冬をむかえる

冬をむかえる
'20.12.22 愛知県海部郡飛島村梅之郷 日光川排水機場付近にて撮影

2020年8月29日土曜日

「もの前」ということ

   このブログで「無算講(むさんこ)」ということばを使ったら、コメントをもらった。祖母によく言われた。「むさんこなことすると あかんぞね」。無茶をするなと言っているのだと思っていた。「考えなし」の方が意味は近いのだろう。祖母や母が使っていた懐かしい言葉をときどき思い出す。「もの前」という言葉もその一つである。かなり前になるが、中学校で勤務しているときに、PTAの広報紙に次のような原稿を書いた。

☆☆☆  「もの前」というのは、大事なことをひかえた時期のことだと勝手に解釈していた。祖母がときどき口にしたことばである。方言か祖母独特の古い言い方なのだろうと思っていた。最近になって、それが古語であることを知った。「戦の直前。盆や正月、節句の前」という意味がある。私の解釈はそれほどずれてはいなかった。

 中学の卒業が近づき、高校の入試を控えた時期に、「もの前やで、気ぃつけとらんとあかんぞね」と祖母から言われたのを思い出す。私の結婚が決まったときにも言っていた。何に「気ぃつける」のか、くどくは言わなかった。大事なことを前にして、病気や怪我のないよう、心や身体のコンディションを整えて落ち着いて過ごせ、と言うことだったのか。

 細かいことは母親が注意するだろうから、同じ小言を繰り返さないでおこうと、祖母は我慢していたかもしれない。せっかちで、よく失敗をする私のことを、気にはしていたはずである。繰り言にならないように、それでも、孫のことが心配で、「もの前やで、気ぃつけとれ」と折りにふれて言いつづけたのだろう。

 祖母が逝って、25年になる。今になって、「もの前やで、気ぃつけやなあかん」と言われる方だけではなく、言う方の気持ちもよくわかる。生徒のみなさんは、生活ぶりについての細かい注意や励ましを、家族や先生たちから受けるに違いない。だとすれば、私は、卒業という大きな転機を目前にしたみなさんに、「もの前やで、気ぃつけとってくれよ」と願うばかりである。☆☆☆ 

 古くさいかもしれないが、懐かしく優しく響く、味わいの深いことばがある。今ではあまり使われない。大事に受け継いで、若い人にも使ってもらえたらいいのにと思う。祖母が逝ってから今年で33年、母が亡くなってからでも24年になる。

 今から30年もすると、私の子どもや孫たちは、私の使っている言葉を懐かしいと思うだろうか。30年後、私が今乗っている自転車に、古いけれども何となく懐かしくて味わいがあるところを見出して、乗ってくれる人があればうれしい。


小さい頃から見つづけている山並み
天気を占うときも方角を確かめるときも山を仰ぐ
祖母や母のことばも予報や道しるべになっている

懐かしい乗り物には暖かさと優しさがある
時の流れに耐えた逞しさがある
昔聞いたことばにも暖かさと懐かしい響きがある


雑貨屋の懐かしい店先にふと足(車輪)を止める
引き込まれるようなたたずまいがある

この自転車は、どれくらいの時を経てきたのか
私の愛車もいずれは同じようなオーラを醸すようになるか

この自転車は古いといってもせいぜい30年くらい前のものか
整備の練習に全部分解して組みなおすことにする

明日は遠出
それほど距離は走らなくても、遠出の前日は「もの前」である
簡単な点検くらいはしておこうと思う

 




2020年8月22日土曜日

サドルの位置とか何とか

ただいま、膝が痛くて療養中。とはいうものの、じっとしているのは性に合わない。中、椅子の上で過ごす時間はほとんどない。座っているのは、映画を観ているときか、床屋で散髪をしてもらっているときくらいである本を読む時間も最近はめっきり少なくなった。テレビは観ない。要するに一つところに静かに座っていられない。 

それでも、早く膝を治すためと観念して動き回らにようにしている。猛暑を避けて、音楽の聴き貯め、映画の観貯めをするにはちょうど良い。暇にまかせてインターネットで自転車と膝の痛みについて検索してみた。あるわあるわ。ネット上に種々雑多な記事があふれている。ライディングフォームの改造、ペダリングの方法、他にもサドルやクランクの長さの調整など。記事の多さに圧倒される。

フォームを直して身体に負荷のかかる場所を変えれば痛みが軽減する。内股気味にペダリングするのが良い。サドルの位置を前後させると、膝の痛みが出る場所が変わる。サドルの前後を上げ下げして調整すれば、膝や腰骨、股関節かかる負担が減る。調節はミリ単位で行う。さらには、身体に合わせてサドルを買い替える。記事が多すぎて、何が本当か判らない。情報過多の極み。         

 自転車は単純な構造でありながら、何かと繊細な調整がいることは判る。しかし、ゆったりと楽しむ乗り方に、サドルやハンドルの位置をミリ単位で調整する必要があるとは思えない。しゃかりきになって長距離を走るのが目的ではない。レースに出てコンマ1秒を争うのが狙いでもない。どうしてもしっくりこないところがあれば、可能な範囲で調整すればいいだろう。サドルやクランクを無算講(むさんこ)に買い替えるなどやりすぎである。

 とはいえ、ネットに公開されているような意見や見解に素直に従ってみれば、良い結果が得られることもあるかもしれない。次に自転車に乗るときには、サドルの位置とか角度とか、もう一度見直してみたい。人のいうことを虚心坦懐に聴くということについては、膝の治療も同じだろう。ストレッチを丁寧にすること。使いすぎないように、使わなさすぎないようにすること。主治医の言いつけを守ることである。

 20年ほど前に四十肩で肩が回らなくなった。そのとき、医師をしている友人から言われた。「リハビリに通うといいが、忙しいから無理だろう。代わりに、風呂で肩を温めてからアイロンを持って肩を回せばいい。そのとき気をつけることが一つある。アイロンの取っ手のネジを増し締めしておくこと。アイロンの本体が外れて飛ぶと危ない」 言われた通りにしていたら、肩の故障はいつの間にか完治した。アイロンが宙を飛んで、壁や家族を傷つけることもなかった。

通販で買った最初の自転車(アンカー UC5)
仕事から帰ったら家に届いていたので梱包を解いてすぐに撮影
対面販売で買ったのではないでの、身体に合わせた調整はしてない
自己流で自分の身体に合うようにおいおい調整する

サドルの位置とか何とか
いろいろと調整したり好みのものに交換したり
フレーム以外はほとんど原型をとどめない
自分の身体に合う1台になって来た

娘が乗ってみたいというので
サドルを交換して位置とか何とか調整してみる
自転車の印象も性格もすっかり変わる

愛車ラレーのハンドルとサドル
位置や角度や寸法や
調整しては走り、止まっては調整し
ようやく身体になじんでくる


マディ・フォックスのサドル
サドルの位置や角度の調整はもちろんやってみた
MTBはタイヤが太くて漕ぎ出しに力がいる
膝には負担がかかるかもしれない
  

お気に入りのサドルに交換していると
不要なサドルが増えてくる
仲間のものと交換するなどして
自分に合ったものを見つけるのも面白い












2020年8月15日土曜日

膝が痛い

  ここしばらく右膝が痛い。違和感を覚えたのは3カ月ほど前である。朝起きたら膝の曲がり方がぎこちない。自転車のチェーンに注油をしようとしゃがみこんだら、立ち上がるときに膝に痛みを感じた。まっすぐに伸ばしたり、深く曲げたりすると痛む。自転車のペダルを踏むときは、膝を伸ばしきらないし曲げきることもないので支障はない。多少の痛みはあるものの、そのまま乗りつづけていた。

 今朝、目覚めて立ち上がろうとすると、強烈な痛みが走って踏ん張りがきかない。寝室のある2階から階下へ降りようとすると、痛くて階段を降りられない。どうしたことだろうと思うよりも、自転車に乗れるだろうかという心配が頭を過(よぎ)る。自転車中心の思考パターンである。

 もっと早くに診察してもらうべきだったかなとも思うが、病院には行きたくない。行きたくないが、症状を悪化させて自転車に乗れなくなるのは困る。一大決心をして、整形外科で診断してもらうことにした。幸い、高校のときの友だちが整形外科の医師をしている。私の父親の具合が悪いときは、専門以外の病状でもすべて相談に乗ってもらっている。不承不承、彼の病院へ行ってみた。

 膝全体に痛みを感じても、どの部位というのは自分では特定できなかった。ところが、彼が「ここが痛いやろ?」と膝の内側を指先でかるく触れただけで、飛び上がるほど痛い。そこでレントゲン撮影。開業した当時、「レントゲン技師にはもっと上手に撮れと文句を言うけど、自分で撮影するとなかなかうまくいかない」とこぼしていたが、今は上手に撮影できるらしい。レントゲン写真を見て説明してもらった。膝関節の骨のすき間が狭くなり、軟骨が擦り減っている。歳の割に減りは少ないが、軟骨は再生されない。動かし続けると炎症が出る。炎症が治まらないうちに運動を繰り返すので痛みが消えない、という診断。

 「若い者には負けない、と無理をするのは禁物」とのことなので、「歳のことは自覚しているつもりだ」と言ったところ、「暑い中でも自転車で長時間走ったり、坂を登ったりするやろ?」との指摘。図星である。よくご存じ。おっしゃる通り。「痛み止めの薬を飲んで胃を悪くするのは損なので、塗り薬だけ試してみて。すぐには効かないけど…。お互い、70歳に近いのだから、痛いところが出て当然。大事に長持ちする使い方をしないと」というのが結論。

 診察を待つ間に、待合室で「ここは待ち時間が長いけど、丁寧に診てもらえるので安心」、「先生に診てもらうだけで元気になる」という声を耳にした。診察後に、隣の調剤薬局へ行くと、「先生は、薬をあまり使われません。副作用のない優しい薬だけです」と薬の説明をされた。友だちの評判がいいのは、自分のことのように誇らしい。膝はきっと治ると思う。

                                  (2020.08.12)


5月、新緑を求めて山に入ったりしていた
このころから膝に違和感があった

景色に誘われて、つい遠くまで行く
走っているあいだは膝の痛みなど気にならない

初夏の陽気に浮かれて名古屋城まで行ってしまった
知らないうちに膝に負担がかかっていたか…??

先日は、夏を探しに海へも行ったし…

涼を求めて川にも行った…

山の夏も気になるので行ってみた
膝が悲鳴を上げたか…??


      ついでながら、庭の芝生や雑草を刈るのも膝には負担かも…??
      じっとしていても、膝は悪くなるかもしれない
      じっとしていると、もっと悪くなっていたかもしれない
      




2020年8月8日土曜日

夏を探しに

 いつになく長かった梅雨がようやく明けた。梅雨が明けると気温がたちまち上昇した。急に暑くなると、自転車に乗る体力があるだろうかと心配になる。コロナ禍のせいで、外へ出かけることが少ない。夏の風物も今年はおあずけといったところである。 

 夏祭りがあって、花火大会があって、夏は毎年向こうからやって来る。ところが、今年に限っては夏の訪れを知らせる催しがほとんどない。ご先祖や神々を迎えたり送ったりすることも、忘れ去られるのではないかと気がかりである。

 強烈な日差しはあるし、風まで熱い。それでも、夏が来たという実感に欠けるのは私だけか。気分が夏を迎えていないのに、暑さの中へ自転車をこぎ出すのは危ない。気持ちも身体も暑さに順応していない。気づかないうちに熱中症に罹るのはこんなときだろう。夏が向こうからやってこないのであれば、今年は今年の夏を探しに出かけることにする。夏を見つけて、炎暑の中でも自転車に乗るために、気持ちも身体も慣らしておきたい。
 
 今日は思い切って遠出をする。サイクルメーターの走行距離が50㎞を示すところまで走ることにしよう。ちょうど50㎞走ったら、そこから引き返す。ほぼ同じようなルートをとって帰れば、家に帰るときには100㎞を走ることになる。それだけ走れば、夏は見つかるだろう。何しろ自転車は季節と巡り合うには最高の乗り物である。走っていると沿道の樹々や草花、風や土の匂い、雑音でさえ季節を伝えてくれる
 
 走り出してしてしばらくは、風が心地良い。それほどの暑さでもなさそうだ。本物の夏にはまだ出会えない。蝉時雨が降りそそぎ、焼けた路面の温度を感じるころになると、景色も夏らしく見え始める。背中が焼けるように熱くなる。喉が渇く。そろそろ本物の夏に出会えそうな予感がしてくる。それにしても、久しぶりに走る50㎞は長い。かなり走ったつもりでも目標の距離には到達しない。我が家のある東員町から四日市市を過ぎ、鈴鹿市を通り抜けて、いつの間にか津の市内を走っている。ここまでくれば、海も近い。期待する夏があるにちがいない。津駅までたどり着いて、ようやく走行距離が50㎞になる。

 帰りは海沿いに走ることにして、海岸線に出る。海が見えるところまで走ると、探していた夏が目の前に広がっている。心象風景にある真夏の海。砂浜に人の姿はないが、まちがいなく今年の夏がここまでは来ている。気持ちも身体もいつの間にか暑さに慣れてきたらしい。訪れの遅かった今年の夏は、足早に過ぎていくだろう。やっと出会えた夏を自転車で楽しみたい。

家を出がけに真っ白な蝶がハンドルにとまった
夏探しの旅の相棒?
少し走ると暑くなってきた
ガードの下で小休止
出口の向こうに夏の気配がのぞく

海に向かって走る
夏草の向こうに海が見える
ようやく今年の夏に出会える予感…

 
波打ち際まで行くと、そこには間違いなく夏が来ていた
人影はないが、今年の夏をみつけた


ひとたび夏に出会ってしまえば、
ここにもかしこにも夏が来ていることに気づく

今年の夏は足早に去るような気がする
短い夏を楽しみたい
       
  
    夏探しの短い旅のコース
    下の数字は家を出てから帰るまでの時間(左)と距離




2020年8月1日土曜日

雨の日は…

 雨の日は自転車に乗らない。レインウエアを着て乗るのは面倒だし、視界も狭くなる。周りの音も聞こえにくい。年寄りの反応はそうでなくても鈍いのに、雨の日にレインウエアを着用しようものなら、危険この上ない。どうしても乗らなければならない理由があれば兎も角、無理をして乗ることはない。

 定年退職したあとの5年間、職種の違う仕事をさせてもらった。仕事場までの片道12㎞を、自転車で通勤をした。スポーツバイクに乗り始めた頃で、面白くて仕方がなかった。天気予報にちょっとでも雨マークがある日は、やむなく自転車通勤を断念した。それでも、朝夕の短い通勤時間に雨に遭うことはあった。避けられないのは夏の夕立。夕暮れ時の雨は最悪。前は見えない。路面は滑る。雨音は周りの音をかき消す。あわてて雨宿りの場所を探す。

 にわか雨をやり過ごしても、そのあとがよろしくない。路面が乾くまではまともに走れない。スポーツバイクにはフェンダー(泥よけ)がついていない。タイヤは丸出し。汚れた水を背中まで巻き上げる。おまけに、車体にこびりつく汚れが侮(あなど)れない。自転車は車道の端を走る。路面の最もよごれている場所である。雨に溶け出したほこりや泥、油を車輪が跳ね上げる。後の掃除も大変ならば、背中の汚れもシミになって落ちない。

 自転車通勤をしなくなってからは、雨の中を自転車に乗ることはまずない。梅雨の間はほとんど乗らない。乗れないという方が当たっている。自転車に乗れないときがあるのもいい。  梅雨が明けたら走りに行きたい場所をあれこれ考える。ちょっと時間をかけて、自転車の整備もしてみる。長雨の間は小休止と割り切るのも悪くない。ちょっと立ち止まってみると、先行きの修正もできるというものだ。

 コンピュータを開かない。メールのやり取りもしない。テレビは見ないし、電話にも出ない。音楽も聴かなければ映画も観ない。本屋にも図書館にも行かないし、本も読まない。もちろん、自転車には乗らない。そういう日を作ってみるのはどうだろう。子どもたちが、ゲームをしない日をつくりましょうと言われるのと同じである。大切に思っていることの優先順位が変わり、他にもやりたいことややるべきことが見えてくるかもしれない。

 花の色は うつりにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに

 古今和歌集の清少納言の歌である。「長雨(ながめ)を眺(ながめ)ている間に花は色を失い(私の容姿も衰え)、降(ふ)る雨のように私も無駄に時間を経(ふ)ることになった」

 なかなか洒落がきいている。しかし、梅雨が長引いて、雨を眺めつづけていても、そう簡単に何もかも衰えることはないような気がする。新しい思いも湧いてくるし、なによりも身体は動きたがっている。


梅雨空の下、出かけてはきたが…
遠くの山並みはぼんやりとかすみ、空気が重い 
こんな日は、ペダルも重い

雲行きが怪しい
もう少し走るか、引き返すか、
普段はあまり考えることもないが…

今にも雨が落ちてきそうな気配
家の近くならいいが、遠出をしていると心もとない

それでも、梅雨の中休みをうかがって出かける
家でじっとしていれば良さそうなものを…

梅雨明けを待ち焦がれる
愛車も同じ心境…

梅雨は必ず明ける
大雨による被害からの復興も必ず成ると思いたい
晴れわたる日がきっと来る