夏の暑い頃から秋口にかけて、心地よい風の吹く陽かげを休憩場所に選んでいた。それが、風のあたらない陽あたりのよい場所に変る季節である。
自転車で走っていて、ここらでひと休み、と選ぶところは不思議と神社が多い。子どもたちの遊ぶ公園などで休むことは少ない。不審者と間違えられても困る。神社だと気兼ねなく休憩できるのは、自分だけの感覚だろうか。他の自転車愛好家にも尋ねてみたいところである。ご近所の自転車で一緒に走る人たちも、休憩には神社が落ち着くという。
寺院の境内へは立派な山門をくぐって入るが、神社には飾り気のない鳥居をくぐって入る。敷居の高さが違うようだ。お寺にはご住職の住まいであるお庫裡があって人の気配がする。これが気分的にゆっくりしないということもある。山の中の無人の寺であれば、その範疇にあらずということだが、お寺の境内にはどうも入りにくい。
神社には繁った杜がつきもので、それが格好の陽かげをつくってくれたり、風よけになってくれたりもする。信仰心がそれほど篤いわけではないが、寺院の場合、宗派も多様で、どこのお寺にでも気軽に入って参拝するというのはなじまない気がする。神社には宗派がない。神社によって祀られる神々は違っていても、参拝の作法は同じである。神々は日本人すべての祖先でもある。
神道では教祖や経典がなく、神はすべてのものに宿ると考えられる。神社の境内には清浄な空気が流れているが、Very Welcomeな雰囲気でもある。ふと立ち寄れば、森羅万象が出迎え歓迎してくれる。手を合わせ、お詣りしてから休ませてもらうという気持ちが自然に湧く。神社に癒しを覚えるのは歳のせいでもあるのか。とにかく、ここでひと休みと神社に寄ることが多いのである。
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走るのも面白いが 停まるのも面白い |
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通過点になったり 目的地になったり |
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一休みすれば その先に開ける 道や場所がある |
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進むのは前へばかりではない 後に向かって進むこともある |
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ときには宗旨替えもする 開かれたお寺もある |
子どもの頃、神社といえば近所の子どもたちのたまり場でした。学校が終わって家に着くと、一目散に神社へ行く。自然に友達が集まってきて、缶けりをしたりかくれんぼをしたり、なわとびをしたり鬼ごっこをしたり。いろいろな遊び、遊び方を覚えていくのが神社でした。
返信削除氏神様には常駐の宮司さんもいないので、お小言を頂戴することもない。たまに近所のおじさんがのぞきに来て、やり過ぎたらほどよく叱ってくれる。神社は、子どもたちを育てる格好の場所だったと思います。
MARIOさんがおっしゃるように、お寺は敷居が高い。無住の寺院はほとんどないので、思う存分遊びたい子どもたちにとっては常に監視されているようで、本来の自分らしさが出せないでしょう。
神社には必ずといっていいほど杜があり、そこを吹き抜ける風にも神が宿っているような厳かさが感じられます。ほぼ各字ごと(部落ごと)に神社はあり、掌を広げて地区の住民を受けいれる度量の大きさが伝わってきます。なかには商業主義に溺れている神社もあるので一括りにはいきませんが、自転車で走ってひと休みしたとき、心身ともにリラックスできる場所・空間であってほしいと思います。
今回も素敵な文章や写真、ありがとうございました。
べーえんべーさんとは同じ世代なので、遊びや体験、育った時代の持つ雰囲気などにも通じるものがありますね。
返信削除自転車で走っていると、子どものころと同じような情景に出会ったり、子どものころに考えていたようなことに改めて気づいたり、不思議なめぐりあわせを感じることがあります。
普段自動車に乗っているだけでは見過ごしてしまうようなことに気付かされることもあります。
ふらりと自転車で出かける時間を大切にしたいです。