’26.5.8 一期は夢よ

2021年3月5日金曜日

自動アップデートの功罪

 長年、日記をつけている。「てきぱき家計簿マム」という家計簿ソフトの日記欄が便利なので、20年近く使っている。最近、日記を書くのに、日本語の入力がどうもうまくいかない。そこで、サンテク株式会社「家計簿マムサポート係」へメールで問い合わせた。

「日記の日本語入力の際、キーボードが反応しません。waと打つと「あ」と変換、saと打つと「あ」、reは「え」と変換されます。「。」「、」を入力すると改行されてしまいます。WordExcelの日本語ローマ字入力ではそういう現象は起きません。家計簿マムの入力の際にだけ発生します。何か原因が考えられますか、対処法があればお教えください。」 状況を説明するのは難しいが、できるだけ具体的に質問したつもありである。すぐにサポート係から回答があった。(※wa,sa,reを例示したのは、キーボドの左上の5つのキーで打てるから)

「マム9では日本語入力は、Windowsの日本語入力システムを呼び出して使用しておりますので、日本語入力システムに何らかの影響を受けている可能性も考えられます。少し状況は異なりますが、使用中にエラーになってしまう場合の対処方法が弊社ホームページにございますので、対処方法をお試しいただき、状況をご確認いただけますでしょうか。[対処方法1] から [対処方法4] までありますので お手数ですが、ひとつずつ実施をお願いいたします。ご案内は以上となります。」「ご案内は以上となります」とは何とも突き放した言い方である。それ以上訊かれても困りますと言外ににおわせている。免責の宣言である。

 対処法をすべて試したが改善しない。最後はソフトの再インストールもしたが状況は変わらない。思案に暮れていたが、Windowsの自動アップデートが影響しているかもしれないと考え、日本語入力システムIMEを古いバージョンに戻してみた。マイクロソフト社の罪というわけでもないが、問題はこれであっさり解決した。

解決したことをメールし、「他のユーザーからも同じような質問があるはずなので、対処の方法を公表すべきだ」と、やや抗議調で書き添えておいた。解決方法を伝えたことへの謝礼と「確かに同じような質問が寄せられているので、早急に対処する」という返信があった。最後は、またしても「ご案内は以上となります」と締めくくられていた。「お詫び(と言い訳)とお礼を申し上げます」と言うべきだろうと思ったが、ダメ押しのメールはしなかった。自動アップデートというシステムは、ユーザーの知らないうちにコンピュータの性能を補正してくれるが、思わぬ副作用や副反応が出る。功罪相半ばというところである。

自転車は乗りつづけていれば、部品は消耗し性能は落ちる。ときおりはアップデートが必要である。自動アップデートというシステムがないので、知らないうちに勝手に性能を変えられるということはない。アップデートの時期や内容を考えて、自分の判断でということになる。ことのついでに、乗り手のアップデートもできないものだろうか。身心ともに無償で自動アップデートできるシステムがあれば、これは功罪を問うまでもなく、大いに手柄が勝る。

乗りつづけていれば
タイヤもブレーキも摩耗する

ギアだって、チェーンだって
長い距離を走っていれば
擦り減って性能は落ちてくる
折を見てアップデートしたい

春の息吹を感じるころには
自然界にもアップデートの兆しが見える

万物のアップデート日和
地球をまるごと更新する大作業

季節がアップデートされる
大規模無償自動更新システム

乗り手も負けてはいられない
心も身体もアップデートして
新しい季節の中を走り始める


2021年2月27日土曜日

空気の研究

  自転車に乗ると空気の壁に突き当たり、押しもどされる。空気を読み、空気と折り合いをつけてすり抜けるか、強引に空気を切り裂いて走るのか。空気を無視することはできない。

 少し前になるが、NHKの「チコちゃんに叱られる」という番組で、「空気を読む」とは何を読むのかという質問が取り上げられていた。出演者は的外れな回答をして、チコちゃんに「ボーっと生きてんじゃねぇよ」と叱られ、明かされた答は、「0.2秒の短い時間に現れる顔の感情表現をみて、相手の本音を読む」ということだった。だとすると、「空気」とは、ごく短い時間に表出される潜在意識のことだといえる。

 15年ほど前には「KY」ということばが流行った。「空気を読めない」人のことである。「空気を読めよ」という警句にも使われた。今ではKY語といわれ、ローマ字で省略する日本語の代表格になっているが、KYというときの「空気」のとらえ方は曖昧な気がする。

 チコちゃんが紹介していた「空気」も「KY」の使い方も、ちょっと安直にすぎる。山本七平著『空気の研究』(1977年)には、「空気」を知りそれを読むという行為が、一筋縄ではいかないことが示されている。山本は、イザヤ・ベンダサンというペンネームで『日本人とユダヤ人』(1970年)を著して、日本人論の先駆けをなした人である。『空気の研究』では、日本人特有の議論の中に見られ、意志決定や判断材料にもなる「空気」の醸成や特性を論じている。「空気」を読み、それに従わなければならない、あるいは従ってしまう危惧についても取り上げている。

 山本は、戦艦大和最期の特効出撃が「空気」によって決まったという例を引く。孫引きになるが、『文藝春秋』(1975年8月号)の記事に「全般の空気よりして(大和の)特効出撃は当然だと思うという発言が出撃を決めた」とある。山本によれば「大和の出撃を無謀とする人びとにはそれを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。(ところが出撃の)正当性の根拠はもっぱら「空気」なのである。議論は最後には「空気」で決められる」ことになる。詳細なデータや根拠を明示しても、目に見えない「空気」には勝てないのである。

 多数決の原理を真に理解できない日本人は、会議で決めたことを「あの時の空気では、ああ言わざるを得なかった」と覆す。その夜の「飲み屋の空気」では別の結論を出すという事例も上げている。国や宗教、文化の違いで、「空気」の醸成のされ方や「空気支配」が異なることについて克明に記していて、「空気」について深く考えさせられる。

 『文藝春秋』最新刊(20213月号)のコロナウィルス対策関連の記事の中で、「空気で動く日本政府」という小見出しが目をひいた。同誌の他の記事でも同じような文脈で「空気」が使われている。重大な局面では、無色透明の「空気」が見えてくるらしい。どうやら、空気にはいくつもの種類がありそうだ。自転車に上手に乗るためにも、日常の「空気」に取り込まれないためにも、空気の研究を深め、空気の読み方を考えたいものである。

初詣に出かける
年が明けたというだけで気持ちが改まる
清澄な空気が漂う

冬の昼下がり
ひだまりの空気は
やわらかく暖かい

空気が冴える
山が近い

みんなで走れという空気で
みんな同じ方向に走り出す

空気を読んで大勢が走り出す
空気を読まないパンダは
遠くで仰向けに転がっている

たまには手入れもしてほしい
空気を読んで
近所の自転車が
集まって来た


2021年2月20日土曜日

七つの池を巡る冒険

  寒の戻りがあるとはいうものの、陽気は春めいてきた。本格的な春になったら、7つの池を巡る冒険に出かけたい。大仰ないい方であるが、実は大した冒険ではない。7つの池に特別の意味はない。9つの池でもいいし、たったひとつの池を探すというのでもかまわない。ちょっと気分を変えて走りたいときの呪文ようなものである。

 朝、目が覚めると自転車のためにあるような好天。さて、今日はどの辺りを走ろうかと考える。適当にぶらぶらと、というだけではいかにも芸がない。「7つの池を巡る冒険」と唱えれば、いつも走っているコースに抑揚がつく。子どものころは、名前などつけなくても毎日が冒険の連続だったが、大人には理屈が欲しい。

 いつも気軽に走っている、員弁郡やいなべ市内の云わばホームコースのようなところには、池や溜が点在する。人里をほんの少し離れると、樹々の間にひっそりと水をたたえる池や溜に出会える。湖といえるほど名前の知られた立派なものはない。池はもともと魚を生かすためのもので「生ける」が語源。溜は灌漑用に人工で水を「溜め」たものらしい。名もない小さな池や溜も、四季折々の変化を水面に映す姿には独特の神秘が宿る。冒険を企てる価値はある。

 どんな冒険に出かけるときも、ルートはざっくりと決める。厳密な道程はない。この辺にも池はあったはずだ、という極めて不確実な探索。目的の池に向かって走っていると、思わぬ所で初めて見る池に出会うこともある。子どもの頃に泳いだり魚を釣ったりしたことのある大きな池を探し当てたら、意外に小さかったという驚きもあった。昔の記憶そのままの場所もあれば、周りに遊歩道など整備され、よそよそしくなって乙にすましている池や溜もある。冒険してみないとそれも判らない。

 いなべ市はツアー・オブ・ジャパンのロードレースが転戦する場所の一つに名乗りを挙げ、最近は多くのライダーがその聖地を訪れる。「いなべサイクル・マップ」なども発行されていて、それを頼りに走るライダーが多いのだろう。マップには見どころなどを織り交ぜ、無難なコースが紹介されているので、お決まりの道を連なって走っている人たちを見かける。地図の見方を変えて、お仕着せのコースから外れてみれば、自分が発見者だと思えるようなワインディングロードがあって、その向こうに冒険が待っている。人影の絶えた魅惑的な池や溜に出会えるという僥倖もある。

 先日、家に遊びに来た友人を近くの溜に案内した。誰も知らない秘密の場所を教えるかのように、得意になっている自分がおかしかった。子どもの頃には日常茶飯事だった冒険を、しばらくはすっかり忘れていた。この歳になって、もう一度、いざ冒険、と呪文を唱えて自転車で出かける。近場を巡るサイクリングが、人跡未踏の秘境を尋ねる旅に早変わりする。


人影のない冬の池は
まるごと自分の庭的気分

はるばる来た…
実は振り返れば我が家が見えるくらい処にある

子どもの頃には「西村の溜」と呼んでいた
暗くて怖いところだったが
公園に取り込まれてしまった
柵など張りめぐらされて
妙によそよそしくなった
溜が怠けてくつろいでいる

この溜は昔の姿のままで頑張っている
地図にはあるのに
どうやって道を辿ればいいか判らない
溜の底からは何が出てくるか判らない

通りすがりに偶然出会った溜
地図にも名前が載っていない
昔から伝わる呼び名があるはずだ

誰も訪れないままにしておきたい場所がある
冒険を冒険のままで残してくれる場所である

村のはずれに「山の下」と呼ばれる
子どもには手ごろな小さい池があった
いつも魚釣りの子どもでぎわっていた
野放しの子どもが集まる池がなくなって
野放しの子どもはどこにもいなくなった

全国ため池百選だなんて
すっかり飼いならされて
よそ者になってしまった

選ばれてあることの恍惚と
     不安と二つ我にあり
     (太宰治、ポール・ヴェルレーヌ)
選ばれない方がいいことだってある








2021年2月13日土曜日

地図を読む

  ジェイムズ・ボンドは一世を風靡したスパイである。イアン・フレミングの原作には1953年に初登場、映画第1『ドクターNOは中学生の頃に観た。当時は『007は殺しの番号』という物騒な邦題で劇場公開された。1964年公開の第3作『ゴールドフィンガー』でボンドの乗るアストンマーティンDB5にはナビゲーションもどきの装置が搭載されていた。時代の最先端である。ボンド映画に登場する最新の機器にはわくわくのしどうしだった。

 ボンドがハイテクのスパイグッズを優雅に使いこなす古いタイプのスパイだとすると、ジェイソン・ボーンは全く新しいタイプのスパイ(両者ともイニシャルはJ.B.)である。第1作『ボーン・アイデンティティ』で銀幕に初登場する。ボーンは、彼自身がスパイグッズであり、武器である。翻訳機を使わなくても、外国語を自由に操る。身近なアイテムを通信機や武器に作り変え、使いこなす。ナビが必要なら、彼自身が地図を記憶にインプットしてしまう。

 ボーンはCIAの暗殺計画に失敗して、証拠隠滅のために命を狙われる。同業の暗殺者に襲われ、行く先々で地元警察からも追われる。パリで警察官に追いかけられるシーンでは、逃走の直前にパリの市街地図を読み取って記憶する。彼は脳裏に刻まれた地図を頼りに自在に逃走経路を見つけ出す。逃走車は最新装備満載のアストンマーティンやTOYOTA 2000GTではない。今にも壊れそうなミニを巧みに操る。第二作『ボーン・スプレマシー』でも、ナポリからベルリンまで古いメルセデスベンツでの逃避行の途中、ミシュランの地図を助手席に広げ、走りながら道路網を覚え込む。ベルリンの市街地図も瞬時に記憶する。

 私の自転車は、国境を越えて走るわけではない。猛スピードで何かを追ったり追われたりすることもない。自転車で走るたかだか100㎞くらいのコースは、地図に頼らなくても覚えてしまいたい。ボーン流を真似て、走りたい場所の地形を前日に地図で読み取る。但し、瞬時にという訳にはいかない。実際に走り始めたら、ランドマークをつなぎながら地図を見ないで走る。自転車に乗り始めた頃から、地図は記憶して、走り始めたら見ないことに決めている。思わぬ史跡などに行き会って、得した気分になることもあるが、ときには見当ちがいの道に迷い込み、焦りながら地図を確認する事態も出来(しゅったい)する。ジェイソン・ボーンになるのは難しい。

 映画のヒーローの地図の読み方を真似て自転車に乗る。子どもの頃に、自転車を月光仮面まぼろし探偵のオートバイに見立てて乗りまわしていたのと、ちっとも変っていない。映画『大脱走』の終わりに近いシーン、スティーブ・マックイーン演じるヒルツ大尉は、ドイツとスイスの国境の柵をオートバイの大ジャンプで越えようとする。それを真似て、オフロードバイクでジャンプの練習を繰り返したこともあった。地図を読み、ヒーローになったつもりで自転車を漕ぐ。バーチャルリアリティの世界は今に始まったものではないし、コンピュータの中だけのものでもない。


街の中を地図を読まずに走る
何だか懐かしい気がする街並みに出会う
場所は記憶の地図に記しておく

自転車のよく似合う通りを行く
記憶の地図に書き込んでおく

地図を読まずに走っていたら
信長さんに出会った

秀吉さんにも出会った

別の記憶にある地図の中で
生まれたばかりの信長さんに
出会ったこともある

一夜城の跡では
秀吉さんと再会した

人生の地図や時間の地図を
行ったり戻ったりして
自転車に乗っている

鳩も記憶に読み込んだ地図をたよりに飛ぶのか
ヒーローにあこがれて飛びつづけるのか


鳩にも自転車乗りにも
記憶の中に読み込んだ
人生の地図や時間の地図はある

やり残してしまったことや
いつかやってみたいことや
忘れてしまっていることや
鮮やかによみがえることや
ついに行けなかった場所や
これから出かけたい場所や

記憶の中の地図には
ルートがひかれている
定点がしるされている

鳩は双の翼で
自転車乗りは双の銀輪で
記憶の平面にひろげられた
人生の地図や時間の地図を
行ったり戻ったりしながら
飛んだり走ったりしている




2021年2月6日土曜日

省エネを考える

   省エネという言い方には違和感を覚える。エネルギーの使用量を節約するということなら、節エネだろうけれど、これも語感が良くない。節水は掛け声になるが省エネや節エネには緊張感がない。用語や名称を省略して使うのは難しい。最近しきりに使われるオリパラのごときは、オリンピック・パラリンピックがゲームソフトかデザートの一種のように聞こえてしまう。

 ともあれ、省エネということばはすっかり定着しているので、そのまま使うとして、自転車の省エネを考える。自転車の省エネの要素は、空力と重力、それに摩擦力である。空気の抵抗を減らして、車体を軽くする。あとは回転部分の摩擦を減らせば、自転車は楽に速く走る。乗る人の使うエネルギーを節約できるという理屈だ。

 本格的にスピードを競うレースでは、グラム単位で自転車を軽量にするらしい。フレームの材料や構造はもちろん、ギアやチェーン、それにサドルなどの各部品も徹底的に軽くする。身に着けるウエアやヘルメットも軽くする。アマチュアの自転車乗りでも、ほんの数グラム軽くするために何万円もかけるという話を聞く。車体の総重量がわずか7kg程度になるらしい。回転する部品の摩擦を減らす工夫や、空気を切り裂くためのデザインにも心血が注がれる。

 あるとき立ち寄った自転車屋の、私と同年輩のおやじさんが、自転車の整備や調整のノウハウを教えてくれた。私が、自己流でオートバイの整備などしていたことはあるが、自転車は奥が深いというと、我が意を得たとばかりに延々と話が続いた。オートバイをいじっていた人には、ネジを90度まわす、180度まわすという自転車の微妙な調整が難しい。ネジを闇雲にまわして、調整を狂わせフレームを歪めると力説された。オートバイだって、キャブレターの調整などは微妙だったけど…と思いながら聴いていた。

最近あまり乗る機会がないといって、おやじさん愛用の自転車を見せてくれた。高価なカーボンのフレームで部品の軽量化にもこだわった1台とのこと。お金をかけた分は速く走れるようになるか尋ねてみた。一番知りたいところである。果たしてその返事は、実際には思うほど速くならない。手をかけた高価な自転車に乗っているという優越感で、多少は自転車が速くなったように感じる。メンタルの要素が大きい。脚力を鍛える方が大事、というものだった。なるほど、そういうものかと大いに合点(がてん)がいった。

カーボン製の軽いフレームや軽快に回る部品、風の抵抗を減らすウエアを手に入れても、メンタルを左右する程度の効果しかない。少しでも高額の自転車や部品を売りたいはずの、おやじさんの正直な結論である。だとすれば、私のような高齢で平凡な自転車乗りの省エネ対策は、せいぜい体脂肪を燃やして、あとは余分な物を持たないことくらいか。

先週、雪が積もった
雪を見ながら走った

少し雪の深いところまで行ってみた

雪が車輪に凍りつく
走るほどに重くなる
生きるほどに重くなる
余計なものは削ぎ落すことだ

先週、あまり人の来ない池を見に行った

池を巡り、ぬかるんだ道に乗り入れた

泥が車輪についてくる
走るほどに重くなる
生きるほどに重くなる
余計なものは捨てさることだ

寒いのでいっぱい着込んで乗っている
軽量化も空力特性もあったものではない
おまけに自転車にはいっぱい積んでいる
省エネとは削ぎ落すこと…
とはいえ、気持ちも身体も寒すぎては困る


※ 愛車の軽量化や部品の交換が功を奏し、速くなった、快適になったという人の
  話も聞きます。愛車精神が走りを変える。それももちろん有りだと思います。




2021年1月30日土曜日

釈迦が岳のお釈迦様を訪ねて

   先日、不定期の定期走行会で四日市港まで走った。その帰り路、コンビニで休憩をしていると、鈴鹿セブンマウンテンの一つ釈迦が岳が目にとまった。近在の人は釈迦が岳の山容がお釈迦様の姿に見えるという。では、稜線をどうたどればお釈迦様に見えるのかという話になった。人によって見え方が違う。顔の向き、頭の形とそれにつながる肩の線。どうもしっくりこない。

 いつものように、困ったときのインターネット頼みで、「鈴鹿 釈迦が岳 釈迦の寝姿 稜線の見え方」をキーワードに検索してみるがそれらしい記述が見つからない。珍しいことである。大概のことは、蘊蓄を傾け記事にしている人があって、名答、明答もあれば迷答、愚答も見つかる。全国の「釈迦が岳」と呼ばれる山については、由来の説明やお釈迦様の姿を図説したものもある。ところが、三重の釈迦が岳については登山道の説明や山頂からの眺望の画像は見つかっても、お釈迦様に関する記述がない。

 自分たちは三重県側から見ているが、滋賀県側から見るのが本当かもしれない。つい自分本位の見方になるが、山の向こう側にも人の営みはある。南半球に住む人たちの使っている地図は南が上になっていて、オーストラリアもニュージーランドも国の形が倒立しているらしい。倒立ではなく、現地の人にはそれがもともとの形なのだ。

 昔むかし、とある村のお寺のたいそう偉いご住職が、「あの峰はお釈迦様の寝姿に見えるじゃろう」と言われた。村人たちはご住職の機嫌をそこねてはなるまいと、「なるほど、そう見えますな」と答えた。忖度に忖度が重なって、みんながお釈迦様に見えると言い出した。今のように画像にして稜線を確かめるわけにもいかず、見る人によってお釈迦様の姿は違って見えた。と、まぁ、こんなことがあったかもしれない。

 姿が違って見えるのはいい。神や仏は人によって姿かたちが違うだろう。しかし、見えないものを見えるというのは困る。後の時代の私たちが難儀をする。お釈迦様は善行を積んだ者にしか見えないとか、学校で楽しいことがあった子どもが、帰り路でふと山を見上げると、お釈迦様が微笑んでいらっしゃるとか、定説がなければこんな現代の民話を作ればいい。

 自転車で出かけた日、私が家路をたどる目印はセブンマウンテンの最北峰、藤原岳である。7つの山の中では凡庸に映る釈迦が岳をじっくりと眺めることはない。山が眠る今の時節にははっきりしないお釈迦様の姿が、山笑う季節にははっきりとみえるかもしれない。山が滴り、粧い始めるころにはどうだろう。四季折々に変化する山容を眺めながら、鈴鹿山麓を走る楽しみがまた一つ増えた。


釈迦が岳遠望(中央左の一番高い峰)
見慣れているはずの山が
眺めつづけていると新しい山に見える

少し近づいてみる
釈迦の姿は見えない

更に近づいてみる
釈迦の姿はやはり見えてこない

無理やり釈迦の姿を思い描く
寝釈迦・涅槃図の釈迦は北枕だとすると…

こういう姿に見えるということか
無理やり見ようとせずに現れるのを待つ…

見慣れているはずの山を
時間をかけて眺める
 
朝な夕なに山を眺めていると
光と影が、翠の濃淡が、
心のひだまでが織り込まれて
ある日忽然と釈迦の姿が現れるのか
春になったらまた来てみるか










2021年1月23日土曜日

アナログ派・デジタル派

  村の寄り合い、今風にいえば自治会の会議でのことである。開始予定時刻の10分ほど前に、年配の人たち全員が会場に揃っていたが、若い人が何人か来ていない。忘れているのではないかと心配した代表者が電話をしようとすると、「若い子は言われた時刻にしか来ない。まだ10分もある。催促するのは早い」と言う人があった。案に違わず、定刻には全員が揃った。アナログ派はゆとりを考える。若いデジタル派はピンポイントで考える。若い人はデジタル派という訳でもないので、「若い」という条件は省いてもいいかもしれない。

 デジタルにないのは、微細な変化の表現である。記憶も情報もありのままに留め、必要なものを瞬時に選び出すことはできても、人の想いに寄り添えるとは思えない。「うーん、どうしようか」と考える余裕を許さない。「ありそうだけれど、ないかもしれない」とか「ちょっと無理をすればでるかもしれない」という発想もデジタル的な思考にはないような気がする。

デジタルの基本は01か、ありかなしかの判断である。01の間を無数の点で埋めても完全には埋まらない。但し、大事な村の寄り合いには必ず参加するという「1」的で律儀な発想はアナログ派の高齢者に多い。

 最近の機械はほとんどがデジタル回路で制御され、動きもデジタル表示で確かめる。ハイブリッドの自動車などは機械なのか電気製品なのかよく判らない。同じ乗り物でも自転車だけはアナログのイメージが強い。脚の力の入れ具合で速度を調整する。乗っている姿勢を変えることで風の受け方を変える。路面の状況を自分の目と伝わる振動で感じ取り、加速したり減速したりする。デジタル回路を使った制御や表示は必要ない。自転車は実に身体の感覚と直結した乗り物である。

 「村の寄り合い」と同じように死語に近い「押しがけ」というエンジンスタートのやり方がある。バッテリーが上がった車やオートバイを人力で押して惰力をつける。その力でエンジンを空転させて、セルモーターを使わずにエンジンに点火する。ポンコツの車やオートバイしか乗れなかった私の若い頃には常套手段だった。電子回路で制御される今の車やオートバイには通用しない。自転車の漕ぎ出しは、常に押しがけをしているようなものである。0か1かではなく、0から1へ緩やかに変化しながら走り始める。

DX(デジタル・トランスフォーメーション)が盛んに言われる。デジタル革命を信奉することで生活が豊かになるような言われ方である。日々の生活も知識や知恵までも電脳にゆだねて、効率や豊かさを求める。時代の流れに逆らう気はないが、自転車のように人に近い機械や人と人との間合いのようなアナログの機微は残しておきたい。

デジタルで表現するすれば
風景の正体は点の集まりである
滲みもくもりも迷いさえもない

点は線になり線は面になる
面は色になり光になり風景になる
目は生真面目に補正をしつづけている

神社仏閣、敬虔な祈り
デジタルはどう表現するのか

冬枯れの野、凍りつく寂静
デジタルはどう解析するのか