本を読まなくなった。仕事をしているころは、商売柄、子どもの成長や発達に関する本を多く読んだ。学校経営や教員研修についての本も読んだ。授業をするために、教材に関係のありそうな本を何冊も読むことがあった。文献にあたり、学んだことを生かす機会があれば、次々と新しい本を探すが、最近はその必要がない。自転車関連の本を読んでいれば十分といったところだ。
生意気にも、小説くらいは原語で読むのがいいだろうと思って、簡単な推理小説などは英語で読む。これは時間がかかるが、理解できない単語は意味を想像しながらとばし読みすれば、それなりに理解はできる。慣れれば案外読めるものである。それも最近は中断している。
退職後は、悠々自適の生活ですねと人から言われる。父親や叔父の老後に付き合っているので、なかなかそういうわけにもいかない。悠々自適といい、晴耕雨読という。いずれも、俗事に煩わされない理想的な生活を指して使われるが、悠々自適というと何もしないでのさばっているという感じがするのは自分だけか。
それに比べると、晴耕雨読は多少勤勉さを感じて、それほどわるい語感はない。塩谷節山(えんやせつざん)の詩、「晴耕雨読、優游(ゆうゆう)するに足る」に由来する。天気のよい日は畑を耕し土に親しむ。雨の日は書を読む。ゆったりと日々を楽しむにはそれで十分ということか。やはりのさばっている感じだ。
私の場合は耕す畑がない。天気のよい日は自転車に乗るので、これは晴輪。雨の日は自転車に乗れないので、本を読んだり映画の観だめをしたりする。これなら雨読である。ところが、最近は雨の日も自転車の整備などに没頭することが多い。これだと晴輪雨輪である。
田舎住まいの走行会仲間は、みんな大きな納屋やガレージを持っている。冬でもストーブなど持ち込めば十分温かい。ときどきは、誰かのガレージを借りて、メンテナンスの会をする。気前のいい人ばかりなので、いつでもうちのガレージを使って自転車いじりをすればいいと言ってくれる。
近くに住む先輩は、自分のいないときにでもガレージを使って構わない、必要な工具も自由に使ってもいいと言ってくれる。ありがたい話だが、オーナーのいないガレージは使いにくい。
自分の家では、風の吹き抜けるカーポートの下で自転車を整備する。仲間たちのガレージに較べると環境は劣悪だが、雨や雪の日でも自転車をいじっていれば寒さを忘れる。晴輪雨輪の生活がすっかり定着しつつある。雨の日にも本を読まない。時間ができたら読もうと思って買い込んだ本は埃をかぶっている。いずれ身体が動かなくなって、晴読雨読ということになれば、買い込んだ本の出番がくるかも知れない。
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これまでのブログを拝見していて、MARIOさんの読書量が膨大だというのはすぐにわかります。
返信削除仕事柄だけではなく責任感や探究心をもって、自分の手で調べてみたり行ってみたり。子どもたちが抱く未知への興味や憧れを今もなおもち続けているのが、すばらしいです。
私は畑仕事は年間を通して楽しんでいますが、最近、本と名のつくものをほとんど読んでいません。読むとしたら季刊誌の野菜本くらい。読みたい気持ちはあるのですが、ネット三昧、雨の日は畑にも行けずついアルコールの誘惑に負けてしまいます。
『晴耕雨読』ならぬ「晴耕雨呑」。怠けています。
晴耕雨読はいろいろとアレンジができて、今の自分の生活ぶりを簡単に言い表すには便利な熟語ですね。
返信削除私は下戸ですが、晴耕雨呑というのも、いい生活だろうなぁと思います。
今のところは、たくさんの本を読まなくても、本当に面白いお気に入りの本を厳選して、じっくりと読めばいいではないかという気がしています。野菜を作り、野菜の本を楽しむ。その定型をはずさなければ、どんなことにも挑戦できそうです。自転車に乗り、自転車の本を楽しむ。これも定型の一つです。
そのうち、もっとたくさん本が読みたいと思うときが来るかもしれません。そのときは、また、たくさん本を読もうと思います。どうやって暮らしていても、自分の暮らしぶりが優游素敵と思えるとようにしたいです。