冬をむかえる

冬をむかえる
'25.1.22 山を見て走る

2024年12月28日土曜日

鈴鹿の山々

 祖母も母も西の山と呼んでいた。西の山にかかる雲の様子で天気を占っていた。天気占いはほぼ当たっていた。

 我が家から西方を眺めると鈴鹿山脈が連なる。山並みを縦走する登山大会を近畿日本鉄道が沿線のPRに使った。七つの頂をセブンマウンテンと呼んだ。低すぎず高すぎない山々の姿には親近感がわく。若いころ、近鉄のどの駅でもセブンマウンテンを紹介するポスターが御在所岳のロープウエイとセットで貼られていたのを思い出す。

 自転車で走るときにもこの山並みを眺めて走ることが多い。どの辺りを走っているのか、方角と距離の目安になる。セブンマウンテンの北の端、藤原岳と隣の竜ヶ岳からはいなべ市から桑名へ下る谷だ。その南、釈迦ヶ岳と御在所岳は菰野町から四日市方面へ、更に南の鎌ヶ岳、雨乞岳、入道ヶ岳は鈴鹿市方面へそれぞれいくつもの川が流れている。山の姿を見ながら川を渡れば、家からどれくらいの距離にいるかつぶさにわかる。

今週、今年の走り納めに走行会仲間と椿大社へ行くことを計画した。いつもの集合場所は藤原岳の裾野にあたる。そこから、竜ヶ岳、釈迦ヶ岳の麓を過ぎ、鎌ヶ岳と入道ヶ岳が大きく見え出したら山側に方向をとればどの道を行っても椿大社に着く。生憎、この日は雲行きから判断して、山裾が時雨れていそうなのでコースを変更した。鈴鹿の山並みを見ながら天候を占い、自転車のコースを自在に変えるには古くからの知恵が生きる。

 山に向って走り、山に沿って進むことが多いが、未だ自転車では鈴鹿の山を越えたことがない。来年あたり、峠を越えて山の向こうへ走ってみたい。鈴鹿の山には坂口安吾の『桜の森の満開の下』で花に狂った盗賊の話や、古くは今昔物語集にも『鈴鹿山にして蜂 盗人を刺し殺しし語』など物騒な話がある。自転車で峠を越えるとしたらそれなりの覚悟がいる。

小学校からの帰るさ
山を見ながら道草を食い
いたずらもした

釈迦ヶ岳のお釈迦様の顔が
未だに判然としない

セメント会社は
藤原岳の山肌を
削りつづけている

季節の色には染るが
世態には染まらない

今でも祖母も母も
私と同じ場所から
西の山を見ていて
天気を占っている


 

2024年12月21日土曜日

お月さんをひと回り

 マツダ・ロードスターという車を所有している。エアコンが壊れたままで修理してないので夏場はほとんど乗らない。オープンカーなので、屋根を外せば涼しいように思うが、そうでもない。自転車のように身体を使うことはないのだから楽そうなものだが、屋根を外しても夏は暑い。

 冬場は道路事情が悪いし、スタッドレスタイヤを装着しないので乗らない。雨の日も乗らない。幌を新品に張り替え、車体は磨き上げてあるので汚したくない。エンジンルームまできれいに掃除され、ボディカバーをかけられて、カーポートに納まっている。年間の走行距離はわずか2,000㎞足らずだ。

 甥っ子に1分の1のプラモデルだと言われた。乗らずに飾っておくだけに近い。車検を受けて自動車税を払ってほとんど乗らない。勿体ない話だ。

 自転車には税金がかからない。購入するときの消費税だけだ。車検を受ける義務もない。それでいて、年間10,000㎞も走る。立派なものだ。

 仕事を辞してからは、暇があると必ず自転車に乗っている。年に何度かは100㎞を越える遠出もする。年々走行距離が増えて、2019年、ロードバイクとクロスバイク、それにマウンテンバイクの走行距離を合わせたら9,974㎞になっていた。

 もう少しで1万㎞、惜しいことをした。走行距離にこだわることはないというものの、1万㎞の大台に乗せるのは気分がいいはずだ。わずか26㎞足りなかったことで、次の年には1万㎞を越えてやるという想いを強くした。

 初めて1万㎞を越えたのは2021年。10,726㎞だった。地球の外周の4分の1。このペースでは地球を一周するのに4年もかかるが、月なら外周は10,921kmなので、ほぼ一周できたと思えば大満足だ。今年は1220日現在の走行距離が9,960㎞。また、月をひと回りできそうなところまで来ている。

地球の表面を引っ掻いたら
新しい道ができた

地球は色を変えていく

地球は色を塗られていく

気持ちの重力を取り去り
硬い空気を取りのぞけば
地球も月も変わりはない

球体の上を走りつづければ
いつかは元の場所にもどる

2024年12月14日土曜日

風の日には風の日の

 これからの季節、北西の季節風とどう付き合うかが課題だ。風に向って走る気力も脚力も年々衰えている。寄る年波には勝てないのである。

 朝から北風が吹き荒れる。朝は穏やかでもいつの間にか風が強くなる日もある。自転車に乗り出す前から気持ちがひるむ。

 我が家のある場所は北西に鈴鹿山脈が連なる。どの道を走っても標高は徐々に高くなる。10㎞も走ると山麓の坂の多い道にさしかかる。この季節には、風に逆らって坂を上る、しかも風は冷たい。三重苦だ。

 ならば、風下になる南東方向に走り出せばよいではないか。伊勢湾岸や濃尾平野の平らな土地が広がる。平坦なコースを追い風に乗って快適に走れる。ところが、これは帰り道が怖い。風に乗って遠くまで走ったあとの帰路が向かい風。しかも登り傾向。思うだけで走り出す気が失せる。

 風は侮れない。透明な壁だ。壁にぶつかるだけならまだしも、壁が前から押してくる。前に進めないどころか、まさかそんなことはないだろうけれど、後ろへ押し戻されるのではないかと思う瞬間さえある。

 横風がまた曲者だ。追い風に乗って快適に走っているときに方向を変える。突如見えない巨大な手で横から突き飛ばされる。自転車ごと浮き上がってしまいそうだ。

 危ない目にも遭うのに、無理をして自転車に乗らなくてもいいようなものだが、それでは冬の間乗れなくなってしまう。

 風の日は風の日の乗り方を考える。向かい風には抗わず、少しずつ少しずつ前に進む。こちらが力むと相手の反発も強まる。もう急ぐ旅でもない。ゆっくりとでも前に進めれば十分だ。

順風を受けても図に乗らない。風向きは変る。いいときばかりではない。風の日には気力や脚力よりも寄る年波がもたらす経験知と諦観がものをいうのです。

水面を歩いている風は
どこで生まれたのか

空を渡っていく風は
どこへ帰ろうとしているのか

来し方も行く末も
わからない風に
ときには阻まれ
ときには押される

風がこの家の前で立ち止まる

風に行き先を尋ねている

2024年12月7日土曜日

ブラックフライデー・セール

 ブラックフライデーの由来は兎も角として、多くの店がセールをするので商品を安く買えるのはありがたい。セール期間中に商品が安く売れるのであれば、1年中いつでも安くできるのではないのか。そうはいかないのが商戦というものか。今だけ、ここだけ、というのが惹句だ。

 自転車の部品や消耗品にも、セールの対象になるものが散見する。すぐには必要でなくても、今ならお買い得といって煽られると気にかかる。

 Amazonや楽天市場のネット通販で買い物をするときは、いずれ使いそうなものを選んで、画面上の仮想の「買い物かご」に入れておく。

 タイヤのように定期的に交換するものは、次はどのメーカーのどのグレードのタイヤにするか。サイズは同じものにするか、違うサイズのものを試すか。何種類か候補になるタイヤを選んで「買い物かご」に入れる。

 チェーンやギアなど、すぐには交換が必要ではない部品や専用工具まで、「買い物かご」に入っている。現実の買い物かごではないので、あふれることもなければ重たくもない。入れ放題だ。

 セール中には、買い物かごに入れた品物に「セール対象商品 -25%」などと表示が付く。買わないと損をするような気になる。買えば出費には違いないのに買ってしまう。仮想のレジへ進み、「注文を確定する」をピッと押せば、「お買い上げ」ということになる。

 消耗部品が安いときに先を見越して買っておくのはいいが、買えば早く試したくなる。交換時期が来る前にまだ使える部品と取り換える。買ったことを忘れてしまって同じものを買うこともある。せっかちで忘れっぽい。歳も歳なので仕方ない。けっこうな無駄になる。

 安く買って得をした気になっているが、帳尻が合わない。「ブラックフライデー・セール、あと3日限り!!」。本当にいる物なら、セール最終日でもネット注文は充分間に合う。煽られても焦らず。 

いまここでだけ会える

いまここでだけで語れる

いまが過ぎ去り
ここを通り過ぎ

おきざりにした憧憬
かなわなかった願望

つぎにくるいまを
つぎにあるここを
こころまちにする

2024年11月30日土曜日

サドルを考える

  サドル、自転車の腰掛け。Saddleはもともと馬の鞍のことで、それが乗り物の腰を下ろす部分にも使われるようになった。

 スポーツ自転車に乗らない人からは、長時間、長距離を自転車で走るとお尻が痛くならないかと尋ねられる。痛くなることもある。痛くならないこともある。

 お尻が痛くなるので長時間は自転車に乗れないという人がある。そんな人のために、お尻にパットのついた自転車用のズボンやインナーもある。あるにはあるが、特に夏場などは薄手のズボンやジーンズで気軽に乗りたい。

 お尻が痛くないようにと幅が広くて柔らかいサドルを使うと、ペダルを踏む力の入れ具合や脚の回し方に支障が出る。サドル選びは難しい。

 幸い、私は薄手のズボンのままで長時間走ってもお尻の痛みはない。初めて自転車を買ったときに、革のサドルに交換した。サドルの機能はよく判らず、見た目の格好良さに魅かれて買った。これが良かった。

 新しい革のサドルは硬くて、木か硬質のプラスチックのようだ。ところが、しばらく使っていると革が適度に変形し、座り心地が良くなる。硬さよりも形が大事なのだろう。

 サドルの取りつけ位置によっても乗り心地が変わる。ペダルを踏みやすい高さにすることはもちろん、前後の位置も調整する。サドルの前を低くしたり高くしたり、角度を変えても乗り心地は変わる。調整がうまくいけば座り心地は良くなり、ペダルも踏みやすい。

 長い時間付き合ってもらうサドルだから、自分に合ったものを選び念入りに調整する値打ちはある。乗り慣れてはいても、こんなものだろうと決めつけずに時々は調整をしたい。もっとも、自転車に快適に乗るためには、サドルのことだけ考えていればいいというものでもない。自分の身体や日々の雑事も老いと慣れに任せずにときどきは見直したい。

長さ28㎝幅15㎝の
何とも狭い居場所なのに

花を見れば
野に広がり

山並みをあおげば
空に向ってのびる

今日は
唐箕と会って
昔語りをした

見るもの聞くもの語ること
すべてをのせてうつろう
何とも狭くて広い居場所だ






2024年11月23日土曜日

マウンテンバイク活用術

   木枯らしの季節の到来である。寒い間はマウンテンバイク(以下MTBと書く)の出番が増える。

 MTBとはウィキペディアによれば、「荒野、山岳地帯等での高速走行、急坂登降、段差越えなどを含む広範囲の乗用に対応して、軽量化並びに耐衝撃性、走行性能および乗車姿勢の自由度等の向上を図った構造の自転車」のことである。1970年代にアメリカで本格的に作られ始めた。それまでは、実用車に太いタイヤをつけて、山岳路や不整地で使われていたらしい。

 ロードバイクを手に入れて、いろいろな場所へ出かけた。華奢なフレームに細いタイヤを装着した自転車では走れない不整地に何度も入り込んだ。子どものころに遊んだ里山、近在の古墳や城跡などへ草生した道を分け入るにはMTB欲しい。ロードバイクの倍以上も太いタイヤに頑丈なフレーム。スピードは出ないが低いギア比に設定された変速機は登り坂に強いはずだ。そう思ってMTBを手に入れた。

 もともと脚力がないし、どんな道へでも分け入り、どんな急坂も登れるという魔法の自転車ではない。それでも、MTBならではの使い道は多い。

 北風の強い日には、MTBに乗る。MTBにまたがると、速く走ろうとは思わない。きつい向かい風と折り合いをつけてゆっくり走る。重い車体は安定していて横風に強い。林や森、低い山の中に入ってしまえば冷たい風とは無縁だ。汗ばむほどに身体は温まる。冬はMTBできまりだ。

 鈍重に見えるMTBだが安定性がよく、平地や街中でも意外に軽快に走ってくれる。少し細くて軽いタイヤに交換し、楽な乗車姿勢を取れるようにすれば、脚力が衰え反射神経が鈍っても安心して乗れるだろう。もっと高齢になったら、MTBを改造してゆったりと走るのが楽しみだ。

きのう
同郷の画家が描いた
絵を観にいった

絵のかけられた壁を
時間が反対に流れていた

絵の前を
むかしのままの
風がよぎった


外に出ると
晩秋の風は
つめたかった

絵の中に観た
Lost hatを
探している

あすはまた
ふるさとの
懐かしくて
新しい景色を
探しに行く

2024年11月16日土曜日

束の間の対話

 後ろから自転車で来た人に、不意に話しかけられることがある。追い抜くときに、声をかけたくなるときもある。

 以前、名古屋城の近くで自転車で並びかかった若者に声をかけられた.。

 「ラレーですね。僕もそれ買いたいんですよ。いいですね」(私の乗っている自転車の車名がラレー)。私が、「脚力がないので、乗りこなせていないですよ」と答えると、 「いやー、いいですよ。気をつけて行ってください」と抜き去っていった。自転車を見てくれる人がいてうれしい。

 仲の良さそうな兄弟と思われる小学生が二人、辺鄙な山の中の道を走っている。家からはだいぶ走ってきたと思われる。後ろから声をかけた。

 「ぼくたち、ちょっと追い越すよ。どこから来たの?」。「〇〇から…」よく聞き取れない。答え方もおぼつかない。「こんなところまできて大丈夫か、帰れるか?」ちょっと心配になって訊いてみる。「もう帰るとこ。ちゃんと帰るよ」と兄らしい子が答えてくれた。安心した。

 何度か、町内のミニコミ紙に自転車の写真と小文を投稿したことがある。それを読んでくれているらしい人が、自転車で後ろから追いついて話しかけてくれた。

 「その自転車って、グッドニュース新聞に毎月出ている自転車ですか」。ちょっと驚いた。「はい、新聞読んでもらってますか」と返事をすると、横に並びかかって、「記事に出ている写真の場所を探して走ってますよ。いいところがいっぱいありますね」と答えてくれた。どこかでつながっていたかと思うとたのしい。

 やんちゃそうな中学生らしき4人組が、堤防道路をふらふらと道幅いっぱいになって並進している

 後から追いついて、「お兄ちゃんたち、ちょっと通してくれるか?」と声をかける。「だれじゃ?」と言いたげに振り向く。意外にも、「はい、どうぞ」と慌てて道をあけてくれた。追い抜きざまに、「今日は学校楽しかったか?」と声をかけた。「楽しかったですよぉ」、「めっちゃ、最高でしたぁ」と口々に答えてくれた。追い抜いてしまうと、後ろの方から「がんばって走ってくださ~い」という声が聞こえた。励まされた。

 束の間の対話に気持ちが弾む。続きを走りながら、ことばのやり取りを何度も反芻する。

日がな一日
通り過ぎる人を
眺めている
 
きのうここで
道をきかれた

今日はここで
道をたずねる

もう二度とは
会えない出会い

通りすがりに
声をかけてみる

2024年11月9日土曜日

自転車の列車

  自転車を持ち込んで乗る電車のことではない。自転車を連ねて走ることを「列車」という。お揃いのユニフォームを着て、何台かの自転車が縦に連なって颯爽と走っているのをときたま見かける。それが「列車」である。

 ロードレースやトラックレースでは当たり前のシーンである。車間はほとんどない。電車の車輛のように一直線につながって整然と走る。きれいに揃ってコーナを抜ける。

 自転車を連ねて走るには訳がある。空気の抵抗を減らすためだ。自転車の受ける抵抗のほとんどは空気によるものらしい。列車のようにつながって走ることで、後続車の空気抵抗を減らすことができる。

 前を走る自転車の真後ろにつくと空気抵抗は、速度にもよるが、7割から6割に減るらしい。ときどき先頭を入れ替われば、集団全体のエネルギーの節約につながる。E-bikeに乗る知人と一緒に走るときに、ぴったり後ろにつかせてもらうと、ペダルを踏む力が半分で済むように感じる。風よけシェルターに入っているようなものだ。

 さて、我らが走行会。いつも4台の自転車を連ねて走るが、「列車」を組むほどの技量はない。十分な車間をとらずに走るのは危険である。車間は大きくても、強い向かい風のときは、前を行く人が風よけをしてくれると多少は楽になる。

 「列車」を組んで走りに徹することはなくても、仲間で走るのは楽しい。走りながら会話に夢中になると、つい並進してしまうことがあるので要注意だ。「列車」よりも危険だ。

 集団で走るときは、先頭と最後尾の者は何かと気を使う。先頭はコースを考えながらペースを保ち、後続の人にも気を配る。しんがりは、前を走る人の様子をうかがいながら、後ろから迫る自動車などにも注意をはらい警告する。「列車」を組まなくても、列車の車掌と運転手のような役割分担が必要だ。

毎年この1日だけ
いなべの山中を
超特急列車が走る

あまりの速さに
応援が追い付かない

ご近所のE-bike仲間と
走るのはローカル列車

E-bikeに風よけに
なってもらう
牽引車輛が心強い

いつもの走行会は
各駅停車の普通列車

運転手は君か
車掌はぼくか

2024年11月2日土曜日

その自転車運転 ご注意

 「その自転車運転 ご注意」。朝日新聞1030日の記事の見出しである。「改正道路交通法が111日に施行され、自転車の危険な行為が厳罰化される。酒気帯び運転が罰則付きの違反となり、スマートフォンを使いながらの運転する『ながら運転』の罰則は強化される」と本文が続く。

 スマホを操作しながらの自転車による事故が各地で起きている、酒気帯び運転が原因で死者が出た自転車の事故は過去5年で102件もある、と記事は伝えている。自転車といえども危険な運転をすると重大な事故につながる。

 スマートフォンを操作しながらの運転は道交法の禁止事項になっていなかった。飲酒運転については、これまで正常に運転のできない「酒酔い運転」のみが罰則の対象で、酒気帯び運転には罰則がなかった。それらが厳罰に処せられる。罰則のあるなしや軽重は問わず、危ないことはしないというマナーと防衛本能の問題だと思うが、それだけでは徹底しない。

 年齢とともに用心深くなって、危ないことは避けようと思うようになったが、若い頃は無鉄砲なこともやっていた。自分が今も若いままなら、自転車に乗りながらスマホを操作することくらいは平気でやるだろう。罰則よりも、先ずは分別をつけることだ。

 自動車の飲酒運転は厳罰があるが、自転車なら大丈夫。飲み会があるので自動車ではなく自転車で出かけるという安易な発想もあるだろう。言い方は悪いが、自分が事故を起こすだけなら自業自得だ。それですめばいいが、人様を巻き込むようだと申し開きできない。

 機能満載のスマートフォンなら、歩いたり自転車に乗ったりするときは、自動的に電源が入らないようにできないものか。酒気帯び防止装置も自動車にはあるらしい。とはいえ、罰則の強化や防止装置に頼らなければならないのはさみしい。自転車というこの上もなく便利で楽しい乗り物が、罰則などとは無縁であればいいと願う。 

きのうまでは
これで善いと思っていた

きょうからは
こうしなさいと言われた

あすからは
どうしたら
いいのだろう

ほんとうに善いことは
ずっと前から善いことだった

ほんとうに善いことは
これから先もずっと善いことだ

2024年10月26日土曜日

60歳からはじめる…

  『60歳からはじめる趣味の自転車』(2024, 辰巳出版)という本を買った。「ゼロからでもリターンでも走り出すならいま!」という副題がついている。表紙をめくると、「冒険するのに年齢なんて関係ない、自転車と一緒なら。」と、自転車に乗ることをあおっている。

 自分に当てはめると、スポーツ自転車に乗り始めたのがちょうど60歳のときだった。ゼロからのスタートではあったが、幼稚園児のころから高校生時代まで自転車に乗っていたのでリターン組ともいえる。

 72歳にもなって、いまさら『60歳からはじめる…』でもないと思いながら、これまでの振り返りをするにはちょうど良いと思って読んだ。

 「趣味として楽しむ自転車とは?」「自分にぴったりの自転車ライフをはじめよう!」という記事がある。「身体の健康と自転車の健康」といったお役立ち情報がある。「ジャンル別スポーツ自転車カタログ」も載っている。よく似た記事をどこかで読んだ覚えがある。

 それもそのはず、『60歳からが楽しい自転車趣味人』(2020,  辰巳出版)という本を4年前に買っていた。このときは「年齢不問 自転車に乗ってもっと元気にアクティブに!」という副題にあおられた。記事の内容に重複が多い。紛らわしいタイトルの二番煎じの本を出すな、辰巳出版。

 そういいたいところだが、読み比べると4年間の変遷がうかがえる。紹介されている自転車のブレーキはディスクブレーキが主流になっている。小径車が大きく取り上げられているのは、60歳以上のライダーに小径車の愛好家が増えているからか。4年前には新顔だったE-bikeの記事が幅をきかせているのも新しい。

 雑誌と単行本を合わせたムック本(magazine+book=mook)は、写真や図説が多くて読みやすい。よく時代を反映している。世の自転車愛好家の動向を知るにはちょうどよい。60歳からの自転車とのつき合い方を振り返り、自転車に乗る気をあおられた。

何歳からはじめると
限ったことでもないだろう

今からはじめる

ここでおわる

どこからはじめても
はじめるときが今

どこでおわっても
おわったときが今