いつものように、困ったときのインターネット頼みで、「鈴鹿 釈迦が岳 釈迦の寝姿 稜線の見え方」をキーワードに検索してみるがそれらしい記述が見つからない。珍しいことである。大概のことは、蘊蓄を傾け記事にしている人があって、名答、明答もあれば迷答、愚答も見つかる。全国の「釈迦が岳」と呼ばれる山については、由来の説明やお釈迦様の姿を図説したものもある。ところが、三重の釈迦が岳については登山道の説明や山頂からの眺望の画像は見つかっても、お釈迦様に関する記述がない。
自分たちは三重県側から見ているが、滋賀県側から見るのが本当かもしれない。つい自分本位の見方になるが、山の向こう側にも人の営みはある。南半球に住む人たちの使っている地図は南が上になっていて、オーストラリアもニュージーランドも国の形が倒立しているらしい。倒立ではなく、現地の人にはそれがもともとの形なのだ。
昔むかし、とある村のお寺のたいそう偉いご住職が、「あの峰はお釈迦様の寝姿に見えるじゃろう」と言われた。村人たちはご住職の機嫌をそこねてはなるまいと、「なるほど、そう見えますな」と答えた。忖度に忖度が重なって、みんながお釈迦様に見えると言い出した。今のように画像にして稜線を確かめるわけにもいかず、見る人によってお釈迦様の姿は違って見えた。と、まぁ、こんなことがあったかもしれない。
姿が違って見えるのはいい。神や仏は人によって姿かたちが違うだろう。しかし、見えないものを見えるというのは困る。後の時代の私たちが難儀をする。お釈迦様は善行を積んだ者にしか見えないとか、学校で楽しいことがあった子どもが、帰り路でふと山を見上げると、お釈迦様が微笑んでいらっしゃるとか、定説がなければこんな現代の民話を作ればいい。
自転車で出かけた日、私が家路をたどる目印はセブンマウンテンの最北峰、藤原岳である。7つの山の中では凡庸に映る釈迦が岳をじっくりと眺めることはない。山が眠る今の時節にははっきりしないお釈迦様の姿が、山笑う季節にははっきりとみえるかもしれない。山が滴り、粧い始めるころにはどうだろう。四季折々に変化する山容を眺めながら、鈴鹿山麓を走る楽しみがまた一つ増えた。
釈迦が岳遠望(中央左の一番高い峰) 見慣れているはずの山が 眺めつづけていると新しい山に見える |
少し近づいてみる 釈迦の姿は見えない |
更に近づいてみる 釈迦の姿はやはり見えてこない |
無理やり釈迦の姿を思い描く 寝釈迦・涅槃図の釈迦は北枕だとすると… |
こういう姿に見えるということか 無理やり見ようとせずに現れるのを待つ… |
見慣れているはずの山を 時間をかけて眺める 朝な夕なに山を眺めていると 光と影が、翠の濃淡が、 心のひだまでが織り込まれて ある日忽然と釈迦の姿が現れるのか 春になったらまた来てみるか |