冬をむかえる

冬をむかえる
'25.1.22 山を見て走る

2024年9月28日土曜日

自転車で出会う出会い方について

 同じコースを走っていても、沿道の木々、花々、家々、遠く連なる山々、空気の匂いさえも日々変わっていく。自転車で走っていると、意外な出会いがある。こんなところにこんなものが、こんなところにもこんな道が、と出会いは突然来る。

 自動車やオートバイで出かける時には、目的地を決めたら一目散ということが多い。ときには目的地に着くまでに意外な発見もある。道に迷ったり、思わぬ絶景に会ったりする。目的地があって先を急いでいるので、あえて車やオートバイを停めて発見を楽しむことは少ない。

 徒歩であれば、道行く先々で発見の連続かもしれないが、移動するのに時間がかる。巡り会うものや場所には限りがある。歩くことはあまりないので、そういうものだろうと決め込んでいる。

 そこへいくと、自転車は速度も移動の距離も「そこにあるもの」に出会うには実にぴったりだ。古い街道跡を走る。文字の判然としない道標や思いもかけぬ人の墓碑に出会う。家から遠くない集落にも、入りこんだことのない場所はある。よく手入れをされた寺院の庭や神社の境内に出会う。

近くに住んでいても知らない場所は多い。マウンテンバイクで里山を走れば、豪族の城跡に出会う。古墳があったりもする。たいがいは地元教育委員会の解説の札などが建てられているが、人の訪れる様子はない。自転車に乗っていなければ、こんな場所へは来なかっただろうと思う。もう一度、同じ場所に行けといわれても、行けるかどうか怪しい。

 訪ねて行くのではない。探しているのでもない。自転車に乗っていると、今まで知らなかったものや場所が、向こうから会いに来てくれる。自転車に乗っていると、知らず知らずのうちに招かれて、その地に行き着く。自転車でしか出会えない出会い方をしている。

現役の伊勢ケ浜親方は名伯楽
ずっと時代をさかのぼって
初代伊勢ケ浜関にここで会う

いつだったか
横綱さんにも
ばったり出会った

行き先を考えて
走っていると
街中に思案橋

近づいて
見上げれば
由緒ある名木

何気なく
近づけば
メダカ池

昔むかしの
築城のときから
今日訪ねることは
決まっていたのか
偶然の出会いか


2024年9月21日土曜日

機械と人の狭間

  サーキットを走るレースやラリーに出場するドライバーなら兎も角、普段自動車に乗るために身体を鍛える人はあまりいないだろう。スポーツタイプといわれるような自動車に乗っているからといって、運転している間に体力が向上することも考えにくい。多少の敏捷性は養われるかもしれないが、敏捷性を試すために高速で公道を走るのは危険である。快適なドライブは、自動車という機械を如何に整備しておくかにかかっている。機械本位だ。

 歩くとか走るとかいうのは、どうか。これは体力増進には効果がある。ウォーキングとかジョギングとか、健康維持のために日課にしている人も多いだろう。良く歩き良く走るために身体を鍛える人もいるかもしれない。歩いたり走ったりすることが鍛錬になるとも考えられる。歩くのも走るのも機械には頼れない。すべては自分の身体頼みである。体調を如何に整えるかにかかっている。人本位だ。

 では、自転車はどうかというと、これは機械の性能と人の体力の両方が求められる。買い物や通学に自転車に乗っている間は、あまり自転車が機械であることを意識をしない。ある日、パンクをしたりチェーンが外れたりする。たちまち、機械の不備不調、自転車の不具合を嘆くことになる。うっかり転倒でもしようものなら、今度は身体のバランス感覚や体力の限界を責める始末である。機械と人の狭間に介在するものがある。

 趣味で自転車に乗りはじめて、というか、乗りはじめたら自転車が趣味になってしまって、思い至ったことが多い。変速が上手くできないと自転車にも自分にもストレスがかかる。車軸やクランク軸の回転が重いと自転車も自分も消耗する。

 坂道を登る。向かい風に逆らって走る。脚力の無さを嘆き、自分と自転車の重さを憾む。 機械の調子だけでもなく、体調だけでもなく、機械と自分の狭間に調和を見つける。機械の好調を維持し、体力の維持増進を図る。自転車の面白さである。

桜米が実った

古代の米を
機械で植え
機械で刈る

機械と
折り合いをつけて
出かける

どこかで
足踏みをしている
秋を捜す

どこまでが機械の性能か
どこまでが自分の体力か
混然として走りつづける

2024年9月14日土曜日

ハンドル交換の記

  古い自転車の雑誌を見ていて、洒落たハンドルの自転車が目にとまった。実用自転車のハンドルと同じような形をしているが、スポーツ自転車にもよく似合っている。

 さっそく、自転車のハンドルについて調べてみる。ニット-というハンドルメーカーのカタログがわかりやすい。材質や用途によって形の異なるハンドルが数多く掲載されている。

 プロムナードハンドルというハンドルが雑誌の写真のものに近い。プロムナードはフランス語で散策や散歩道という意味なので、ゆったりと乗る自転車用のハンドルということだろう。よく似たハンドルで、ノースロードバーというのもある。これはイギリス由来で、正面から見ると口髭の形をしていることから、マスタッシュバーともいうらしい。

 YouTubeでハンドルの動画を見ていたら、大きな自転車店の若い店員が、お客に「一文字ハンドル」のことを尋ねられて、そんなハンドルないですと自信ありげに答えていた。店員さん、ありますよ、一文字ハンドル。今はフラットロードバーというらしいけれど。年寄りなら知ってますよ。ついでに言えば、オートバイ乗りはセパレートハンドル(セパハン)にも憧れたものですよ。

 ノースロードバーだって、セミドロップハンドルといって、かつてドロップハンドルは危険だといって禁止された少年たちは、そんなハンドルでごまかしていましたよ。

 昔少年だった自分が、今になって、雑誌で見たものに近いノースロードバーというハンドルに交換することを思いついた。12年間乗っているクロスバイクに似合いそうだ。

 交換すると、ちょっとレトロな雰囲気の自転車に様変わりした。ライデングポジションは合わせにくい。ハンドルの角度と高さ、サドルとの位置関係、更にサドルの角度や高さ、次々に調整が必要でベストポジションが出せない。ふとした思いつきからハンドル沼にはまったらしい。つづきはまた書く。


猛暑も
去り際は
名残惜しい

手に馴染んだハンドルを

新しいハンドルに換えたら

行き着く場所も
変わるだろうか

少し冷たくなった
夕暮れの川の水に
小石を投げた


2024年9月7日土曜日

父の遺品

 少し前に父の一周忌を済ませた。遺品の整理もほぼ終えた。遺品というと高価な品々という響きがある。父の遺品には高価なものといって特にない。それでも、本人には思い入れのある大切なものばかりだったに違いない。

 母が先立ってから、父は我が家の小さな離れに移り住んだ。73歳のころから30年ちかく暮らした。身の周りのことは自分でするといって、食事の準備や洗濯もこなした。気ままにやりたいことをして晩年を楽しんでいた。100歳まで生きる秘訣だったかもしれない。

 機械いじりの好きな父は、自分の車や孫の自転車の整備などにも時間をかけていた。元々が機械工だったので、お手の物だったのだろう。知り合いに頼まれて、電化製品やオーディオなどの簡単な修理もしていた。お寺の仏具などを修理するといって預かっていたこともある。

 親の遺したものをめぐって遺族で争奪戦が勃発するとか、兄弟仲が悪くなるという話を聞く。インターネット上には、遺産相続や遺品整理のトラブルに関する話題が溢れている。残念なことに、妹が早くに逝ってしまって私には他に兄弟がない。高額な遺産や遺品もない。揉め事の心配は無用である。遺品の整理は私一人で済ませた。

 父の遺した物を一つひとつ丁寧に見ていると捨てられない。遺品整理の業者になったつもりで、思い切ってほとんどのものを捨てた。父の居た離れは自転車を整備できる場所にしようと思い、自分で簡単に改装した。父が集めて愛用した工具だけは捨てきれずにそっくりそのまま残した。これが実に重宝である。

 自転車を整備していて、あれば便利だろうと思うような工具は工具箱の中に必ず見つかる。刃物などはきれいに研ぎあげてある。父が横にいて、使い方まで教えてくれる気がする。使っていた人の思いが伝わるように工具が手になじむ。高価ではないが遺品の本当の値打ちをいくつも見つけている。 

夏には夏に
やりたいことを
全部やろうと
欲張っていた

未整理のまま
夏は踏切りを
通り過ぎた

残された者が
遺された物を
探しつづける

取り置く整理か
捨て去る整理か

遺された物の
遺された意味を
掘り出している