’26.5.8 一期は夢よ

2024年8月17日土曜日

『Always 三丁目の夕日』

  懐かしい映画である。というか、懐かしさを醸し出している映画である。三部作を改めて全編観た。映画に描かれる昭和の夏は今ほど暑くなかったのか。夏の場面では扇風機が主役で、冷蔵庫は氷の塊を使用するものが登場する。

 時代設定は東京タワーが完成間近の昭和33年。物語の中心になる鈴木オートという自動車修理店の長男一平は下町の小学生だから私と同い年くらいだ。映画の中の一平と私は同じ時代を生きている。

 映画が撮られたのは平成17年なので、後付けでこしらえた「昭和」感は否めない。石原裕次郎や小林旭が活躍する本物の昭和時代や、『男はつらいよ』第1作のころのようなありのままの「昭和」とは少し違う。あえて作った「昭和」だからこそ強調されていて面白いところも随所にある。

 中学を終えた星野六子は集団就職で上京し鈴木オートに勤める。履歴書の特技欄には自転車修理と書いていた。個人経営の社長は自動車修理が得意だと早合点して採用を決めた。

 車の修理は全くできない六子に出番が来る。ブレーキが効かずに町内を暴走する煙草屋のおばさんの自転車を修理するシーンだ。前ブレーキのロッドを六子が器用に調整する。前ブレーキの調整だけというのは、いかにもという感じもがするが、懐かしい情景だ。ロッド式ブレーキの自転車を見ただけで十分に感動する。

 『続・三丁目の夕日』では、一平が大人用自転車に三角乗りをして登場する場面がある。フレームの間に片脚を入れる乗り方だ。今では知らない人が多いだろう。ほんの短いシーンだが、これだけで時代を共有できる。自転車に興味がなければ見落としてしまいそうだが、まちがいなく「昭和」の時代を表現するのに自転車が一役買っている。

時代をとおり抜ける

時代を映している

時代を刻んでいる

時代を懐かしんでいる

自転車を透かして
時代を見ている

2024年8月10日土曜日

自転車屋さんごっこ

  走行会の仲間の一人が、自転車の調子が良くないという。クロスバイクの変速が上手くできない。ハンドルにはガタがある。その場で変速機のワイヤーの引き具合を調整して、多少は調子が戻ったが完調ではない。

 最近、他のメンバーも変速機の様子がおかしいので自転車屋さんに愛車を持ち込んだ。変速機を取り付ける部分(リアディレーラーハンガー)が曲がっているということで修理してもらった。幸い、私がディレーラーハンガーの修正器具を買ったばかりなので、自転車屋さんを真似て二人でハンガーの歪みを調べ、変速機を調整し直そうということになった。

 ホイールの振れ取りをして、ハンガーの歪みを調べた。歪みはないので変速機を取り付け直して、ワイヤーの張り具合を丁寧に調整すると快調に変速するようになった。ハンドル周りは分解しグリスアップをして、ガタのないように組み直した。

 やっていることは素人作業で、自転車屋さんごっこである。見様見真似で、それらしく修理や調整をしているが、ごっこ遊びの域を出ない。とはいえ、乳幼児のごっこ遊びというのは、大きな意味があるらしい。子どもの成長にとっては大事な遊びなのだ。

 ごっこ遊びを通して、子どもはいろいろな力を身につけていく。1相手の立場になって考える力、2想像力・創造力、3表現力、4コミュニケーション能力・協調性、5観察能力・思考力、6社会性・ルールを守る力。どれも生きる源になる力だ。

 仕事を離れ、古稀を過ぎ、家で気ままに過ごしていると、幼いころにごっこ遊びで培ったはずの大事な力が衰える。趣味とも遊びともつかない自転車屋さんごっこで衰えた力が回復してくれたらありがたい。それで修理代も節約できれば一層の儲けものだ。


ごっこあそびに
余念がない

ままごとや
まねごとが
いずれは
ほんものの
力にかわる

垣間見ていた
夏空が

ほんものの
夏空になる

夏空の暑熱が
地を焼き
水を焼き
自転車を焼く




2024年8月3日土曜日

21,758回

  「あなたのスタイルに合った素敵なブログを作りましょう。使いやすく、自在にレイアウトを変えられます。背景画像も豊富なテンプレートから選択するか、自分で新しいテンプレートをデザインできます」

これは、Googleが提供している「Blogger」というブログ作成ツールの説明である。4年半前にブログを作ってみようと思いつき、やり方を調べた。無料で簡単にブログのページが作成できるというBlogger」の謳い文句に魅かれた。

 「ブログに残しておけば思い出も色褪せません。投稿や写真などのコンテンツはすべて Google の安全なシステム上に保管されます」

 目的にピッタリだ。愛用する自転車の記録、自転車に乗って考えたこと、それに自転車のある風景写真。これを安全に保管し公開してくれる。自転車写真日記永久保存版である。

Blogger に組み込まれている分析ツールを使って、アクセス数の多かった投稿を特定できます。分析結果を見ると、読者がどこからアクセスしていて、何に興味を持っているのかがわかります」

 ブログの舞台裏がこれで解る。分析ツールでアクセス数を見ると、731日現在で21,758回。アクセスがあったのは日本国内からの1.67万件。他に多い所では、香港1,717、アメリカ合衆国1,039、シンガポール751、ドイツ298、フランス229回などとなっている。外国からのアクセスは何かの拍子に間違ってアクセスされた可能性がある。

 これまでに記事を254回更新しているので、1回につき平均85人がアクセスしてくれていたことになるが、同じ人が何度も読んでくれたことも考えられる。それにしても、結構な数ではある。

 「Blogger」は簡単にブログのページの作成ができて広告も入らない。簡素なのはいいが更新日のカレンダーやアクセスの回数カウンターが貼り付けられない。閲覧してもらうには不便であるが、問題はそれ以外にある。4年半経っても記事に進歩がないどころか、むしろマンネリ化していることが問題だ。さて、今後どうしたものか、猛暑の中で考えている。

流れていく
時節を見送る

流れて来る
時節に乗る

乗り切れないで
眺めている
こともある

いつもの場所で
夏に出会い

いつもの場所から
夏をのぞく




2024年7月27日土曜日

夜型改善計画

  猛暑が続く。気温は体温を越え、入浴温度さえも上回る。熱中症アラートが出される。日中、自転車に乗るのは危険である。

 夏休みになると思い出す。朝の間の涼しいうちに勉強や読書をしましょうと先生からいわれた。夏休みになって3日くらいは、涼しいうちに勉強らしきことをやった気もする。

 数日もすれば、チャンネルは完全に遊びに切り替わる。宿題は置き去りにされ、朝から蝉捕り、虫捕り、魚捕り。友だちを訪ねて自転車で徘徊する。夏休みの計画と日課表は崩れ去り、真っ黒に日焼けする。勉強は涼しいうちにする方が効率が上がるのなら、遊びも涼しい時間の方が集中できる。そんな風に考えたかどうかは兎も角、夏休みは終日遊びの時間へとシフトする。

 走行会の仲間と一緒に走るのも、早朝の涼しい時間が良かろうということになった。次回は、いつもの場所へ7時に集合すると決めた。メンバーの中には、集合時刻は6時でもよいという者もいる。それには賛同しかねる。とにかく私は朝に弱い。

 7時に集合ということになれば、逆算して5時半には起きたい。前の晩に早く就寝すれば良いとはいえ、急に早く寝つけるものでもない。夜の時間は貴重である。本を読む、映画を観る。ネットで自転車の新しい情報などを調べる。YouTubeの動画で自転車の修理や改造の方法などを視ているとアッという間に夜は更ける。就寝時刻は午前1時から2時になる。

 仕事をしていた頃には、早く起きて出勤していた。当時も夜は遅くまで起きていたのだから、その気になれば朝早くに起きることもできる。夜の時間を削って早寝早起きにこれ努めるか、多少の寝不足を我慢するか。夜型から朝型への変更は、子どもころに作った夏休みの計画や日課表を実行するよりも難しそうだ。

きのうとは決別してきた

今日は今日のことだけを見る

明日のことは明日になって思う

そうやって
完結していたはずの日々が
いつかつながってしまって
断ち切れずに流れていく

決められた場所に
決められた時間に
自分がいないことが
気にかかる

2024年7月20日土曜日

パンク恐怖症

  パンク。語源は英語のpuncturepunkだけだと「若造」とか「くだらない」といった意味だ。タイヤのパンクはflat tireともいう。運がよければ、初めて自転車に乗った日から、一度もパンクを経験したことがないという人もいるだろう

 軽快に踏んでいたペダルが少しずつ重くなる。ガタガタと振動が突き上げる。前輪であればハンドル操作が鈍くなる。ぐにゃりとした感触が手と腕に伝わる。さてはパンクか。自転車を停める。ぺしゃんこになったタイヤは見たくない。言うに言われぬ暗澹とした気分になる。 

 コンビニや公園で休憩していると、ときどき同年輩の人に声をかけられる。実用自転車とは違う自転車が珍しいのだろう。一番多いのが、タイヤが細くて大丈夫かという問いかけだ。実用自転車に較べれば、タイヤの幅は半分くらいに見える。

「こういう自転車は安定して走れるのか」、「パンクはしないのか」、さらに「パンクをしたときはどうするのか」と、よく似たことを尋ねられる。

 予備のチューブを携帯していて、パンクをしたときには新品のチューブに交換すると言うと納得してもらえる。パンクを心配してくれる人は、パンクで苦労した人にちがいない。パンクした自転車を押して自転車屋さんを捜した。出がけにパンクに気づいて遅刻をした。パンクは苦い思い出だ。

 タイヤの性能が良くなっても、パンクは避けられない。1本は予備のチューブを携行しているが、2回つづけてパンクすることも考えられる。そのときは、ゴム糊とパッチを使って現場で修理することになる。

 これまで何度もパンクに見舞われた。その場で自転車を停めてチューブを交換した。幸い、同じ日に2回パンクしたことはない。考えた矢先にそれが現実になることもある。パンクの話題は避けた方がよかったかもしれない。

タイヤがパンクしたとか
だれかに出会ったとか

それはどの道を
来たからとか

どの道を
行くからとか

今ここにいて
考えてみても
よくわからないのだ

来し方を
振り返っても
なおさら
わからないのだ

2024年7月13日土曜日

小説『自転車泥棒』

 台湾の作家、明益めいえきの小説『自転車泥棒』を読んだ。原題は『單車失竊記』。自転車泥棒の話ではなく、消えた自転車の物語である。「失窃記」ということからもそれはうかがえる。

同じ邦題の映画『自転車泥棒』は原題も『Ladri di Biciclette』。これも、盗まれた自転車を父子で探す物語で泥棒は出てこない。映画は盗まれた自転車を探し続ける父子の1日を描く。自転車はついに見つからない。

小説の方は、父の失踪とともに消えた自転車を「ぼく」が見つけるところから始まる。その自転車の来歴にまつわる100年の物語である。古い自転車のコレクターである「ぼく」は、20年前に失踪した父親が乗っていた自転車に偶然出会う。その自転車を買い戻そうとするが、持ち主が判らない。

 「ぼく」はこれまで自転車を所有していた人を捜せば、失踪した父のその後も判るのではないと考える。自転車の持ち主を辿り始めて、いろいろな人物と出会っていく。写真家のアッバス、彼の父バスアが残した戦争の記録。バスアは日本語名の森勝雄と改名され、日本軍の銀輪部隊という自転車部隊に入隊させられてマレー半島で戦った。自転車が兵器に使われた時代があった。

 「台湾で今『脚踏車』という単語が指すものを、もし『自転車』と言ったなら、それは戦前台湾の日本語教育を受けた人だろう。『鐵馬』や『孔明車』と言うなら、その人の母語は台湾語ということになる。『単車』や『自行車』という単語を口にすれば、おそらく中国南部からやってきた人たちだろう」。自転車は台湾の歴史であり国情でもある。

 物語は「ぼく」が父の自転車の遍歴を調べるうちに、時代をさかのぼり、国を超える。人と生き様が連鎖する。台湾の国情やそこに暮らす人々の思いを載せた自転車が、過去から蘇えって走り出したようだ。自転車には載せきれないほどの物語が積まれている。 

大きな街道を行く

せまい裏道を抜ける

なりわいの形があり

なりわいの跡がある

花の咲く季節があり

花の咲く場所がある

2024年7月6日土曜日

便利にはなったけれど

 何か困ったことがあると、スマートフォンでインターネットにアクセスして調べる。辞書を引くよりネットを引くという横着ぶりである。

 検索エンジンでキーワードを使って何かを調べる調べ方も随分変わった。チェーンがはずれたときの対処法を調べようとする。以前の検索エンジンでは、キーワードを文字入力して必要な項目がヒットするまで検索を繰り返さなければならなかった。

 「自転車のチェーン」「自転車のチェーンの修理」あるいは「自転車のチェーンがはずれたときの対処法」などと入力して、知りたい項目が出てくるまで探したものである。

 最近はそんな面倒なことはいらない。スマートフォンを使って調べてみる。検索のやり方も違えば、キーワードの概念も異なる。スマホの画面でマイクロホンのアイコンを押して、「チェーンがはずれた」と叫ぶ。叫ばなくても、静かに祈るように話してもいい。

 それだけで、チェーンがはずれたときの対処法についての動画がいくつも画面にあらわれる。候補にあがった動画から、再生時間やわかりやすそうなものを選んで視聴する。説明の通りにできれば、その場でトラブルは解決するというわけだ。

 何本か動画を観た限り、ごく普通の実用自転車の後ろのギアからチェーンがはずれたときの対処法は見つからなかった。

 後ろのギアからチェーンがはずれると、どんなに引っ張ってもこじってもギアにチェーンがかからない。そのときは、先ず前の大きなギアからもチェーンをはずす。それから後ろのギアにチェーンをはめて、最後に前のギアにチェーンをかけてもどす。ちょっとした知恵と技だ。

 インターネットの情報は手軽で便利だけれど、すべてを補えるわけではない。実際を見て試しておくことが、知恵になり技になる。こつを掴むということだろう。


点在するものたちを出会わせる

組み上げて形にしている

孤立する場所や時間を

つなげて走っている

仮想の森の中で出会うものと

今ここで出会うものを
つなげて走っていく