冬をむかえる

冬をむかえる
'25.1.22 山を見て走る

2021年10月30日土曜日

取扱説明書

 家電製品や機械製品には取扱説明書がつきものだ。それを読めば、電気や機械に詳しくない人でも、製品を正しく安全に使いこなせるはずである。自転車は構造がシンプルとはいえ、命をあずける機械である。多くの人は子どものころから乗っていて、ごく自然に乗れるのが当たり前のようなところがある。取扱説明書など不要と思う人も多いだろう。ところが、スポーツ自転車を乗りこなそうとすると、そうはいかない。正しい乗車姿勢や複雑な変速機の使い方が求められる。

 はじめて手に入れたブリヂストン・アンカーというスポーツバイクには、「取扱説明書(オンロードスポーツ車編)」がついていた。自転車に関する法律の紹介から始まって、各部の名称、乗る前の重要点検ポイント、してはいけない危ない乗り方とつづく。正しい取扱いと使用条件も詳しく解説されている。説明は38ページに及び、ブレーキの使い方や変速の方法についても懇切に説明がされている。それでも、初めてスポーツバイクに乗る者が説明を熟読すれば、性能を活かし安全に乗れるかというと心もとない。    

作家の三島由紀夫が何かのインタビューに、「文学は薬や栄養剤ではないので、時には(太宰治の作品のように)死に誘っても構わない」と応えていたが、取扱説明書は絶対に死に誘ってはならない。文学作品のように感動や共感・反感を呼び覚ますことはないが、人の行為を正しく確実に導く役割がある。取扱説明書の作者は、文学者よりも表現力の才能を求められるかもしれない。説明書を作る人は、初心者でも間違いなく製品が使えるようにと、ことばの使い方や図説に苦心惨憺しているに違いない。

 2台目、3台目に買ったロードバイクとマウンテンバイクは、ブランド名は違うが、同じ新家工業(株)の製品である。使用目的の違う自転車に、全く同じ内容の取扱説明書が添えられている。必要なものは添えてありますというアリバイ作りのような気がしなくもない。作り手にもユーザーにも、自転車の取扱説明書など必要ないだろうという判断がどこかにあるとすると怖い。

 最近では、電子版の取扱説明書が普通になっていて、インターネットでダウンロードしないと手に入らないということもある。自転車販売店では、初めから乗りこなせることを前提にスポーツバイクを売っている。取扱説明書や販売店での製品説明が形式だけのおざなりなものになっているとするとそれも怖い。

 『妻のトリセツ』、『夫のトリセツ』から『わたしの取扱説明書』や『老いの取扱説明書』など、何だかわけのわからない取扱説明書も巷にはあふれている。不要なトリセツはともかく、自転車を手に入れたら取扱説明書を丁寧に読んでみることである。説明が多少不十分でも、自転車の意外な機能や特性、便利さに潜む危険などを発見するかもしれない。取扱説明書の取り扱いが大事なのである。 

乗り出す前に取扱説明書を読んで
乗ってからも取扱説明書を読んで
そうするうちに自転車が形を変えて
だんだん面白い乗り物になってくる

取扱説明書のお手入れの仕方を読んでも
自分流の手入れをきちんとしていないと
10年近くも乗っている自転車は光らない

ひらりとまたがって
ペダルを踏めば
どんなところへでも
連れて行ってくれる

幼稚園児のころに教わった乗り方で
どんな自転車にでも乗れてしまう
『人生に必要な知恵は
 すべて幼稚園の砂場で学んだ』
         (R.フルガム)
自転車の乗り方は
 すべて幼稚園児のころに学んだ

それでも遠くまで乗ろうとすれば
取扱説明書を読んでおくのがいい
里山の取扱説明書なんていうのも
そのうち欲しくなるかもしれない

ブリヂストン・アンカーの取扱説明書
そもそもどうやれば倒れずに乗れるのか
そんな説明はどこにも見当たらない

2種類の自転車に添えられた
内容は同じ取扱説明書
自転車の用途によって乗り方は違うし
説明の仕方によっては乗り方も変わる




2021年10月23日土曜日

すれちがう

 異なる方向へ行き合うのがすれちがいである。すれちがいは、お互いに相手との接点を見つけることのないまま通り過ぎる。あまり良い意味では使わない。

意志や思いのすれちがいは、人の関係を壊すことにもなる。すれちがってばかりで、一生わかり合えないことや出会えないこともある。すれちがいの物語は枚挙にいとまがない。悲劇の典型である。あまりすれちがいがつづくと、滑稽に思えることさえある。

 自転車で走れば、歩いている人や同じように自転車に乗った人とすれちがう。相手もスポーツ自転車に乗っている人だと、挨拶を交わすことも多い。軽く会釈をしたり、手を挙げたり、ときにはことばをかけ合う。

 追い抜いたり抜かれたりするのは、同じ方向に向けてすれちがっているのと同じことになる。自転車どうしのときは、追い抜かれるときにも、ちょっと声をかけて追い抜かれると気分がいい。黙って脇をすり抜けられると驚かされる。だいいち危ない。

 追い抜く時には、こちらが声をかけることになる。脚力のない自分は、走っている自転車を追い抜く頻度は低い。追い抜くのはほとんど歩行者である。農道などで犬と散歩をしている人や、のんびりとウォーキングを楽しんでいる人を追い抜くのは気が引ける。そんなときには、少し離れたところから相手を驚かせないように、静かに「おはようございます」とか「こんにちは」と声をかける。

 「お邪魔しまぁ~す」と呼びかけることもある。ベルを鳴らすのは、どけどけと言っているような響きがあって気が咎める。自分が車に抜かれるときに、クラクションを鳴らされると、邪魔者扱いされたような気分になるのと同じだろう。

 中には道いっぱいに広がって歩いている人がいたり、散歩中の犬のリードが道をふさいだりしていることもある。そんなときも「お邪魔します」と声をかけるとほとんどの人は「ごめんなさい」といって道を空けてくれる。ところが、中には怖い顔をして振り向く人もある。「本当は、あんたの方が邪魔なんだけど…」と思うが、そこは大人、「ありがとうございます」と言って通りぬける。

 通りがかりに、小さい子どもが手を振ってくれることがある。これは気持ちがいい。手を振る、振りかえすというのは、遠くにいても、その距離がグッと縮まるものらしい。道の反対側にいる知らない人でも、手を振り合うとこちら側へ道を渡って会いに来てくれたような気がする。

 見ず知らずの、もう二度と会うこともない人とのすれちがいが、ちょっとしたことばがけや手を振ることで、さわやかな瞬間に変る。下校途中の小学生に「こんにちは」と声をかけたら、可愛い声で「こんにちワンワン」と応えてくれた。つい笑みがこぼれ、ペダルが軽くなった。 すれちがうことが楽しいときもある。

秋と風と水の音と
すれちがって走る

遠くを見て佇んでいると
時の流れていく音がすれちがっていく

この道を行くと
どれくらいのすれちがいがあるのか

雨の予感を背負って走る
自転車乗りたちとすれちがう

立ち止まると遠くに月
惑星も衛星たちもすれちがう

萩が静かに咲いていて
すれちがってしまいたくない


2021年10月16日土曜日

自由業

 自由業という職業が成り立つのかどうか。辞書に乗っているので、職業の類型にはあるのだろう。勤務時間や場所に縛られず、独立して働く職業をいうのなら、思いつくのは画家や物書き、昨今流行りのYoutuberやブロガー、医師や弁護士も含まれるのか。どんな仕事でも縛りがないとは考えられないのだが。

 私の前歴は公立中学校の教員なので、職業の類別は公務員。地方公務員で、教育公務員である。自由業とは対極にある。職務上は「地方公務員法」(任用、職階制、給与、勤務時間その他の勤務条件…)で規定される。さらには、「教育公務員特例法」(任免、分限、懲戒、服務及び研修について)でがんじがらめにされる。それを承知で選んだ職業なので仕方がない。とはいえ、若いころにそんなことまで深く考えて、職業選びをしたわけではない。

 前に髭のことを書いたが、髭といえば自由業の人に多いというイメージがある。外国ではそうでもなさそうで、リンカーンのように立派な髭の大統領までいる。自由業でない職業は、不自由を強いられるといことになるが、自分の職業生活を通して、あまり不自由を感じたことはなかった。本人が自由にふるまっているつもりでいると、傍から見れば危な気で、ちょっと変わった奴と思われていたかもしれない。

 退職してからも、元教員と知れると、人は先生と呼び、何となく堅苦しい奴という先入観を持たれることも多い。先生と呼ばれるのは、学校の中だけで、しかも、生徒から呼ばれるだけで十分である。退職しても先生なんて呼ばれると、いまだに教育公務員特例法に縛られているようで、窮屈この上ない。

 学校では、教育基本法、学校教育法やその施行細則に縛られ、授業の内容は学習指導要領で規定される。決められたことを決められたようにこなすのでは、何とも味気ない。指導内容やともするとその方法まで決められてしまうことがあっても、教員は自由業よりも自由な精神が必要である。

 目の前にいる子どもたちとのつき合い方は、自由自在でなければならない。教える中味は決まっていても、その過程では子どもたちと自由に考え、学び合う。教員は画家のように、詩人のように、そして妙なる音楽を奏でる人のように、自由に発想し、自由に表現したい。自由な遊びごころも欲しい。実に自由業の筆頭に分類してほしい職業である。

 長年続けた仕事を辞したということもあるが、自転車に乗り始めてからは、自由自在にどこにでも行けて、思いのままに楽しめるものがあるいうことに、今更ながらに気がついた。

 それが自転車ではなくても、向き合い方によって、自由な世界を開いてくれる手段や方法はいくらもあるだろう。仕事をしていた頃から自転車に乗っていたならば、自由の極意を会得することができただろうと思うと残念だ。今、専念している年寄業では、自由業を超える自由をめざしたいものだ。

 

今年は今年のコスモスが
一輪一輪ていねいに咲いて
今年は今年のコスモス畑

一輪一輪が違った色で織りなして
今年は今年の
今日は今日の
コスモス畑の色

咲きそろって秋のひまわり
同じ方をむいて咲いていても
見ているものはみんなちがう

すすきの海ひろがる
すすきの穂の1本1本に
朝には朝の光
夕暮れには夕暮れの影

夏にたくわえた緑を
やがて土にかえすときを
待っている樹々の梢

自転車で帰る帰り路
今日は夕焼けが美しい



2021年10月9日土曜日

デジャヴ déjà-vu

 自転車はデジャヴである。家から自転車に乗り出すときも、見知らぬ人の自転車とすれちがうときも、駅の駐輪場に置き去りにされた自転車たちを眺めていても、それは懐かしい。それは過去につながり、いつか見た光景につながる。子どものころに同じようなことがあった気がするし、学生のときに出会った場面にいるような気にもなる。

 自転車で訪れる場所はデジャヴである。風に向かって田んぼの中の道を行くときも、風に押されてほの暗い森を抜けるときも、辿り着いた寺院の石段を自転車から降りて登るときも、そこは懐かしい。そこは過ぎ去った時間の中で、いつか見た場所につながる。そこでは、(せん)遠くへ逝ってしまった母や妹、友人たちに逢えるような気がする。

 デジャヴ(déjà-vu)、既視感(きしかん)。実際は一度も体験したことがないのに、前にどこかで体験したように感じる現象のことで、フランスの超心理学者エミール・ブワラックが『超心理学の将来』(1917年)の中で提唱した概念である。前世の記憶だという人もあるが、科学的には、記憶のメカニズムや無意識が影響していると説明されている。

 『デジャヴ』(2006年)という映画があった。主人公のダグ・カーリンを演じるのはアフリカン・アメリカンの俳優、デンゼル・ワシントンである。SF仕立てのサスペンスで、主人公のダグが時間を行き来して事件の解決に挑む。D・ワシントンの凄みのある、それでいてどこか憂いをたたえた、物静かな目の光が、やや無理のある筋書きをリアルなものにしている。

 アフリカン・アメリカンの俳優は悪役を演じることが多かった映画界で、ヒーロー像を確立したのがD・ワシントンだといわれる。彼の立ち居振る舞いは、1960年代に映画『野のユリ』、『招かれざる客』などに出演した名優、シドニー・ポワティエのオーラにつながる。彼ら二人の遠くを見つめているような目、毅然としているがどこかさびし気な表情、そして時折見せる人懐っこい笑顔を重ねると、これもデジャヴかと思わせる。

700年も前に、吉田兼好も、また、デジャヴについて書いている。「(略)また、如何(いか)なる折ぞ、ただ今、人の言ふことも、目に見ゆる物も、我が心の中に、かかる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや」(『徒然草』第71段)「これと同じことがいつかあったと思えて、いつとは思い出せないのだけれど、本当にあったような気がするのは、私だけがこんな風に思うのだろうか」とこの人も感じているのだ。

つれづれなるままに、日ぐらし、自転車なるものに乗りて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつけていると、これもいつかやっていたように思えてくる。


ここに来た覚えがある
それがいつだったのか
ここはどこだったのか

蕎麦の花は空の下に咲いているのか
蕎麦の花は私の中に咲いているのか

昨夜見た深更の天の川に
かさなって白昼の天の川

路上に人影が見えなくなった
明るいさみしさが通りぬける

昔語りは記憶の中の実存か
今を生きている幻想なのか

友とみじかい旅に出た一日の帰るさ
家路をいそぐ夕暮れとすれちがった
前にも同じ夕暮れに会った気がする




2021年10月2日土曜日

道案内いたし〼

 自分の家を中心に半径15㎞の円を描く。その中におさまる道は、どんな細い道も、舗装のされていない田んぼの中の道も、たいがい一度は通りぬけている。地図の中に通った道や面白い場所を書き込んでおけば、もっと正確に覚えておけたかもしれない。曖昧なところもあるが、記憶の中ではかなり多くの点や線がつながる。

面白い形の大樹や見晴らしのきく場所、通りぬけると気分の軽くなるような道や懐かしい家並みなど、気に入っているところがたくさんある。このブログにも「七つの池を巡る冒険」と題して書いたことがある。自転車に乗らなければ、死ぬまで行かないような場所が家から近い所にも点在する。

大きなことをいったが、よくよく探してみれば、知らない道だってあるだろうけれど、これまでに走った道をつなげば、迷うようなことはない。すべてを網羅したなどと思ってしまうと、好奇心が涸れるので、まだまだ足を踏み入れたことのない場所もきっとあるだろうと思っている方がいい。

 半径15㎞を50㎞の円に広げると、さすがに小径に至るまでとはいえないが、幹線道路ならかなり走った。記憶をたどって走れば、ほとんどの道がよみがえる。何しろ、自転車で放浪するような走り方を初めて9年にもなる。義務教育を修了する年限だ。ほぼ一日中サドルの上で過ごした日もある。多少は道路事情や名所旧跡に詳しくもなろうというものだ。

遠くへ出掛けた帰り道は、多度養老山系と鈴鹿山脈の山の峰を目印に帰れば、家に帰り着く。曇っている日は、山が見えないので方向が判らなくなる。ランドマークがないと、西も東も皆目見当がつかない。そんな時は自分なりのやり方も発見した。民家の玄関はたいがいが南向きである。大きな窓は南側についている。これで、方角の見当をつけて走れば、半径50㎞圏内は自分の庭も同然である。

 日帰りの自転車旅なら、実用自転車、スポーツバイクを問わず、面白いコースを選んで、いか様にも道案内ができると密かに思っている。パンクや変速機の不具合くらいは、応急処置程度の修理ならお手伝いもできる。

 2時間で、平坦な道を通って、梅を見に行く、桜を探す。紅葉狩りをする。多少は坂道があっても、見晴らしのいい場所を駆けぬける。半日かけて、知らない町まで出かける。裏町の路地を探訪する。あるいは、1日走って、海を見に行く。県境を越えて、大きな河を上流へとさかのぼる。ご希望に合わせて、どなたでも、どんな場所にでもご案内いたします、と看板を出しても偽る(いつわる)ないろう

 ただし、一つだけお断りしなければならないことがある。当方、脚力には自信がないので、ゆっくりゆったりとしたペースで、たっぷり休憩も取りながらのご案内となります。


休日の朝
今朝は通勤電車に乗らない
自転車ででかける

休日には時間をかけて
川面に映る空を辿って
遠くまででかける

休日の昼下がり
船溜まりの船たちが
談笑している

休日の遅い午後
水面に光る時間の粒子を数えている
数え終えるころには夕暮れが迫る

休日は夕暮れまぢか
静謐は樹々をつたっておりてくる
庭は音のない光につつまれる

休日も黄昏どき
残り火が足許にちろちろと燃えていて
曼殊沙華パーティーは終焉をむかえる