冬をむかえる

冬をむかえる
'25.1.22 山を見て走る

2021年4月3日土曜日

桜並木の満開の下を

 今週、桜が満開になった。いくつになっても、心ときめかせて花を見に出かける。自転車に乗るために、寒さに備えて着込んだり、厚手の手袋をはめたりすることはもういらない。すぐ自転車に乗り出せるのがうれしい。花冷えもあり、花曇りもするが、冷えたり曇ったりしても、「花」がそれを打ち消してくれる。自転車の季節の到来でもある。

満開になった桜を見ると「桜の森の満開の下」という呪文のような言葉が思い浮かぶ。これは坂口安吾の小説の題名である。満開の桜の花を単純に愛でているだけでは終わらない、怪奇譚とも読める。

「桜の花が咲くと人びとは酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です」という書き出しから始まる、この小説の主人公は鈴鹿峠に巣くう山賊の男である。「近頃は桜の花の下といえば人間がより集まって酒をのみ喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると恐ろしい景色になります」。主人公の荒ぶる男も、桜の森の花の下が恐ろしく嫌な感じがする。

 男は、鈴鹿峠を通る人々から金品を奪い、女をかどわかして自分の妻にしている。すでに人の妻がいる。近頃、通行人を襲って、亭主を切り殺し、新しく妻にした女はこれまでにない美形で、しかし非常な我儘である。男は、新しく妻にした女の求めるままに、人の妻うちの一人を女中として残し、他の六人を切り殺してしまう。

新しい妻は、無理難題を押し付けるが、男はそれをすべて聞き入れる。ついには女の求めるままに、女と一緒に山を降りて都暮らしを始める。都では、妻の我執を満たすための凄惨な生活が続く。やがて、都の生活に満たされることのない男は、桜の森が満開になるころに山へ帰る決心をする。山への道すがら、妻を背負って満開の桜の森へさしかかった男を不安と孤独が襲う。背負っていた妻は口が耳まで裂けた老婆となり、鬼と化す。それを絞め殺す男の狂乱と消滅。「桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分かりません。あるいは『孤独』というものであったかもしれません」

確かに、誰もいない満開の桜の下では、ふと冷たい風が吹き、あるいは、はたと風がやみ、あたりから隔絶された孤独な自分を感じたりもする。今年も、桜の花を見に行こうと、何人かの人から誘いを受けた。誘ってくれた人たちは、ひとりで満開の桜の下に近づかない方がいいと、うすうす感づいているのかもしれない。ひとりで桜並木の満開の下を自転車で走るときには、そこで自転車を停めたりせずに素早く通り抜けるのがよい。

ところで、物語の舞台になる鈴鹿峠には山族や盗人にまつわる話が多い。『今昔物語集』には「鈴鹿山に於いて、蜂、盗人を刺し殺しし語」という説話もある。今年あたり、京都まで自転車で行ってみたいと思っているが、最大の難所は鈴鹿峠である。この際、恐ろしいのは、桜の森でも山賊の出没でもなく、険しい坂道とその標高である。


桜の花の満開の兆し
緑も萌えはじめる

満開の桜を愛でる
桜花繚乱春たけなわ
陽気で快活な
底抜けの春もあるが… 

風がないのに風が鳴ったり
物音ひとつしなかったり
桜の森の満開の下の秘密
それは孤独かもしれない

満開の桜の下の隔絶
散り敷く花びらは
孤独の断片

遠くに満開の桜をながめる
春が遠くへの憧れをいざなう


桜の並木の満開の下を 
春は立ち止まることなく
足早に通り過ぎる





2 件のコメント:

  1.  今回のブログは、傑作だと思います。桜シーズン真っただ中にピッタリの内容ですね。坂口安吾は学生の時『堕落論』を読んだ記憶がありますが、今思うと彼が言いたかった本質的なものを理解できていなかったなと反省しています。
     
     この短編小説『桜の森の満開の下』は鬼気迫るものがあります。一人で桜の下へ行くのが怖くなりました。しかし、それにもましてMARIOさんの文章、小説を絡めながら自分の想いを語る。素晴らしいです。
    最後の1行でホットさせてくれるところがMARIOさんのよいところ。
     
     写真が今回も綺麗で添えてある言葉がイメージをさらに膨らませてくれます。
     刹那に命を燃やす桜の潔さに、人は惹かれるのでしょうか。永遠に。         

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    1.  桜の舞い散るなかを自転車で走っていると、どこか知らない場所へ行ってしまって、もう帰れないのではないかと思うことがあります。花吹雪を写真を撮ろうとファインダーをのぞくと、見慣れているはずの場所が、初めて来たところに想えて、そこから抜け出せなくなるのでないかと不安になります。この時期だけは、桜の魔術にかかってしまって自転車に乗るのもいいですね。

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