台湾の作家、呉明益の小説『自転車泥棒』を読んだ。原題は『單車失竊記』。自転車泥棒の話ではなく、消えた自転車の物語である。「失窃記」ということからもそれはうかがえる。
同じ邦題の映画『自転車泥棒』は原題も『Ladri di Biciclette』。これも、盗まれた自転車を父子で探す物語で泥棒は出てこない。映画は盗まれた自転車を探し続ける父子の1日を描く。自転車はついに見つからない。
小説の方は、父の失踪とともに消えた自転車を「ぼく」が見つけるところから始まる。その自転車の来歴にまつわる100年の物語である。古い自転車のコレクターである「ぼく」は、20年前に失踪した父親が乗っていた自転車に偶然出会う。その自転車を買い戻そうとするが、持ち主が判らない。
「ぼく」はこれまで自転車を所有していた人を捜せば、失踪した父のその後も判るのではないと考える。自転車の持ち主を辿り始めて、いろいろな人物と出会っていく。写真家のアッバス、彼の父バスアが残した戦争の記録。バスアは日本語名の森勝雄と改名され、日本軍の銀輪部隊という自転車部隊に入隊させられてマレー半島で戦った。自転車が兵器に使われた時代があった。
「台湾で今『脚踏車』という単語が指すものを、もし『自転車』と言ったなら、それは戦前台湾の日本語教育を受けた人だろう。『鐵馬』や『孔明車』と言うなら、その人の母語は台湾語ということになる。『単車』や『自行車』という単語を口にすれば、おそらく中国南部からやってきた人たちだろう」。自転車は台湾の歴史であり国情でもある。
物語は「ぼく」が父の自転車の遍歴を調べるうちに、時代をさかのぼり、国を超える。人と生き様が連鎖する。台湾の国情やそこに暮らす人々の思いを載せた自転車が、過去から蘇えって走り出したようだ。自転車には載せきれないほどの物語が積まれている。
![]() |
大きな街道を行く |
![]() |
せまい裏道を抜ける |
![]() |
なりわいの形があり |
![]() |
なりわいの跡がある |
![]() |
花の咲く季節があり |
![]() |
花の咲く場所がある |
『自転車泥棒』という言葉ですぐに浮かんだのは、自分の子どものことです。
返信削除もう30年ほど前でしょうか、娘が高校に通うのに電車を利用していましたが、3年間のうちに3度ほど自転車を盗まれました。鍵をきちんとかけているのに、鍵を壊してまで乗っていくのです。家族総出で捜しまわり、2回は見つかりましたが、あと1回は最後まで出てこずに新しい自転車を買った記憶があります。当時は全国的に校内暴力や学校が荒れていた時代を引きずっていた頃だったのかもしれません。
さて、ここに紹介された台湾の『自転車泥棒』という作品は格調が高いですね。またMARIOさんの説明がお上手で、思わず引き込まれてしまいます。『自転車泥棒』という日本名表題が悪い。とにかく買って読んでくれたら印税が入るという出版社の思惑が見え隠れします。つまらないことですが、親子の名前がバスアとアッバス。これって順番をひっくり返しただけみたいで少し笑えましたが、台湾ではこんな名付け方が多いのかも知れませんね。
この呉明益という作家は、有名な文人なのでしょうか。台湾の小説には今まで一度もふれたことがないので、これを機会に読んでみようと思います。ありがとうございました。
。
人の雨傘や自転車をまるで自分の物のように持ち去り、使い捨てにする。そういう感覚が理解できません。何とも嘆かわしいことですね。
返信削除紹介した『自転車泥棒』の物語の時代は、自転車に自動車くらいの価値のあったころです。作者の呉明益氏の作品は何作か日本語に翻訳されているようです。まだ若い作家です。『自転車泥棒』という題名に引かれて彼の作品を初めて読みました。
Amazonで『自転車○○』というような題名の本を見つけると、つい購入してしまいます。その他の本を読むことは少なくなりました。
『自転車泥棒』の本編では、各章の前に「ノート」がつけられていて、自転車の歴史などが紹介されています。そこだけ読んでも興味深いです。また、作者自身が古い自転車のコレクターで、自ら描いた自転車の挿絵もあって、これも見ものです。ぜひご一読ください。