'25.10.3 一本の柿の木

2025年1月11日土曜日

リアカーの思い出

 アッ、リアカー、今も使われているのか。自転車で通り過ぎた民家の軒先に立てかけられているリアカーを見つけた。空き家のようなその家の縁側には、花柄の毛布が干され、横には草を刈る刈払機が立てかけられていた。

 覗き見したわけではない。何ともシュールな光景が目にとまった。ミシンとこうもり傘が解剖台の上で出会う、シュールレアリストのマン・レイの作品のような組み合わせだ。日常にはありえないようなものの組み合わせや出会いは、シュールレアリズムのディペイズマンという表現手法だ。

 古い民家にリアカー、日差しを受けた柔らかな毛布と草刈り機、異なる時間や質感の出会うディペイズマン。もうリアカーがどんなものか知らない人も多いだろう。自転車のうしろに取り付けて荷物を運ぶのに使った。自転車のリアにつけるカーという和製英語らしい。

 子どものころ、行商のおばさんが魚や果物を積んだリアカーを引いて軒先まで売りに来た。ポン菓子を作る機械をリアカーに乗せたおじさんはお寺の前で商売を始めた。いつもとは違う人や物がリアカーと一緒にやって来るのが嬉しかった。

 私が小学校に上がってしばらくして、父が机を手に入れてくれた。友人から譲り受けたのか、中古品を買ったのか。町まで父に連れられて机を取りに行った記憶がある。子ども心に随分遠くまでリアカーを引いていったような気がしている。

 今の子どもたちが使うような学習机ではない。大きくてところどころ瑕もついていた。私は机が落ちないようにリアカーの上でそれを支えた。未舗装の道路をリアカーに揺られて家まで帰る途中、人に見られるのが恥しかった。新品の机でもない。私はとてもいやだった。机を家に持ち帰えれば子どもが喜ぶだろうと思ってペダルを踏む父の気持ちが今は判る。父と自分のいる昔を今の私が眺めている。時間と場所のディペイズマンだ。 

写真は「Wikipedia」より
ものを運び人を運んだ
夢や期待を運んだ
落胆や失望も運んだ

見慣れているのに
新しい風景

新しいはずなのに
見慣れた世界

そこには私もいたのか

私は別の次元から
のぞいているのか

2 件のコメント:

  1. べーえんべー2025年1月15日 16:07

     リアカーの記憶。まだ自分が幼い頃、親に連れられて遠くにある精米所まで押していったこと。茶畑で摘み取ったお茶を、最後の仕上げに隣町工場まで運んだこと。冬には山へ行き、風呂やお勝手のたき付け、薪の採集に。軽トラなどのない時代。リアカーは貴重な運搬道具。自分は、後ろの荷台に乗ってはしゃいでいたのか、取っ手を持って手伝いのまねごとをしていたのか覚えていない。

    こどもの頃は、「りあか、りあか」と言っていて、MARIOさんの言われる『リア・カー』が本来の表現だとは知りませんでした。

     シュールレアリズムのお話、とても勉強になりました。今回最後の2枚の写真が、それに近いように思えます。現実と虚構が入り交じった神秘的なイメージ。不気味で唐突な世界観が漂います。どう解釈するのか、私にはわかりませんが、MARIOさんは、レンズの向こうにみえるものを独自表現しているのでしょうか。力作だと思います。

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  2.  べーえんべーさんとは世代が同じということもあってか、どんな話題でも共有できるのが楽しみです。私の記憶ではリアカーを「りやか」と呼んでいました。

     時には子どもたちだけで「りやか」を持ち出して、友だちを載せたり、自分が載せてもらったりして遊んだことを思い出します。

     自転車に乗っていると、今回の話題のリアカーのように、日常生活では見かけなくなったものや珍しいものを見かけることがあります。それをきっかけに、懐かしい思い出がよみがえることもあります。

     ちょっと現実から離れたものを目にすると、忘れていたことに気づいたり新しいアイディアの呼び水になったりするのかもしれません。シュールレアリズムのねらいも一つはそんなところにあるように思います。写真は非現実というか、超現実というかそんな風景に思えたので撮影したものです。特に加工したものでもありませんし、深い考えもありませんが力作だといってもらえてありがたいです。

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