'25.10.3 一本の柿の木

2020年4月5日日曜日

春の小川


  春の小川は、さらさら行くよ。
  岸のすみれや、れんげの花に、
  すがたやさしく、色うつくしく
  咲けよ咲けよと、ささやきながら。

  春の小川は、さらさら行くよ。
  えびやめだかや、小鮒の群れに、
  今日も一日ひなたでおよぎ、
  遊べ遊べと、ささやきながら。

 この歌のイメージを共有できる人が、少なくなってきているのではないだろうか。
 小学校に通う道の横を小川が流れていた。春だけに限らず、四季を通して小川と一緒に登下校していたようなものである。川の中に魚がいるのを見ると、一旦は家に帰り、ランドセルを放り出して、網や釣竿を持って、その場所へ駆けつけた。小川の岸にある柳の木にカミキリムシがいるのを捕まえて帰ったこともある。黒い翅に白い斑点を散らしたカミキリムシは、害虫ではあるらしいが、私には優美で貴重な虫に思えた。

 歌の情景のとおり、春には小川の両側一面にれんげ畑が広がり、すみれの花が咲いていた。メダカをすくいに行ったこともある。手ぬぐいを広げてメダカをすくう。水の中で手ぬぐいを広げるのは小さな手では難しい。年上の子たちの真似をして、うまくメダカがすくえるようになるころには、自分も上級生になっていた。今では、そんなメダカに値段をつけて売っている。
 小川は、小学校を卒業すると遠い存在になった。中学生になるころには、もっと大きな川やため池に泳ぎに行ったり、釣りに行ったりするようになった。小川で遊ぶことはいつしか置き去りにされた。

 以来、50年以上も田んぼの中をさらさら流れる小川に気を留めることはなかった。その間に、水田に水をかける井水の整備が進んで、小川と呼べるような流れは少なくなった。小川らしきものも、ほとんどは両岸をコンクリートで固められている。水はさらさら流れず、さっと流れ過ぎてしまう。圃場整備が進んで、曲がりくねった小川が田んぼの間を流れているのを見ることは少なくなった。

 自転車でふらりと出かけて、気がつくと懐かしい風情のある小川のそばを走っている。岸には春の草花が咲き揃い、どこからかウグイスの鳴き声が聞こえる。やわらかい水がさらさらと流れている。小川に沿って走るのは何ともさわやかで気持ちがいい。水面の静かなため池に行きつくこともある。釣りをしたり泳いだりした記憶がよみがえる。懐古趣味ではないが、長い間自分の中で失われていた光景に再び出会えるのは嬉しい。自転車のおかげだ。
 今では、小川のほとりで遊ぶ子どもたちの姿を見かけることはない。
 今でも、子どものころの私や私の友だちは、昔の恰好のまま小川のまわりで遊びつづけている。


春の小川はさらさら行くよ          
  今日も一日ひなたで「走り」             
遊べ遊べとささやいている 


水ぬるみ、自転車の季節が到来する          

小川の流れにそって 春の陽ざしの中を走る      
  懐かしい光景がよみがえる              
中学生くらいになると小川を離れ、この川で遊んだ  
       夏休みには日がな一日、この川で泳いでいた          
   近くのため池へ鮒を釣りに行った           
  暑い季節は裸になって池に飛び込んだ      
  何が出てくるか分からないので怖かった     




1 件のコメント:

  1.  私は小中学校時代、授業を真面目に聞かずふざけていていつも先生に叱られていました。この『春の小川』をじっくり噛みしめたこともなく、鼻歌気分で歌っていたことを60年経った今、恥ずかしく反省しております。自転車に乗ることで、一生思い出すことがなかったはずの小川やため池、秘密基地が目の前に現れる。家から近くなのに、生まれて初めて入った路地。歳をとってもあの頃の自分が取り戻せる。自転車は単なる移動手段の道具ではなく、人間の心情を揺さぶるタイムトラベラーですね。今回の内容も素晴らしく、自分の子どもの頃が鮮明に浮かんできます。ありがとうございました。

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