自転車で出かけると写真を撮る。自転車に乗り始めたころは、走ることに夢中で写真を撮るということはなかった。いろいろな道を走っていると、珍しい光景に行き合うことが増えた。車では通りそうもない道から見る景色が面白い。道そのものにも魅力がある。多分、この道を走ることはもうないかもしれない。今、この場所を写真に残しておこうと思うようになった。
思わぬ遠くまで自転車で行った。こんなに遠くまで、もう来ることはないかもしれない。来ようと思っても、次には来る体力がないかもしれない。ならば、この場所を自転車と一緒に写真に残しておこう。そう考えるようになって、自転車で出かける時にはカメラを携帯するようになった。
安物のデジタルカメラで、自転車の置かれた風景を撮影する。本格的に写真を撮るというわけではないので、小型軽量で嵩張らないカメラで充分である。
行く先々で写真を撮っていると、写真の枚数が増える一方である。写真の整理をしなければならない。そこで、ブログに貼り付けて、残しておこうと思いついた。公開しようと思えば、拙い写真なりに佳いものを選ぶびたい。スマホを持つようになってからは、写真の撮影にも手軽なスマホ内蔵のカメラを使うことになった。
たいそうな写真の技術があるわけでないし、写真を趣味にするというほどでもない。自転車で出かけた場所の記録と記憶のためなのだ。とはいえ、同じような調子ものばかりでもつまらない。少しずつ変化のある風景と自転車の組合せを考えるようにもなった。
自転車の修理の方法を調べるには、Youtubeなどの動画が便利である。孫たちは、動画で近況を知らせてくれたりもする。動画を見れば、状況は手に取るように判る。音声も加わるので、修理のやり方などは手取り足取り教えてもらっているように具体的である。
ところが、動画は時として冗長で、想像の入り込む余地がない。すべてを説明されることは、成り行きがよく判って良いが、散文的でお節介なところもある。
一葉の写真の方が、ずっと多くを語ることもある。動画が散文だとすると、写真は定型詩だ。カメラが切り取る直前までは想像でしかわからない。その場面のあとがどうなるか、それも見る者の自由な想像にゆだねられる。瞬間を切り取った世界だけがそこにある。
上手く写真を撮影できるわけではないのだけれど、自分の写真は、いかに自転車を映えさせるかというところに主眼がある。初めのころには、二度と来ない場所や通ることのない道の記録と記憶、と思っていた。
最近は、そういう場所に自転車をおくとどうなるか、自転車はどうやってその場にいるか、それを写真におさめようとしている気がする。今、この風景の中におかれた自転車の姿を切り取っておきたいのである。
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花は あっけらかんとして にぎやかすぎて おしゃべりがすぎて さわがしすぎる ならば私たちは 何も語らずに 遠く近く 静かに花を ながめていてはどうだろう |
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花は はかなげで うれいをやどし なにもかたらず たたずんでいる ならば私たちは 花のしたで きのうのことやあすのことなど 語り合うのはどうだろう |
毎年思うことですが、桜が最高に綺麗だと感じる時間のはかなさ。この刹那の輝きがいいのでしょうか。もう少しじっくり味わいたいと感じるのは、私だけではないはずです。
返信削除先日、ソメイヨシノが舞う中、枝垂桜の濃いめのピンクが鮮やかな公園に行きました。
私は海外旅行をしてないのでわかりませんが、世界で桜が咲く国は多くあるのでしょうか。
MARIOさんが今年捉えた桜の見事さと自転車たちはこの桜をどう感じているのか。
聞いてみたい心境です。
ロード、クロス、マウンテン、ダホンたちは、すばらしい情景の中で意思をもちはじめているように思えます。写真からも、詩的表現を生み出そうとしている気がします。
冬の間、そこにあったとも気づかずにいる桜の樹が、花をつけると一斉にその存在を主張します。これは私だけの見方で、どんな季節の中でも、桜の樹に注目している人もいるでしょう。
返信削除咲く方の桜も、花の時期だけではなく、四季を通してきちんと生き続けていることに気づいてほしいと思っているかもしれないです。華やかな時期も、そうでない時期も、ていねいに生きて、そのていねいに生きているものとていねいに付き合っていくことが大事なのかもしれません。今年は、葉桜や夏の桜もしっかり見ようと思います。
余談ですが、ロンドンの日本人学校に勤務していたころ、街中で桜を時々見かけました。花の時期がかなり長く、並木というより、ぽつんと咲いている樹が多かったように覚えています。やはり桜は日本の春によく似合う、そう思うのは私が日本人だからでしょうか。