ステイタスとは、人の社会的な地位や位置づけをいうが、自転車にステイタスがあるとすれば、それは決して高いとはいえない。この上なく便利なのに、ぞんざいに扱われることが多い。自分が中学生のときの通学用自転車が最後はどうなったのか記憶にない。嫁入り道具というのは懐かしいことばになってしまったが、妻の嫁入り道具にもお決まりのように自転車があった。それもどう処分してしまったものか、妻も私も覚えていない。
自転車のステイタスが高かった時代もあるにはあった。志賀直哉の『自転車』という小編には、高価なアメリカ製の自転車を買い替える件(くだり)がある。乗っている自転車を下取りに出して、祖母に借りたお金で新調する。当時の自転車は庶民には手が出ない高価なもので、今なら金持ちの娘や息子が外国車に乗りまわしているようなものだろう。
志賀と同じ時代を生きた私の祖父は男ばかりの四人兄弟だった。祖父は鍛冶屋をしていた。大叔父の一人は、自転車でひと儲けすることを思い立ったらしい。大正時代から昭和の初めころのことで、自転車は値段もステイタスも高かったことだろう。一度乗ってみてくれと言って、いろいろな人に自転車をあずけた。その代金の回収ができず、商いは頓挫した。随分乱暴な商売である。祖父の弟三人が、それぞれ事業に手を出しては失敗した。弟たちの借金を背負った祖父は、今でいう破産宣告をした。田地田畑はすっかり人手に渡ってしまった。代々田舎に住んでいるのに、我が家には田も畑もないはそういうわけである。一家のステイタスは地に墜ちた。私には商いの下手な自転車屋のDNAがある。投機に走る傾向も無きにしもあらず。自己破産しなかっただけ良しとしたい。
「いつかはクラウン」。トヨタ・クラウンはこんなキャッチフレーズで売られている時代があった。クラウンが多くの人にステイタスシンボルとして認められていた。いつかはクラウンに乗りたいと思って、みんな頑張った。私はステイタスにこだわりはないし、歴代のクラウンにもそれほど魅力を感じない。クラウンを買おうにもその余裕もない。価値感の多様化で共通のシンボルや記号を必要としない時代になってきたかもしれない。高価なものを除けば、相変わらず自転車のステイタスは低いままだ。高価な車や自転車には乗れないが、私は私の生活のシンボルとして、私の気に入った自転車を大切にしたい。
駅の駐輪場に無造作に停められている自転車たち 雨の日も風の日も駅までの道のりを通(かよ)ってくる |
綺麗な色なのだけれど… よく見ると蜘蛛の巣に乗っ取られていたり… |
変速機やギアは錆で真っ赤 ワイヤーだって今にも切れそうで… 便利な割には報われていない |
ステイタスシンボルにはならなし シンボルにしておくだけではもったいない 私は私の自転車を楽しみたい |
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番外:自転車ではないがこれも長年の相棒 5年乗ってある車を中古で買って14年 昨日、ピキピキにワックスをかけた 秋空をピキピキの車に映してみた |
今回も興味あるお話が多く、引き込まれてしまいました。
返信削除確かにステイタスとしての自転車は、知る人ぞ知る仲間だけが持っているものかもしれません。
子供のころ、自分たちだけの秘密基地として、学校から帰るや鞄を投げ出し一目散にそこへ走っていって遊んだ記憶。
自分たちだけで共有したものが十分大切なステイタスでした。
嫁入り道具から始まり、志賀直哉、はたまたお祖父さんの自転車にまつわる逸話は
傑作、というとはじけ過ぎで不謹慎ですね。
失礼しました。しかしノンフィクションとは思えません。まさに小説です。
MARIOさんはいつも、その時そのときをポジティブに最善の姿で生きようとしています。もちろん無意識でしょうが、見習いたいです。
あとどれだけの人生かはわかりませんが、やりたいことはどんどんやっていきましょう。
コメントありがとうございます。べーえんべーさんのコメントを読ませてもらうのがいつも楽しみです。どう読んでもらえるのか、どう感じてもらえるのか、書きっ放しではない手ごたえを感じることができます。
削除テーマにも題材にも一貫性がなくて、まさに雑感ではあるのですが、折々に感じることや事実を書いていると、いつかは方向性のようなものも見えてくるかもしれません。今後もよろしくお付き合いください。
自転車について語っていると、不思議と懐かしい出来事や古いものにつながることが多いのですが、生き方は前向きに、新しいことやものにも好奇心を持ち続けたいと思います。