んだ。学校経営や教員研修についての本も読んだ。授業をするために、教材に関係のありそうな本を何冊も読むことがあった。文献にあたり、学んだことを生かす機会があれば、次々と新しい本を探すが、最近はその必要がない。自転車関連の本を読んでいれば十分といったところだ。

 生意気にも、小説くらいは原語で読むのがいいだろうと思って、簡単な推理小説などは英語で読む。これは時間がかかるが、理解できない単語は意味を想像しながらとばし読みすれば、それなりに理解はできる。慣れれば案外読めるものである。それも最近は中断している。

 退職後は、悠々自適の生活ですねと人から言われる。父親や叔父の老後に付き合っているので、なかなかそういうわけにもいかない。悠々自適といい、晴耕雨読という。いずれも、俗事に煩わされない理想的な生活を指して使われるが、悠々自適というと何もしないでのさばっているという感じがするのは自分だけか。

 それに比べると、晴耕雨読は多少勤勉さを感じて、それほどわるい語感はない。塩谷節山(えんやせつざん)の詩、「晴耕雨読、優游(ゆうゆう)するに足る」に由来する。天気のよい日は畑を耕し土に親しむ。雨の日は書を読む。ゆったりと日々を楽しむにはそれで十分ということか。やはりのさばっている感じだ。

私の場合は耕す畑がない。天気のよい日は自転車に乗るので、これは晴輪。雨の日は自転車に乗れないので、本を読んだり映画の観だめをしたりする。これなら雨読である。ところが、最近は雨の日も自転車の整備などに没頭することが多い。これだと晴輪雨輪である。

 田舎住まいの走行会仲間は、みんな大きな納屋やガレージを持っている。冬でもストーブなど持ち込めば十分温かい。ときどきは、誰かのガレージを借りて、メンテナンスの会をする。気前のいい人ばかりなので、いつでもうちのガレージを使って自転車いじりをすればいいと言ってくれる。

近くに住む先輩は、自分のいないときにでもガレージを使って構わない、必要な工具も自由に使ってもいいと言ってくれる。ありがたい話だが、オーナーのいないガレージは使いにくい。

 自分の家では、風の吹き抜けるカーポートの下で自転車を整備する。仲間たちのガレージに較べると環境は劣悪だが、雨や雪の日でも自転車をいじっていれば寒さを忘れる。晴輪雨輪の生活がすっかり定着しつつある。雨の日にも本を読まない。時間ができたら読もうと思って買い込んだ本は埃をかぶっている。いずれ身体が動かなくなって、晴読雨読ということになれば、買い込んだ本の出番がくるかも知れない。 


色は色と出会い
色をつくる

色は色と出会い
きわだつ

私は人と出会い
私をみつける

私は人と出会い
新しい私になる

きのうはきのうの出会い

きょうはきょうの出会い

2022年2月5日土曜日

エロイカ

  エロイカといえば、ベートーベンの交響曲第3番を思い浮かべる。ベートーベンが敬愛するナポレオン・ボナパルトのために作った曲である。ナポレオンがフランス皇帝に即位すると「彼もまた俗物に過ぎなかった。いずれ自分が優れていることを誇示する暴君になるのだろう」と言って激怒したベートーベンは、楽譜の表紙を破り捨てたという逸話がある。真偽は不明だが、「ボナパルト」と名付けられたこの曲は、後に「シンフォニア・エロイカ(英雄的交響曲)」と改題されている。

 エロイカ。イタリア語で英雄を意味する。自転車のイベントにもこの「エロイカ」を冠したものがある。ツール・ド・フランスと並ぶ、有名なジロ・デ・イタリアとは趣を異にする「エロイカ」と名付けられたレースが毎年イタリアで開催される。

参加できるのは、1987年以前に製造された自転車に限られる。イベントの趣旨は自転車を楽しむこと。ロードレースのように順位は競わない。参加者は距離の異なる5つのコースから自分の実力に合わせたコースを選択する。10月に開催されるレースは、ガイオーレ・イン・キャンティ村をスタートし、同じ村に戻る。

コース途中のエイドステーションで振舞われる、トスカーナ産の生ハムやワインなどの軽食を楽しみ、疲れたら自転車を押してのんびり歩く。年代物の自転車がレース途中で壊れたら、力を貸し合って修繕をしてレースを続ける。自転車が走り抜けるトスカーナ地方の未舗装の白い道はかぎりなく美しい。

レースが誕生したきっかけは、素朴な砂利道の風景が失われることを憂える地元の有志が、往年の自転車レースの雰囲気を残そうとしたことだった。イベント名の「エロイカ」には、過酷な未舗装路を走破した往年のアスリートたちへの敬意がこめられている。

 エロイカのレースの模様は、インターネットの記事やYouTubeの動画で見ることができる。レースの主人公ともいうべき自転車が何とも魅力的だ。ヴィンテージバイクの典型、細いクロモリのフレームに使い込んだサドル。サドルバッグなどにも往時の粋が見てとれる。参加者には、乗っているヴィンテージものの自転車同様、年季の入った人が多い。自転車を心底楽しんでいる様子がうかがえる。

 ヴィンテージとは製品が作られてから最低30年を経過しているもののことをいう。私の愛用している自転車はまだまだヴィンテージの範疇に加えてもらえない。エロイカへの参加資格はない。レースには参加できなくても、いつか同じコースを自分の自転車で走って、レースの気分だけでも感じたい。今のところは、「エロイカ」に参加しエロイカになった気分で、トスカーナの風景に想いを馳せながら、いつもの道を走ることにする。いなべの道も満更捨てたものではない。


古い自転車も
新しい気持ちで乗れば
新しい走り方をする

歳を重ねたからといって
人間も自転車も
古びたわけではない

歳を重ねても
毎日毎日
新しい日が来る

次の日もその次の日も
新しい自分に出会える

歳を重ねながら
新しい自分になっていく

古い建物の前を
じいちゃんもそのまたじいちゃんも
通ったかも知れないが
初めて通るわたしには
新しい建物だ

古い公衆電話から
電話をかければ
じいちゃんやそのまたじいちゃんと
話せるような気がする