「英国の著述家C・P・スノーは『文系と理系』の分断を指摘した(略)。西欧社会が『文化的知識人』と『科学者』の二極に別れつつあり、互いに理解しようとしないと嘆いた。前者は熱力学の基礎を知らず、後者はシェークルピア作品を読まないと述べて論争になった(略)。
日本でも『文系・理系の壁』が言われて久しい。特に不合理を感じるのは、大学受験に合わせたコース分けだ。多くは高2からクラスが分かれるため、高1で岐路に立たされる。自分がどの分野に向くのかが明確な16歳は少ないだろう(略)」これは、大学入学共通テスト当日の朝日新聞「天声人語」からの抜粋である。
教員時代、中学の技術・家庭科という教科を担当した。電気、機械、栽培、木材加工と金属加工。科学的な分野の基礎を学び、実際に簡単な製品の加工や製造もする。中学生が学ぶことなので、ごく基本的な範疇に限られる。ただし、知識や技能だけに終わらず、科学が生活を豊かにしている理由や、生活の質についても考える。
文系と理系を統合するような教科だと思っているが、週に3時間あった授業時数が今では週1時間に削られた。3年生に至っては週に0.5時間である。文系と理系を統合する教科が軽視されるのは残念だ。
「文系・理系の壁」を越えるためには自転車に乗ってみるとよい。自転車を漕ぎだす。空気、温度、風の香り。肌感覚、身体の動き。季節の移り変わり。五感で感じることを自分のことばに翻訳する。ことばで表現してみる。文学の世界だ。
自転車の調子をうかがう。脚から車輪へ力が伝わる。加速する、曲がる、止まる。ギアを選び変速する。バランスを取る。ブレーキをかける。物理に支えられた科学の世界だ。
文系に限らず、理系に閉じこもらず、自転車はその両方の世界を広げてくれる。
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今日春が来たと私が決めた 気象学がそれを証明する |
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随分遠くまで来てしまったと後悔した 地形学がそれに立証する |
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ギア比の公式を物理学が証明する 同心円の結束の美しさ |
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機械力学が力の向きと強さを変える きっと魔法使いの仕業にちがいない |
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文系とか理系とか 境目もなくこだわりもなく 自転車に乗っている |
『文系・理系の壁』を越えるためには自転車に乗ってみるとよいとは、言い得て妙ですね。私は学生時代を通して、広く浅くしか学んでいないので、文系・理系どっちつかずの人生を送ってきました。
返信削除MARIOさんは技術・家庭科だけではなく、国語科も指導されていたという記憶です。そして、詩も高校時代から編んでおられたようで、文系・理系の壁はなかったのではないでしょうか。
私は不器用なので、中学時代、技術の実技には苦労しました。木目の方向を意識せずに本立てを組み立てて、あとになって恥ずかしい思いをしました。そういえば私たちの頃って家庭科を勉強しましたか?男子は技術科、女子は家庭科だったという記憶です。現在は体育科も男女共習で学習しているようですから、昔とはどんどん変わっていきますね。ジェンダーフリーやら男女平等やら、ややこしい時代になってきました。
もう12年以上も自転車に乗り続け、10万㎞を走破されたMARIOさんにとって、『文系・理系の壁』などないと思います。
いよいよ自転車シーズン到来、思う存分お楽しみください。
文系・理系の壁といいますが、確かに、文系も理系も極めていないのに壁はないですね。文系に徹する、理系を貫くということができて初めて壁もできるということかもしれないです。
返信削除自転車に乗るのは文系と理系の壁を越えることになるというのも、後付けの理屈のようなものです。自転車だけで壁を取り払うことはできないだろうと、ブログの本文を書いていながら思っていました。
ただ、自転車に漫然と乗っていても、いずれは飽きてしまうような気がします。いろいろな物を見て、感じることや、簡単な不具合を直してみるなど、自転車の可能性と自分の可能性を考えたり試したりするから、乗りつづけていられるのでしょうね。
ときには文系的に、ときには理系的に、見方ややり方を変えながら少しずつでも深めていくというのは自転車にかぎらずどんな趣味にも共通することだと思います。