冬をむかえる

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'25.1.22 山を見て走る

2020年12月11日金曜日

アイデンティティについて

 「アイデンティティ」を一言で説明するのは難しい。主体性、自己同一性、自己の存在証明くらいの意味か。心理学者エリク・エリクソンの提唱した概念である。私は誰でしょうという問題である。

仕事をしていた頃には、自分の位置というものがよく判っているような気がしていた。多くの人の中にいると、他の人が自分の立場を決めてくれるので、自分でも行動のパターンを作りやすい。中学校で勤務していれば、まず教員であり、担任だったり部活の顧問だったりする。教頭や校長だった時期もあって、生徒からも学校の職員からも当然そう見られていた。家に帰れば、独身の頃はただの兄ちゃんだったし、結婚して子どもできるまでは妻の夫だった。子どもができてからは父親にもなった。相手から見られるイメージ通りの生き方をしていればいいのは気楽である。自分の立ち位置や役割、振る舞いなどは、あまり考える必要がない。

では、現在はどうか。仕事を辞めて家にいるようになると、自分の立場が定まりにくい。私は何者かと考えると、実は誰でもなかったりする。アイデンティティが拡散していて、どうも焦点が定まらない。青年期に自我が目覚め、自己同一性が確立するというようなことを教育心理学の講義で聴いた覚えがある。高齢になって、アイデンティティが再び揺らぎ始める。判っているのは、天気が良ければ必ず自転車で出かけるじいさんということくらいである。

自転車の乗り方についても考えてみる。最初は自分独りでひたすら自転車に乗っていた。一緒に走る仲間ができて、乗り方が多様になった。妻にも自転車を勧めたので、ときどきは一緒に乗るようになって、さらに乗り方が増えた。最近は、自分より50歳以上も歳の離れた高校生と走ったり、家の近所の人が自転車を手に入れたので、その人と走りに出かけたりもした。一緒に走る人が違えば、その都度乗り方も違う。では、一体どれが本当の自分の自転車の乗り方なのか。どうも絞り切れていない。ペースが乱れている。アイデンティティが雲散しているのである。

独りで走るときにも、ロードバイクに乗ったりクロスバイクに乗ったり、ときにはマウンテンバイクにも乗る。走る場所も違うし、乗り方も異なる。欲張り過ぎているのか、もともとのキャパシティが低いのか。ますます自転車乗りとしてのアイデンティティを見失う。どうもよく判らないことの堂々巡りになっている。ここらでもう一度、自分の自転車との付き合い方を考え直す必要があるのか。なに、そんなことは考えなくても、ふらりふらりと気ままに自転車を楽しんでいればそれでいいのか。この歳になって、はっきりとした自我などなくてもいいではないか。


見慣れない景色の中に踏み迷う
Where am I ?   Who am I ?

出口の見えない道に踏み迷う
Where to go ?  What to do ?

一緒に走ったジャスミンのマスターのバイク(手前)
失礼! 無断掲載
軽量、快速、マスターは駿足

一緒に走った50歳以上若い友だちのバイク(奥)
失礼! 無断掲載
新車、軽快、彼の脚は超パワフル

ときどき一緒に走る妻の自転車(手前)
これは、まあ、ゆっくり、まったり…

さて、自分はどんな乗り方で、どこへ行くのか…
今の私は10年後の自分より10歳も若い
若いうちならどこへでも行ける、なんでもできる




2 件のコメント:

  1.  今回の内容は格調が高く、私には難しいものでした。

     ふだんから自分というものをしっかり見つめる習慣がないので、びっくりです。
    部屋でぼんやり物思いにふけるときの副教材になりそうです。

     大学時代に心理学の単位を取得したけれど、ほとんど聞いていないので記憶なし。
    でもこのブログを読ませてもらうだけで、とても勉強になります。

     MARIOさんは詩人で文学者だと思っていましたが、哲学者の一面もありますね。

    【アイデンティティ】 自分というものが存在していることへの認識など、
              これまで考えたことがありませんでした。

    それは今も仕事をつづけていることで、帰属意識がそうさせているのでしょうか。
    だとすると、仕事を辞めた後の自分はどうなるのか、とても不安になります。

    何か抜け殻だけが残り、自分の立ち位置や存在そのものが見いだせなくなりそうです。

      『 今の私は10年後の自分より10歳も若い

       若いうちならどこへでも行ける、なんでもできる 』

     MARIOさんの最後の言葉は、勇気と力を与えてくれます。

     生きているかぎり、ポジティブにプラス思考で過ごしていきたいです。

     自転車のことにふれない、へんなコメントになってしまいました。ご容赦を。

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    1.  コメントありがとうございます。
       嬉しかったり悔しかったりしたことをことばにして伝えようとすれば、それを書きつけるかどうかはともかく、文学的思考をするわけで、だれでもみんな文学者といえると思います。自分独自のことばで語れば、だれでもみんな詩人です。反省したり、明日からの決意を考えたりしているときには、みんな哲学者になっています。
       ブログを書かなければ、考えをまとめる機会もあまりないと思うので、もうしばらくはつづけてみます。
       お見限りのないように、よろしくおねがいします。

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