冬をむかえる

冬をむかえる
'20.12.22 愛知県海部郡飛島村梅之郷 日光川排水機場付近にて撮影

2022年4月30日土曜日

ハイブリッドについて

   自転車仲間の何人かがe-Bikeに乗り換えた。今、注目株の自転車である。これまでの電動アシスト自転車とは少し趣がちがう。電動アシスト自転車は文字通り、電気モーターがペダルを踏む力を助けてくれる。ヘルプではなくアシストなので、全面的に助けてくれるのではなく、必要なときに補助してくれるという感覚だろう。

 e-Bikeもモーターのアシストを受けるという構造は同じだが、積極的にペダルを踏むのが前提になっていて、変速機が充実している。乗車姿勢もスポーツバイクと変わらない。乗り手に脚力があれば、モーターの力を借りずに変速機を駆使して自力で遠くまで行ける。電気に頼り切りでは、実用自転車をスポーツバイク風に作り変えただけという意地の悪い見方もできる。

 自動車の世界ではハイブリッド車が多くなった。HEV(ハイブリッド・エレクトリック・ヴィークル)という。内燃機関とモーターを組み合わせ、電気で(も)走る自動車が増えている。普段はエンジンで走るが、走りながら充電した電気を蓄えておいて、必要に応じその電力でモーターを回す。電気モーターの力も車の推進力に使う。これは、パラレル・ハイブリッドという。

 ハイブリッド車にはもう一つ方式があって、エンジンは発電の仕事だけをする。エンジンで発電した電力を使ってモーターを回し、自動車を走らせる。シリーズ・ハイブリッドといわれるものである。車を走らせるのはモーターの力だけなので、いわば電車である。

 車から完全にエンジンを降ろしてしまったのがBEV(バッテリー・エレクトリック・ヴィークル)である。これはもう完全に電車だ。燃料を燃やさないので走行中のCO2排出量はゼロになる。

 HEVやBEVは燃費が節約できて、環境にも優しいのが売りだ。カーボンニュートラルの時代に向けて、さらに技術革新が進み、いずれは電(気自動)車が主流になるだろう。それは好ましいことかもしれないが、エンジンのない自動車というのは古い者にはピンと来ない。  

 e-Bikeもハイブリッドの一種だが、これは、パラレル式でないと成り立たない。ペダルを踏む力に応じて電気モーターがアシストする。走り出す前に、ペダルを踏んで発電し、電力を蓄えておいてモーターを回すというのでは、出発までに時間がかかり過ぎる。ペダルを踏まなくても、モーターだけで走るようにすると、原動機付き自転車ということなって運転免許が必要だ。電動オートバイと区別がなくなり、もはや自転車ではない。 

 e-Bikeは発展途上の自転車なので、今後さらに進化を遂げて、自転車の主流になるかもしれない。自転車といえばハイブリッドのe-Bikeのことをいう時代が来たとしても、人力のみで走る自転車はきっと残るだろう。乗り手が健康でありさえすれば、燃料なしで走れる。こんな経済的で環境に優しい乗り物は他にない。


花から葉桜へ
季節が自転車を歓迎してくれる

自転車の季節の到来に
遠くの山が微笑む

今日はまたひとつ
新しい橋を渡る

新緑が出迎えてくれる
自転車が季節の色に染まる

今日はまた新しい季節の
花の香りに誘われて走る

風に背中を押されて走る
自然と私のハイブリッドだ


2022年4月23日土曜日

橋を渡る

  母の実家は、員弁川をはさんだ川向こうの在所にあった。川には大社橋という橋が架かっている。子どものころには、車が一台やっと通れるくらいの狭い橋だった。

 盆・正月の母の里帰りと報恩講という年に一度の法事には、妹と自分が母の両手にぶら下がるようにして、歩いて橋を渡った。いとこたちと遊べることや、祖母のくれる駄菓子を楽しみにして、うきうきと橋を渡った。帰り道の記憶がないのは、名残惜しい気持ちが強くて、あまり思い出したくなかったからかもしれない。

若い頃、大社祭の上げ馬神事には、川向こうの神社まで、馬に跨って橋を渡った。橋の上で、渡御を知らせる花火の音に驚いた馬が、後ずさりし前足を上げて立ち上がった。馬から振り落とされれば、欄干を終えて川まで真っ逆さまに転落するという恐怖があった。橋を渡ってしまうと、馬で神社の急坂を駆け上がる危険な神事が待っている。無事に乗りこなせるだろうかという不安や恐れにかられ、それでも多少は意気込んで橋を渡った。

 二日間の神事をすべて終えて、ろうそくを灯した提灯を手に、馬で橋を渡り帰還した。夕闇のせまる橋の上で、疲れ切った馬はもう後足で立ち上がることはない。安堵と名残惜しさが募った。祭は終わっても、馬から降りたくなかった。

 中学、高校時代の通学には、毎日自転車で渡っていたこの橋を、また、自転車で渡ることが多くなった。車やオートバイで走り抜けるときには、ほんのひとまたぎと思っていた橋が長くなった気がする。橋から川の上流を見ると、流れの向こうに季節の色に染まった鈴鹿の山並みが連なる。私の原風景だ。

 自転車で橋を渡ってしまうと、簡単には帰れないという気がする。家に近い橋を渡れば新しい場所へ出ていける。新しい場所を訪ねると、初めて出会う橋を渡る。いろいろな場所を経巡っていると、帰りの橋を見つけなければ川のこちら側へは戻って来られない。自転車の距離感では、橋を探し当てて川を渡って戻るのはかなり道のりになる。小さな橋を渡ってしまうにも、大きな決断がいる。

 機会があれば、いつか渡ってみたい橋がある。チェコ共和国の首都、プラハを流れるモルダウ(ヴァルタバ)川に懸かるカレル橋だ。建設に50年かかって1402年に完成した橋は、それから600年以上も使われている。

プラハの春には、この街も、この橋にも、旧ソ連の侵攻を受けた悲惨な記憶が残る。日々の営みの中で、何の邪気もなく橋を往来する人たちの命が、無残に奪われる惨劇には耐えられない。土地の人たちの原風景になっているはずの橋が、破壊されるのはあまりにもむごい。

 橋を渡る。思い出や密かな意気込みを慈しみながら橋を渡る。どんな小さな橋も、心無い侵略行為にさらしたくはない。


ひとまたぎで渡れそうな橋を
人の想いが時間をかけて渡る

ひとまたぎで渡れそうな橋を
越えれば季節が変わることもある

白い道の先に
長い橋の架かる予感

あの遠く長い橋を渡ってしまって
再び川のこちらへもどれるだろうか

通じ合えないのならば
橋を架けさえすればいい

橋が架かれば
人が流れ
意志が流れる

いつかは渡ってみたい橋がある



2022年4月16日土曜日

相棒

  「相棒」というタイトルをつけただけで、もう結論が見えたようなものだ。自転車はおまえの良き相棒だと言いたいのだろう、と簡単に言い当てられそうである。判りきったことを、今更ながらに書くこともないと思うが、書きながら気づくこともある。書き始めたら最後まで書いてみることだ。 

    確かに自転車はなくてはならない相棒である。ちょっと出かける、はるばる出かける、いずれの場合も、自転車が相棒なら存分に楽しむことができる。            
 
 仲間と一緒に自転車で出かけるということになると、彼らは相棒にしている自転車に乗って来る。一緒に走る気のおけない仲間たちが、相棒にしているのはどんな自転車なのかと観察してみるのも面白い。相棒に選んだ自転車とどんな付き合い方をしているのか、興味の湧くところでもある。乗っている自転車を見ると、なるほど、この人はこんな自転車を相棒に選ぶのかと納得できることが多い。自転車の選び方や付き合い方にも人となりが現れる。                                       

 相棒とは、もともと駕篭を担ぐときの相手のことをいう。駕篭を担ぐには前と後ろの担ぎ手の息が合わないとうまくいかない。駕篭に乗せてもらった経験はないが、担ぎ手の呼吸がぴったり合っていれば、高級セダンのように乗り心地がのいいだろう。反対に、担ぎ手の呼吸が合わない駕篭は、バランスの悪い自転車と同じで、妙な振動や揺れが出て、不快に感じるかもしれない。

 テレビドラマ『相棒』は、20年以上もつづく長寿番組である。主人公の杉下右京は、何度か相棒を代えながら、長い間活躍し続けている。よほどいい相棒に恵まれないと、これほど長くは視聴者を引き付けられない。

 名探偵の事件解決には相棒がつきものである。古畑任三郎と大泉真一郎というのもあった。海外のドラマでは、『白バイ野郎ジョン&パンチ』、『刑事スタスキーとハッチ』、それに、『マイアミバイス』のソニーとダブスのコンビも懐かしい。シャーロック・ホームズとワトソン博士という名コンビもある。彼らはお互いにいい相棒に恵まれている。

 相棒を描く物語は、天才肌と常識人、破天荒型と堅実型、もしくはベテランと新米などのコンビが登場し、片方をストーリテラーとして進行していくというのが典型である。相棒同士はお互いに引き立て合い、力を補完する。主人公はもちろん、名脇役の相棒がいないと物語は成立しない。

 自転車の場合、主人公は乗り手なのか自転車なのか判然としないところもある。乗り手が自転車を選ぶとすると、破天荒型や天才型で高性能の自転車は扱いが難しい。かといって、堅実型で常識を超えない自転車では物足りない。現実の相棒選びは難しい。自分の方では気に入って選んでも、自転車に拒絶されて、乗りこなせないということもある。  

相棒と出かける日

相棒とむかえる
あたらしい季節

同じ風の中にいても
想いがすれちがっていたり

同じ場所にいて
同じものを眺めていたり

この先も一緒に進んだり
この先は別れることになったり

道のない道に踏み入る
異を立てるのではなく
通じるものを探したい




2022年4月9日土曜日

静止画と動画

   自転車で出かけると写真を撮る。自転車に乗り始めたころは、走ることに夢中で写真を撮るということはなかった。いろいろな道を走っていると、珍しい光景に行き合うことが増えた。車では通りそうもない道から見る景色が面白い。道そのものにも魅力がある。多分、この道を走ることはもうないかもしれない。今、この場所を写真に残しておこうと思うようになった。

 思わぬ遠くまで自転車で行った。こんなに遠くまで、もう来ることはないかもしれない。来ようと思っても、次には来る体力がないかもしれない。ならば、この場所を自転車と一緒に写真に残しておこう。そう考えるようになって、自転車で出かける時にはカメラを携帯するようになった。

 安物のデジタルカメラで、自転車の置かれた風景を撮影する。本格的に写真を撮るというわけではないので、小型軽量で嵩張らないカメラで充分である。

 行く先々で写真を撮っていると、写真の枚数が増える一方である。写真の整理をしなければならない。そこで、ブログに貼り付けて、残しておこうと思いついた。公開しようと思えば、拙い写真なりに佳いものを選ぶびたい。スマホを持つようになってからは、写真の撮影にも手軽なスマホ内蔵のカメラを使うことになった。

 たいそうな写真の技術があるわけでないし、写真を趣味にするというほどでもない。自転車で出かけた場所の記録と記憶のためなのだ。とはいえ、同じような調子ものばかりでもつまらない。少しずつ変化のある風景と自転車の組合せを考えるようにもなった。

自転車の修理の方法を調べるには、Youtubeなどの動画が便利である。孫たちは、動画で近況を知らせてくれたりもする。動画を見れば、状況は手に取るように判る。音声も加わるので、修理のやり方などは手取り足取り教えてもらっているように具体的である。

ところが、動画は時として冗長で、想像の入り込む余地がない。すべてを説明されることは、成り行きがよく判って良いが、散文的でお節介なところもある。

一葉の写真の方が、ずっと多くを語ることもある。動画が散文だとすると、写真は定型詩だ。カメラが切り取る直前までは想像でしかわからない。その場面のあとがどうなるか、それも見る者の自由な想像にゆだねられる。瞬間を切り取った世界だけがそこにある。

上手く写真を撮影できるわけではないのだけれど、自分の写真は、いかに自転車を映えさせるかというところに主眼がある。初めのころには、二度と来ない場所や通ることのない道の記録と記憶、と思っていた。

最近は、そういう場所に自転車をおくとどうなるか、自転車はどうやってその場にいるか、それを写真におさめようとしている気がする。今、この風景の中におかれた自転車の姿を切り取っておきたいのである。

花は
あっけらかんとして
にぎやかすぎて
おしゃべりがすぎて
さわがしすぎる
ならば私たちは
何も語らずに
遠く近く
静かに花を
ながめていてはどうだろう





花は
はかなげで
うれいをやどし
なにもかたらず
たたずんでいる
ならば私たちは
花のしたで
きのうのことやあすのことなど
語り合うのはどうだろう








2022年4月2日土曜日

天候判断

    子どものころ、明日の天気はそれほど重要ではなかった。学校のある日も休みの日も、朝の起きがけに雨が降っていれば気分が滅入ったし、雪が積もっているとわかればばわくわくすることはあった。それでも、晴れたら晴れたように、雨なら雨、雪なら雪なりに、遊ぶことを考えればよかった。

遠足や運動会の前日だけは、さすがに翌日の天気が気になった。天気予報の精度は今ほど高くなかったように思う。てるてる坊主の効能を信じていたころである。大人たちの天気予報もあまり当てにはならなかった。

 学生時代が過ぎ去っても、教員という学校勤めの職業を選んだので、学校生活は続くことになった。今度は、自分のための天気ではなく、生徒のための天気が気になるようになった。学校行事の前日には、近くの漁業組合に電話して、天気の予想を尋ねたこともある。漁に出る人たちの天気予報は、気象予報士の予報よりも正確だった。

 自転車に乗って遊びに出かけるだけなので、農業や漁業に従事する人ほど気候が切実な問題ではない。物流や交通機関に携わる人ほど深刻でもない。スポーツ選手なども、それが屋内競技ではあっても、天候に影響される要素は多く、何かと気がかりだろう。それに比べれば、大したことではないのだが、やはり天候判断は一大事なのだ。

 幸い、長期の予報も精度は高くなっている。かつては気象学者が研究していた天気予報モデルが使われていて、12日くらい先までは予測ができても、1週間先の予報は正確に出せなかったらしい。地球物理学という分野で、太陽熱や大気の放射、海面や陸面からの蒸発の物理過程を研究し、地球全体の天候を考えることで、長期の天候予測が可能になった。昨年、ノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎さんたちの、地球の温暖化に関する地球物理学の成果が、長期の天候予測にも生かされていると聞いた。

 スマホを開けば、雨雲レーダーなどで短期の天気の変化は即座に読み取れる。魚釣りを専らの趣味にしている知人に教えてもらったWindyというアプリを使えば、風の変化もかなり正確に知ることができる。自転車乗りにはありがたい。

 予報が正確になったとはいえ、思いがけない雨雲の発生や、急な風の変化には悩まされることがある。漁師さんのように経験知から予測するのは難しい。10年自転車に乗っていても、天気の変化を予測する勘までは身につかない。

 花の季節を迎え気持ちは騒ぐ。いろいろな人から花見のお誘いをいただく。短い花の見ごろのうちに、誰と何処へ何時出かけるか、自転車の手入れをしながら考える。安全に配慮して雨の日には自転車に乗らない。乗れない日を差し引くと、花の見ごろに出かけられる日は限られる。無理をしてでも出かけたものかと、天候判断には少なからず迷う。予報に反して花見日和に恵まれる日もある。天気予報が外れる方が嬉しいこともある。

天気は気まぐれで
私も気まぐれだから
折り合いがつかない

それでもこうやって
折り合いをつけながら
自転車で出かけるのだ

草履を蹴り上げて天気を占い
てるてる坊主に願いを託し
明日の晴天を待つ

季節と気候が折り合いをつけて
花を咲かせはじめる

今年はどんな花が見られるか
天候判断には覚悟がともなう