静物のこころは怒り / そのうはべは哀しむ / この白き器物(うつは)の瞳(め)にうつる / 窓ぎはのみどりはつめたし
萩原朔太郎の『純情小曲集』に収められた「静物」という詩である。朔太郎さんは、処女詩集『月に吠える』の再版にあたり、自筆の前書きにはこうも書いている。
「私の詩集(略)は正に今日の詩壇を予感した最初の黎明であったにちがいない。(略)この詩集によって、正に時代は一つのエポックを作ったのである。げにそれは夜明けんとするときの最初の鶏鳴であった。そして、実に私はこの詩集に対する最大の自信が此所にある」。日本近代詩の父といわれる詩人の自負であり、抱負である。
ところがこの人の『自転車日記』という短い文章を読むと、これが同じ人とは思えない。「今日より自転車を習わんと欲す。(略)操縦すこぶる至難。ペダルを蹈めばたちまち顚倒す(略)身体皮肉痛苦甚だし。寄りて止めて帰る」。翌日には、「弟を伴いて教師となし…、弟曰く、さながら酔漢の漫歩に似たりと」。三日目にはようやく乗れるようになるが、坂道で転倒し「数ケ所の打傷を負えり」おまけに自転車を壊し、「再度自転車に乗らざるべきを約せり」と結んでいる。
それでも、2週間後には練習を再開し、遠乗りができるようになる。そのひと月半後に、老婆とぶつかって騒動を起こしたところで「記して日記に銘す」と書いてこの日記は完了する。近代詩の父も自転車ライフの黎明期は覚束な気で、悲惨でもある。
まるい空がきれいに澄んでいる / 鳥が散弾のようにぼくの方へ落下し / いく粒かの不安にかわる / ぼくは拒絶された思想となって / この澄んだ空をかき撩(みだ)そう
これは知の巨人といわれた吉本隆明の初期の詩集『転移のための十編』の中の「その秋のために」という詩の冒頭である。代表的な著書『共同幻想論』、『言語にとって美とはなにか』などは極めて難解で、何度も読むことを断念した記憶がある。この人の著書を持つことが知のステイタスだと考えられていた。
その吉本さんの『自転車哀歌』という晩年のエッセイを読んだ。「足腰と視力がままならなくなった昨今では、二百メートルくらいを境に、それを超えたところに行くのには、自転車をたよるしかない」。自転車で転んでいると中学生や高校生が「小父さん、大丈夫?」といって助けてくれる。「『俺もそんな年齢になったか?』と恥ずかしかったが、『たしかにそうとしか呼ばれようがないよな』と諦めがついてからは『すいません』とか『有難う』と言えるようになった」。これがあの吉本さんかと疑うほど平易な文章で判り易い。
近代詩の父も知の巨人も、自転車と出会った時期や自転車ライフも終わりに近づくころには、私のような凡人と大差ない。自転車との関係性は、孤高の詩人や偉大な評論家・思想家でも同じようなものだと知れると、ちょっと嬉しい。
この細いフレームには 意思が宿り思想が宿る 自転車とはそういうものだ |
タイヤの山に 遠くの山が重なる 山は重複し反復し 連なっていく |
自立し自律するために 走りつづける 自転車とはそういうものだ |
人の速さよりは速いけれど 機械というには遅すぎる この絶妙の心地よさはどうだ |
今日には今日の目的地まで来ても 明日には明日の目的地があって また走り始める 自転車とはそういうものなのだ |
今回のお二人の詩は難解で、私のレベルでは無理ですね。
返信削除以前から思っていたのは、詩人にせよ小説家にせよ、はたまた音楽家や美術家、書家、陶芸家など芸術に携わる人たちは、それだけに精通しているのではなく、かなりの高学歴で多岐にわたって能力を発揮できる人物であること。一芸だけに秀でているのではなく、あくまでもそれは氷山の一角であり、まだまだ引き出しはいろいろありそうな才能の持ち主であると思います。
大学時代、友人が自分の本棚に並べてある吉本隆明の全集を見ながら自慢気に話していた記憶がありますが、おそらく半分も理解はできていなかったでしょうね。
今回の『自転車日記』『自転車哀歌』の一節を読ませてもらって、彼らも人の子、ホッと胸をなでおろした次第です。芸術家といえ、人間味がないとさみしいです。ありがとうございました。
いつもコメントをいただきありがとうございます。
返信削除二つの詩は、ほんの一部しか紹介していないので、難解なところもあると思います。詩集をまるごと紹介すれば、もっと詩の本質に近づけるのではないでしょうか。とはいえ、私も、ほんとうに理解できているかどうか自信はないです。
ちょっと見ではよく判らないものも、じっくりと付き合えばいろいろなものが見えてくる、そんなところもあるかもしれません。自転車も乗れば乗るほど、面白くなります。いじっていると仕組みが理解できて、整備や修理も面白くなります。「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」ですかね。
芸術も熟練の仕事も、学歴や理屈は関係ないようにも思います。自転車に一生懸命乗るかどうかと同じで、情熱を注いで続けられるかどうか…、
朔太郎さんの自転車のように、誰かが一生懸命やっていることは、失敗や滑稽なところがあっても、何かしら感動を呼びます。