冬をむかえる

冬をむかえる
'25.1.22 山を見て走る

2025年6月21日土曜日

ちりも積もれば

  べーえんべーさんから毎回コメントをいただく。ありがたいことである。531日の記事「自転車的金銭感覚について」でいただいたコメントの一部を抜粋する。

「自分流にカスタマイズ化したりして世界で一台しかないオリジナル溢れるバイクに仕上げるのですから、すばらしいです。ちりも積もれば山となる。あちこちいじれば、費用総額は馬鹿になりません。

 おそらくMARIOさんが自転車を購入してからの記録が、微にいり細に入りあるような気がします。よろしければそれがどんなものか、ご紹介いただけるとうれしいです」

 べーえんベーさんのご明察通り、初めてクロスバイクを買ったときから、購入した自転車関連のグッズや部品、消耗品などを記録している。その一部をお知らせできればと思う。

 購入日、購入場所と値段を書き込んでおけば、Excelが並べ替えや金額の合計を計算してくれるので便利だ。

 初めてのクロスバイクをネット販売で購入したときには、現物が届く前に、自転車のスタンドや空気入れ、交換したいサドルなどもネットで注文した。あれやこれやと買っていると出費が積もりに積もって山になってしまった。自転車本体の価格を大きく超えた。

 3年ほど前から、古くなってきたクロスバイクの変速機関係やハンドル、ブレーキ周りを新しくした。サドル周辺の部品も交換した。

 部品代が積もって、また高い山となった。安いクロスバイクなら新品が買えたかもしれないが、長年愛用している自転車が蘇えるのもうれしい。新鮮な気持ちでまた走ろうという気になる。

 クロスバイクを買った当時に準備した用品の一覧と、ここ3年間で手を加えた部品などの記録を紹介しておく。細かいので判りにくいが、記録を残している証拠にはなるだろう。

 他にロードバイクとマウンテンバイクの記録もあって、ちまちましてはいるが、愛車の記録を残しておくのも趣味のうち。小さな記録も積もれば歴史だ。


初めて買ったロードバイク 
ネット通販で2割引き 69,800円が 55,840円
自転車用品やすぐに交換した部品の合計 85,674円

この3年間で交換した部品代 
積もりに積もって76,774円
自分でやらずに工賃を払えば
部品代と同じかそれ以上かかる
山の高さはこれでも半分以下


2012年9月13日
通販で届いた翌日
生成りのクロスバイク

2025年6月18日
今日のクロスバイク
まちがい探しのようだが
まちがっているわけではない

2025年6月14日土曜日

自転車修理の恩恵

  1日家を留守にしていて帰宅してみると、郵便受に「警告」と書かれた印刷物が入っていた。読んでみると漏水のお知らせ。水道水が漏れているようだが、留守なので確認できない。水道工事屋さんに依頼して、点検してもらうようにという内容だった。

 漏水の心当たりがないわけではない。水洗便器のタンクから少しずつ水が漏れているのは気づいていた。ただ、少量の水漏れで水道メーターのパイロット(漏水を示す計器)が反応するのだろうか。

 家じゅうの蛇口が全部閉じていることを確認しても、漏水は続いている。地中で水道管が割れていると大ごとだ。試しに便器の水槽の元栓を閉じてみる。と、漏水を示すパイロットの回転が止まった。良かった。深刻な水漏れではない。原因は便器の水槽。

 そうと判れば、あとは業者さんに修理を依頼すればいい。というところで、しばし考える。普段から自転車の修理は自分でやっている。便器の水漏れくらい修理できるだろう。

壊れた部品を取り外す。新しい部品を買う。それを取り付ける。使う工具は違っても、修理の段取りは自転車の修理と変わりない。いつものことだが、YouTubeの動画で修理の方法を調べてみる。自分でもやれそうだ。業者さんに出張修理代を払うことを思えば安上がりだ。

 長く使っているので、水槽の水位を一定に保つボールタップと必要なときに水を流すフロートバルブを全部交換した。部品代〆て4,899円。工賃無料。配管を緩めて部品を付け替えるだけなので、手間のいる作業ではない。水漏れは見事に止まりました。

 自転車は水漏れに関係ないが、日ごろ自転車いじりをしていればこそ、水漏れの修理も自分でやってみようという気になれるのだ。自己流の修理がうまくいくとは限らない。リスクを伴う。それでも、やろうとする気合は自転車修理から受ける恩恵である。

不調になったら
弱気になるし

弱気になるから
不調にもなる

新しい色に塗り替える

新しい部品に取り換える

気分も入れ変えて
使いつづける

2025年6月7日土曜日

東海道・関宿まで

  クロスバイクを買って1年が経った頃、旧東海道を辿って、関宿まで行ったことがある。桑名の七里の渡し跡を起点に、東海道の名残をとどめる道を探し、四日市の追分から亀山方面へ走る。関の宿場はその先である。現在の国道1号線に沿って、古い街道が今も残っている。家を出てから関宿まで50㎞ほど走った。

 「江戸時代の町並みを色濃く残す東海道47番目の宿場町関宿。江戸から明治期にかけての町屋が約200軒も連なる様子は圧巻。国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されている。すべてがあわただしく変わってきた時代の中で、関宿だけは、ゆっくりとおだやかな時間が流れているかのよう」だ。 観光三重というネットの記事はこんな風に紹介されている。

 オートバイや自動車では何度も行ったことがあった。自転車で行ったときには、よくまあこんなところまで来られたものだと、自分のことながら感心した。自転車で訪ねてみると、なるほどよけいに静かな時間が流れているような気がした。

 先日、椿大社まで走った。爽やかな五月の風が道の先へと背中を押す。久しぶりに関宿まで足を延ばす気になった。椿大社から20㎞。好天にもかかわらず関宿の古い町並みは閑散としていた。訪れる人の姿はまばらで、今も、今日も、ここは時の流れが静かだ。

 帰り道は、国道1号線を桑名まで走ることにした。石薬師から采女を抜け、四日市、富田から川越。ひたすら、車道の左端を走る。大型トラックが行き交う。危険極まりない。 大きく右側によけて追い越していく車が多いが、そうばかりとは限らない。車に引っ掛けられるのではないかと冷や冷やものだ。椿大社や関宿の静けさが嘘のようだ。

 なんとか無事に我が家に辿り着いて、走行距離はほぼ100㎞。騒がしい道を帰ったので、関宿の落ち着いた街道の佇まいがよけいに印象に残った。

通過点とか
目的地とか

到達地点というのもあるけれど
どこまで行けたら終着点なのか

それはその日の
雲行き次第
風まかせ
体力次第
脚まかせ


道を選んで行き

道に選ばれて行く

2025年5月31日土曜日

自転車的金銭感覚について

 自転車量販店やホームセンターの自転車コーナーに置かれている自転車。普段の買い物などに使うようなものであれば、2,3万円で手に入る。最近は電動アシスト自転車も多く見かける。それだと10万円前後というところか。

 日常使いの自転車は、買ってしまえばほとんどお金がかからない。燃料はいらない。税金もかからない。運悪くパンクでもしない限り、金銭的な負担はない。自転車は手軽で安い乗り物というのが一般的なイメージだ。

 趣味で乗るスポーツ自転車ということになると、多少話が違ってくる。入門用のクロスバイクで10万円、少し本格的にということでロードバイクを考えれば、安くても20万円程度のものが欲しくなる。上を見ればきりがない。ロードバイクには、50万円も100万円もするようなものもある。一般的自転車的金銭感覚を大きくはみ出す。 

 知人が、ロードバイクのシフトレバーにつけられたゴムカバーが劣化したので、交換したいとスポーツ自転車専門店で相談した。部品が製造中止になっているので、変速装置まるごと現行型で高性能のものと交換することを勧められた。1020万円必要だといわれたそうだ。

 劣化したゴムの部品は2,0 00円も出せば買える。それがないだけで変速装置全部を交換するのか。高級な自転車を扱う専門店の金銭感覚が違うのか。勧められるままに自転車や部品を買う客の金銭感覚の問題か。普段使いの自転車、お値段3万円、とは全く違う世界だ。

 余計なお節介とも思ったが、知人には廃版になった部品をネットで探すか、流用できる型番の近い部品を試すことを勧めた。出費2,000円程度で何とか抑えたい。高齢者の細々とした趣味である。高価な部品を組んだとしても、自転車にいつまで乗れるのか明日をもしれない。せいぜい実用自転車的金銭感覚でスポーツ自転車を楽しみたい。

ありふれた五月を走る

いつもの場所を訪ねる

ありきたりの走り

これが一般的だと思っているが

これを一般的だと思い込んでいるだけなのか

これは一般的にみても一般的なのか


2025年5月24日土曜日

自転車レースを観戦する

  520日、今年も、「この日、世界がいなべに集う」。ツアー・オブ・ジャパン、いなべステージ。UCI(国際自転車競技連合)公認の国内最高峰の自転車ロードレース大会、都府県をまたぐ唯一のステージレースだ。

 海外7チーム、国内9チーム、96名の選手が参加して、8日間、8つの都市を転戦する。選手たちは毎日100㎞ほどのアップダウンの多いコースで競走し、レースを終えるとすぐに翌日の開催地へ移動していく。

 大会3日目にあたるいなべステージは、三岐鉄道北勢線の終着駅、阿下喜駅前からパレードスタート。その後、114.8㎞のコース8周、パレードラップを含む127㎞で熱戦が繰り広げられる。

 今年も、ご近所の自転車仲間と連れ立ってレース観戦に出かけた。阿下喜駅前をスタートするパレードを見送り、選手集団の後を追うように自転車でレースコースへ向かう。メイン会場のいなべ梅林公園へは既に多くの観戦者が詰めかけているだろう。

 徹底した交通規制がされていて、車や自転車ではコースへ近づけない。日頃走り慣れたなじみの地域なので、小さな集落の間を抜け、田んぼ道を辿ってコース脇まで辿り着く。コースの中間地点辺りは閑散としたものだ。この日、世界が集っているとは思えない静けさだ。

 自分たちなら激坂を含む114.8㎞のコースを1周するのに1時間、休憩もしていると2時間はかかるな。選手は20分で1周するぞ。しかも3時間で127㎞走る間、休憩なしや。最高時速は70㎞を超えているやろ。平均時速は40㎞以上やな。選手たちの激戦をよそに能天気な会話をしながらのレース見物だ。

 レースの成績は着順や走行タイム、前日までの獲得ポイント、激坂ゾーン限定での戦績などで決められる。ルールが複雑でレースの見どころがよく判らない。レース展開がよく理解できないとはいえ、世界の一流選手たちの息づかいが聞こえる場所でレース観戦ができるだけで十分満足だ。最新最高のロードレース用バイクも間近で見られた。至福のひとときだった。

あしたには
ここに世界が集い

そのまたあしたには
誰もいなくなったとしても

動き始めた
世界の流れは
止められない

流れは連綿と続き
ときには先を争い
ときには先を譲る

ときには流れには逆らって
孤高のままに行くのも良い


2025年5月17日土曜日

船で川を渡る

 「村の渡しの船頭さんは 今年60のおじいさん 年はとってもお船を漕ぐときは 元気いっぱい櫓がしなる ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ」

 子どものころに童謡『船頭さん』を聴いても、「村の渡し」の意味が判らなかった。「村の私のおじいさん」が船頭さんをしていると思っていた。60歳が年をとったおじいさんといわれた時代だ。渡し船は、子どもの知識の及ぶ範囲にも生活圏内にもなかった。

何年か前に、自転車で木曽川の左岸を走っていると、「愛知県営西中野渡船場」という道標が目に入った。昨年、知人と二人で同じ場所を通りかかったときには、事務所らしき建物を訪ねてみた。

県道に架かる橋と同じ扱いなので、誰でも無料で対岸の岐阜県側まで渡してもらうことができる。自転車も乗せられる。対岸からこちらへ渡りたい人は、備え付けの白い旗を掲げると、渡船が迎えに行く。何とも悠長なやり方だ。運行中と知って喜んだが、その日は生憎の運休日で乗せてもらえなかった。

 気候がよくなったので、前に一緒に行った知人と二人でこの渡し船で川を渡りに行った。木曽川。長野から岐阜、愛知を抜け、伊勢湾に流れる、総延長229㎞の一級河川。明治の時代には28か所もの渡船場があった。

 今ではただ一か所、西中野渡船場だけが残る。第五中野丸という小さな渡し船に自転車と一緒に乗船させてもらう。サイクリストの利用も多いのだろう。船頭さんにどこから来たのか、どんなコースを走って来たのかと尋ねられる。五月の風が川の上では尚更爽快。

 近々渡し場の上流に新しい橋が架かると、渡し船はなくなる運命かもしれない。風前の灯火。何とも惜しい。

 「雨の降る日も岸から岸へ / ぬれて船こぐ」おじいさんも、「みんなにこにこゆれゆれ渡る どうも御苦労さんといって渡る」乗客もいなくなるのはさみしい。この日、5時間80㎞の自転車旅に、5分間800mほどの小さな船旅が大きな跡を残してくれた。

はるばる街道を辿る

川をめざし
川を渡る

ここでなら渡れる
ここでしか渡れない

向こう岸へ行ってしまった人
向こう岸からやってくる人
帰り船を待ってもどる人

渡し船は訣別
渡し船は邂逅
渡し船ははたまた再会

2025年5月10日土曜日

高齢者小説を読む

  「高齢者用…」「高齢者向け…」ということばや商品が溢れている。高齢者小説というジャンルらしきものまであるのは驚きだ。何でも「高齢者」という冠をつければ世にあふれる高齢者の目を引き、売れる、ということか。反発されて売れ行きが落ちることもあるだろうに。

 高齢者小説などといわれては読む気が失せる、と思っていたが、意外な遠回りをしてその高齢者小説というものを読むことになった。

 始まりは、月刊誌『文藝春秋』に連載されていた京極夏彦の『病葉(わくらば)草紙』という小説だった。京極夏彦といえばおどろおどろしい妖怪の登場する作品が多いと思って敬遠していた。ところが、雑誌に連載されている小説を読んでいると面白い。何が面白いかは省く。

 面白いので、同氏の『書楼弔堂(とむらいどう)4部作を読んだ。これも奇想天外で楽しい。やはり内容は省く。さらに同じ作家の『オジいサン』という小説を見つけた。京極作品にしては趣がちがう。726か月の益子徳一という人物が主人公だ。ここで高齢者小説に辿り着いた。内容は省く。

 かなり前に内館牧子著『終わった人』という小説を読んだことがある。同氏の高齢者小説4部作の第1作目という扱いだ。先月、『すぐ死ぬんだから』『今度生まれたら』『老害の人』という残りの3部作をつづけて読んだ。

 笑わされたり妙に納得させられたりした。詳しい内容は省く。小説の題名からも内容はある程度推察できるだろう。

 とどめに、小説ではないが山極寿一著『老いの思考法』を読んだ。著者は長年ゴリラの生態を研究していた霊長類学者で、「老い」のとらえ方が独創的である。

 高齢者本にはまっていると、高齢者読書沼から抜け出せなくなりそうだ。ここらで一区切りつけたい。一区切りつけたあとで、高齢者自転車に的を絞って調べたり、高齢者自転車を自分で作っみたくなったりするのは、至極当たり前の成り行きかも知れない。

高齢者、小説を読む
高齢者、自転車に乗る

この場合
どんな小説を読んでもいいし
どんな自転車にでも乗れる

高齢者小説を、読む
高齢者自転車に、乗る

この場合
だれが小説を読んでもいいし
乗り手はだれでもかまわない

では、高齢にふさわしいとは
どういうことなのか

そんな定義は放擲して
小説は読めばいいし
自転車は乗ればいい