冬をむかえる

冬をむかえる
'20.12.22 愛知県海部郡飛島村梅之郷 日光川排水機場付近にて撮影

2021年12月25日土曜日

転ばぬ先に杖

 「馬ごとにこはきものなり。人の力の争ふベからずと知るべし。乗る馬をば、先ずよく見て、強き所・弱き所を知るべし。次に、(くつわ)・鞍の具(あやう)きことやあると見て、心に懸かる事あらば、その馬を馳すべからず。この用意を忘れざるを馬乗りとは申すなり。これ、秘蔵の事なり」。『徒然草の第186段に、吉田という馬乗りが言ったこととして、こう書かれている。

 自転車も、クロスバイク、ロードバイクやマウンテンバイクなどといろいろな種類のものに乗っていると、その自転車ごとに、手ごわいものである。馬は人の力で争っても及ばないものと知れとあるが、自転車も侮ってはいけない。自転車は機械なので、人間の力の及ばない仕事をしてくれる。それには危険も伴う。まずは、よく見て、どんな特徴のある自転車なのかを知るべきだろう。

 次には、轡・鞍ではないが、乗車のポジションやサドルの位置、ブレーキの効き具合や変速機の調子などに危ないと思うところがないか確認することも馬と同じである。ちょっとでも、気になるところがあれば、その自転車に乗って走ってはいけない。この用心を忘れない人が、本当の自転車乗りというものである。「これ秘蔵の事なり」。自転車に乗るときの大事な秘訣なのである。

 兼好さんの時代に自転車があれば、馬乗りと言わず、自転車乗りの秘蔵の事を書いたかもしれない。

 少し前になるが、朝日新聞に、「点検 自転車人気 乗る前に」「低い整備意識 故障・不具合で大けが」という見出しの記事が掲載されていた。

「コロナ禍でニーズが高まる自転車について、大半の人が点検や整備をする習慣がないとの調査結果が公表された」「au損害保険が(略)公表したアンケートによると、乗車前点検について『ほとんどしない』『全くしない』と回答したのが合わせて86.9%」「故障や不具合が原因の事故に遭ったり遭いそうになったりした人も19.5%いた」とある。

 記事の後半では自転車保険にふれ、加入を勧めている。乗り慣れている油断から、思いがけない事故が起きる。よく見て、強き所・弱き所を知り、危ないと思ったら乗らないで点検することをこの記事でも取り上げている。

 今年は、自転車の年間走行距離が1万㎞を超えた。毎日休まず27㎞走らないと1万㎞にはならない。多少の膝の痛みがあったが、幸い大きなトラブルはなかった。自分の自転車をよく見て、ブレーキの効き具合、タイヤの空気圧や変速機の調子を確かめ、異音が出ていることはないかと心に懸けて、体調とも相談しながら走っていることが功を奏していると思っている。

 自転車に乗るのに、杖をつくわけにもいかないが、転ばぬ先に杖を準備しておくくらい「用意を忘れざる」自転車乗りを心がけ、さて、来年も今年のペースで乗れるかどうか。


師走の空に下に
自転車をおく
今年は1万㎞も走った

時間に置き去りにされたものと
時間を追いつづけているものと

自転車には自転車の
時間が流れている

道が突然閉じられていたり

道はそれでもその先へつづいていたり

目を凝らして
用意を忘れなければ
秘蔵のことが見えてくる

 

2021年12月18日土曜日

拘る(こだわる)

 自転車のこと一つとっても、人によって拘るところが違うようだ。拘泥するなどというと、何だか悪い拘りのような語感がある。泥沼にはまっているような、泥がこびりついているような、という連想をするのは自分だけだろうか。何かに拘って、突き詰めようとすることは悪いことではない。むしろ、モチベーションを高めることになる。

 はじめてスポーツバイクに乗り始めたころは、走行距離に拘っていた。1日に何キロ走れるか。どこまで自転車で行けるか。走り始めてみたら、案外遠くまで行けるので、それが面白くなったのである。それまでは、自転車を通学に使ったり、近所へ買い物に行くときや村の寄り合いに乗って行ったりするくらいしか考えられなかった。せいぜい4~5㎞も乗ればいいところだろうというのが、自転車のイメージだった。

 クロスバイクを手に入れて乗り始めたら、20㎞、30㎞は簡単に乗りつづけられることが判った。1日中走っていられるし、そうすれば、走行距離は100㎞を超える。走行距離への拘りである。

 自転車に乗って出かけるようになると、同じような自転車に乗っている人と出会う。自転車を見せてももらったり、話を聞いたりしていると、自転車そのものへの拘りに気づく。雑誌や自転車に関する書籍も買い込んで、いろいろな部品や用品にも拘り始める。少しレトロな感じのする自転車がいい。年齢相応の雰囲気がある自転車に乗りたい。自転車を自己流で改造するという拘りである。

 それほどスピードを出すわけではないが、少しは速く、遠くまで行きたいと思って、ロードバイクも手に入れることになった。舗装路ばかりでは物足りない。荒れた山道へも入って行きたい。そう思ってマウンテンバイクも買ってしまった。用途の違う自転車を試したいという拘りである。

 次から次へと、拘ることが湧いてきてきりがない。新しいものを求め、のめり込むのはいいが、厳に慎まなければならいないことがある。他の人に自分の拘りを押し付けることである。ロードバイクでないと自転車ではないとか、マウンテンバイク以外の自転車に乗っているものは自転車乗りではないと主張をする人もあるようだ。人には人の、事や物への拘りがきっとある。自分と同じであることを人に求め、強要し、自分の拘りを吹聴するのはあまり格好がよろしくない。

自転車と付き合っているうちに、それとも、自転車に付き合ってもらっているうちに、拘ることが増えてきた。その拘りも自分だけの密かな楽しみということにしておかないと、顰蹙を買うことになりそうだ。 趣味などというようなものは、拘りのかたまりである。拘りもたしなみのうちくらいにしておきたい。執着し過ぎて泥沼にはまり、頭だけ出しているようではつまらない。 


冬にこだわって
冬に分け入る

冬にこだわって
冬の道を行く

冬にこだわって
冬の里山を巡る

冬にこだわれば
冬の展望

冬にこだわれば
冬の清澄

冬には冬のざわめき
遠くに少年たちの
声がきこえる





2021年12月11日土曜日

磨く

 師走ともなれば、スーパーやホームセンターでは季節商品として掃除用具が目立つところに並べられる。車の洗車グッズも同じような扱いを受けている。陳列棚を見ていると、「鏡面仕上げ」と銘打ったワックスがある。自動車用のワックスにも家の床用のものにもある。「激ツヤ」「高光沢」などと外箱や容器に大書したものもある。それらのワックスを使えば、鏡のように表面がきれいになり、驚くほどの艶がでるというアピールだろう。

息子が小さかったころに、「父さんは鏡面仕上げが好きやね」と言っていたのを思い出す。どうせワックスをかけて磨くなら、艶が際立って、光沢が冴える方が磨き甲斐がある。磨けば即結果に現れるので気持ちがいい。鏡面仕上げに憧れる。

 とはいえ、本当に光沢を出そうとすると、なかなか一筋縄にはいかない。何を磨くときでも、下地をきちんと整えて、汚れを落としておくことが大事である。汚れの上からワックスを引いても、うまく塗膜ができないので、きれいな艶は得られない。高価なワックスを買って、簡単にきれいな艶を出そうとしても思うようにうまくいかない。

 父は、98歳になる今も革の鞄を磨いている。手や腕の運動になるらしい。高価なワックスは必要ないという。ぼろ布で表面をこすり、ブラッシングを繰り返せば、革は光るというのが口癖である。下地をならして磨けば自ずと光沢は出る。ラジオを聴きながらせっせと鞄を磨く。リウマチで変形した指で器用にブラシを使って磨く。父の磨いた鞄の艶には深みがある。光らせようと思って磨いたのではなく、磨くという行為を楽しんでいる結果が深い光沢になる。

自転車の車体は面積が小さいので、磨くのに時間はかからない。だからといって、簡単に終わらせるのではなく、だからこそ時間をかけて磨けば、フレームもリムも、チェーンなども見違えるようにきれいな艶がでる。

 汚れがひどければ、洗剤やコンパウンドを使って下地を綺麗にする。それからワックスをかけておけば、しつこい汚れがつかない。普段はワックスを拭き取るときに使う布で、軽く表面を磨けば光沢は蘇る。磨くともなく磨く。チェーンなどは注油をしてしっかり拭っておけば光沢を帯びて、これが乗り心地にも関わるから侮れない。

 いくつになっても、自分を磨くことも大切だとは思うが、これは鞄や自転車を磨くように簡単にはいかない。下地を整えて、ということは、生き方を根元から見なおして、磨かなければならないのだから、一朝一夕にできることではない。

 この歳になって、自分を磨いてもそれほど光るとも思えない。父の鞄磨きのように、気張らずに力を抜いて、自分を磨くことを楽しめばいい。ひょっとしたら、深みのある艶が出るかもしれない。鏡面仕上げを目指すのは、愛用の自転車だけでいいだろう。ついでながら、年末の大掃除には床磨きもしたいとは思っている。


あなたが光を映さなければ
あなたの姿はわからない

あなたが光の波長を決めないと
あなたの色はわからない

あなたに光があたるとき
わたしはあなたがよく見える

あなたに光がとどかなくても
わたしはあなたを見ていたい

あなたが影にまぎれても
わたしはあなたを探すだろう

あなたが闇にしずんでも
わたしの指先はあなたの形を
わたしの網膜はあなたの色を
きっと覚えているだろう

あなたがあなたでいるかぎり
わたしはあなたを見つづける








2021年12月4日土曜日

偉大なる先輩たち

 県立北勢中央公園の遊歩道の端に自転車を停めていると、そばを通りかかった男性が同じように自転車を停めた。ふらりと自転車散歩に出たという装い(よそおい)である

「どうも帰り道が判らなくなってしまったようで…」と、その人が私に話しかけるともなく小声でつぶやいた。よく見るとかなりの年配である。「おじさん、どこからおみえですか」と尋ねる。「四日市。家は阿倉川なんやけど…」。それが本当なら、からここまで15㎞はあるだろう。まさか、徘徊、ということもあるまい。

「聖宝寺まで行った帰り道に、初めての道を通ったらどうも道に迷ったようで…」。何と、その日は朝から既に55㎞も走ったとの由。電動アシスト自転車の性能に詳しく、ナビアプリも装着してある。しばし、朝からの冒険譚に耳を傾ける。「家に帰ると70㎞くらいで、ちょうどアシストの電池がなくなりそうなんです」

「おじさん、おいくつですか」と訊いてみた。「85歳になりますわ」。一瞬なりとも徘徊などと思った自分は不届き千万、猛反省。アシスト付きの自転車とはいえ、1日の走行距離が70㎞。85歳にして、何たる健脚。公園の出口や帰り道の大まかな方向をお教えした。

「いろいろと話を聞いてもらって」、「ご親切に道まで教えてもらって」、「今日は家に帰って家内に話すいい土産話ができました」と、再び自転車にまたがって走っていかれた。「お気をつけて」と見送った後姿は、55㎞も走ったあととは思えないほど溌剌としていた。

 翌日、弥富・木曽岬方面へ出かけようとして、木曽川の堤にさしかかったところで、この日も年配の男性に声をかけられた。「どっから来たの?」、「あんたの自転車はええやつやなぁ」、「どこまででも行けそうやが」、「わたしは、家が弥富なんやけど、これから海津温泉まで行くんやわ」、「家から10㎞くらい来たけど、もう6、7㎞はあるでなぁ」。

 今回はこちらから尋ねなくても、尾張訛りで矢継ぎ早の語り口。昨日のこともあるので、徘徊を心配することもない。「失礼ですけど、おいくつですか」とようやく見つけた話の切れ間に尋ねた。「85やがね」。またしても85歳か。

 この人からは、弥富まではどういう道を走ると面白いか、木曽岬方面へはどう行けばいいか、いろいろな道を教えてもらった。日ごろから、この界隈を自転車で走り回っておられる様子。因みに、自転車は電動アシストなし。前かごに温泉グッズと思しきものを満載。偶然出会った85歳たちは超元気、恐れ入谷の鬼子母神。

 そういえば、私の尊敬する大先輩で、小学校の女性校長をされていた方も、妙齢。85歳近くになっておられるはずだ。先日、私のブログを読んでくださったというお電話をいただいた。しばらく話していると、ご自分の自転車の話題になった。

「ちょっと、私、横断歩道の真ん中でこけてねぇ」。「せんせ、お怪我はなかったですか」。「そら自転車だから、かすり傷くらいはできたけど、そんなことより、前のかごの荷物が道路に散らばって、カッコ悪くてねぇ…」。まだまだ、どこへでも自転車でお出かけになられる勢いだ。70歳の私などひよっこも同然。85歳の大先輩たちとその健脚に乾杯! 


季節は移ろい

季節の色はかわり

秋は深まるというけれど

移りかわるのは季節ではなく
わたしなのだ
コペルニクスになって考えてもみよ
わたしは自転し
動きつづけ
かわりつづける

枯れ葉が散れば
掃きあつめたり

季節の花を
咲かせたりしながら
わたしたちは移ろう
わたしたちは自転し公転している