冬をむかえる

冬をむかえる
'25.1.22 山を見て走る

2024年7月27日土曜日

夜型改善計画

  猛暑が続く。気温は体温を越え、入浴温度さえも上回る。熱中症アラートが出される。日中、自転車に乗るのは危険である。

 夏休みになると思い出す。朝の間の涼しいうちに勉強や読書をしましょうと先生からいわれた。夏休みになって3日くらいは、涼しいうちに勉強らしきことをやった気もする。

 数日もすれば、チャンネルは完全に遊びに切り替わる。宿題は置き去りにされ、朝から蝉捕り、虫捕り、魚捕り。友だちを訪ねて自転車で徘徊する。夏休みの計画と日課表は崩れ去り、真っ黒に日焼けする。勉強は涼しいうちにする方が効率が上がるのなら、遊びも涼しい時間の方が集中できる。そんな風に考えたかどうかは兎も角、夏休みは終日遊びの時間へとシフトする。

 走行会の仲間と一緒に走るのも、早朝の涼しい時間が良かろうということになった。次回は、いつもの場所へ7時に集合すると決めた。メンバーの中には、集合時刻は6時でもよいという者もいる。それには賛同しかねる。とにかく私は朝に弱い。

 7時に集合ということになれば、逆算して5時半には起きたい。前の晩に早く就寝すれば良いとはいえ、急に早く寝つけるものでもない。夜の時間は貴重である。本を読む、映画を観る。ネットで自転車の新しい情報などを調べる。YouTubeの動画で自転車の修理や改造の方法などを視ているとアッという間に夜は更ける。就寝時刻は午前1時から2時になる。

 仕事をしていた頃には、早く起きて出勤していた。当時も夜は遅くまで起きていたのだから、その気になれば朝早くに起きることもできる。夜の時間を削って早寝早起きにこれ努めるか、多少の寝不足を我慢するか。夜型から朝型への変更は、子どもころに作った夏休みの計画や日課表を実行するよりも難しそうだ。

きのうとは決別してきた

今日は今日のことだけを見る

明日のことは明日になって思う

そうやって
完結していたはずの日々が
いつかつながってしまって
断ち切れずに流れていく

決められた場所に
決められた時間に
自分がいないことが
気にかかる

2024年7月20日土曜日

パンク恐怖症

  パンク。語源は英語のpuncturepunkだけだと「若造」とか「くだらない」といった意味だ。タイヤのパンクはflat tireともいう。運がよければ、初めて自転車に乗った日から、一度もパンクを経験したことがないという人もいるだろう

 軽快に踏んでいたペダルが少しずつ重くなる。ガタガタと振動が突き上げる。前輪であればハンドル操作が鈍くなる。ぐにゃりとした感触が手と腕に伝わる。さてはパンクか。自転車を停める。ぺしゃんこになったタイヤは見たくない。言うに言われぬ暗澹とした気分になる。 

 コンビニや公園で休憩していると、ときどき同年輩の人に声をかけられる。実用自転車とは違う自転車が珍しいのだろう。一番多いのが、タイヤが細くて大丈夫かという問いかけだ。実用自転車に較べれば、タイヤの幅は半分くらいに見える。

「こういう自転車は安定して走れるのか」、「パンクはしないのか」、さらに「パンクをしたときはどうするのか」と、よく似たことを尋ねられる。

 予備のチューブを携帯していて、パンクをしたときには新品のチューブに交換すると言うと納得してもらえる。パンクを心配してくれる人は、パンクで苦労した人にちがいない。パンクした自転車を押して自転車屋さんを捜した。出がけにパンクに気づいて遅刻をした。パンクは苦い思い出だ。

 タイヤの性能が良くなっても、パンクは避けられない。1本は予備のチューブを携行しているが、2回つづけてパンクすることも考えられる。そのときは、ゴム糊とパッチを使って現場で修理することになる。

 これまで何度もパンクに見舞われた。その場で自転車を停めてチューブを交換した。幸い、同じ日に2回パンクしたことはない。考えた矢先にそれが現実になることもある。パンクの話題は避けた方がよかったかもしれない。

タイヤがパンクしたとか
だれかに出会ったとか

それはどの道を
来たからとか

どの道を
行くからとか

今ここにいて
考えてみても
よくわからないのだ

来し方を
振り返っても
なおさら
わからないのだ

2024年7月13日土曜日

小説『自転車泥棒』

 台湾の作家、明益めいえきの小説『自転車泥棒』を読んだ。原題は『單車失竊記』。自転車泥棒の話ではなく、消えた自転車の物語である。「失窃記」ということからもそれはうかがえる。

同じ邦題の映画『自転車泥棒』は原題も『Ladri di Biciclette』。これも、盗まれた自転車を父子で探す物語で泥棒は出てこない。映画は盗まれた自転車を探し続ける父子の1日を描く。自転車はついに見つからない。

小説の方は、父の失踪とともに消えた自転車を「ぼく」が見つけるところから始まる。その自転車の来歴にまつわる100年の物語である。古い自転車のコレクターである「ぼく」は、20年前に失踪した父親が乗っていた自転車に偶然出会う。その自転車を買い戻そうとするが、持ち主が判らない。

 「ぼく」はこれまで自転車を所有していた人を捜せば、失踪した父のその後も判るのではないと考える。自転車の持ち主を辿り始めて、いろいろな人物と出会っていく。写真家のアッバス、彼の父バスアが残した戦争の記録。バスアは日本語名の森勝雄と改名され、日本軍の銀輪部隊という自転車部隊に入隊させられてマレー半島で戦った。自転車が兵器に使われた時代があった。

 「台湾で今『脚踏車』という単語が指すものを、もし『自転車』と言ったなら、それは戦前台湾の日本語教育を受けた人だろう。『鐵馬』や『孔明車』と言うなら、その人の母語は台湾語ということになる。『単車』や『自行車』という単語を口にすれば、おそらく中国南部からやってきた人たちだろう」。自転車は台湾の歴史であり国情でもある。

 物語は「ぼく」が父の自転車の遍歴を調べるうちに、時代をさかのぼり、国を超える。人と生き様が連鎖する。台湾の国情やそこに暮らす人々の思いを載せた自転車が、過去から蘇えって走り出したようだ。自転車には載せきれないほどの物語が積まれている。 

大きな街道を行く

せまい裏道を抜ける

なりわいの形があり

なりわいの跡がある

花の咲く季節があり

花の咲く場所がある

2024年7月6日土曜日

便利にはなったけれど

 何か困ったことがあると、スマートフォンでインターネットにアクセスして調べる。辞書を引くよりネットを引くという横着ぶりである。

 検索エンジンでキーワードを使って何かを調べる調べ方も随分変わった。チェーンがはずれたときの対処法を調べようとする。以前の検索エンジンでは、キーワードを文字入力して必要な項目がヒットするまで検索を繰り返さなければならなかった。

 「自転車のチェーン」「自転車のチェーンの修理」あるいは「自転車のチェーンがはずれたときの対処法」などと入力して、知りたい項目が出てくるまで探したものである。

 最近はそんな面倒なことはいらない。スマートフォンを使って調べてみる。検索のやり方も違えば、キーワードの概念も異なる。スマホの画面でマイクロホンのアイコンを押して、「チェーンがはずれた」と叫ぶ。叫ばなくても、静かに祈るように話してもいい。

 それだけで、チェーンがはずれたときの対処法についての動画がいくつも画面にあらわれる。候補にあがった動画から、再生時間やわかりやすそうなものを選んで視聴する。説明の通りにできれば、その場でトラブルは解決するというわけだ。

 何本か動画を観た限り、ごく普通の実用自転車の後ろのギアからチェーンがはずれたときの対処法は見つからなかった。

 後ろのギアからチェーンがはずれると、どんなに引っ張ってもこじってもギアにチェーンがかからない。そのときは、先ず前の大きなギアからもチェーンをはずす。それから後ろのギアにチェーンをはめて、最後に前のギアにチェーンをかけてもどす。ちょっとした知恵と技だ。

 インターネットの情報は手軽で便利だけれど、すべてを補えるわけではない。実際を見て試しておくことが、知恵になり技になる。こつを掴むということだろう。


点在するものたちを出会わせる

組み上げて形にしている

孤立する場所や時間を

つなげて走っている

仮想の森の中で出会うものと

今ここで出会うものを
つなげて走っていく