’26.5.8 一期は夢よ

2022年5月28日土曜日

椿神社まで

  今年になって、すでに5回椿神社まで走った。「伊勢国一の宮 猿田彦大本宮 椿つばき大神社おおみかみやしろ」が正式名称。「伊勢国鈴鹿山系の中央麓に鎮座する」と神社の公式案内書にある。

 神社へ詣でるのが目的ではない。我が家からルートを変えながら辿る片道30㎞程の道のりは、ゆっくり一日かけて寄り道をしながら走るのにちょうど良い。朝早く走り始め、少し急げば遅い昼には家にもどれる距離でもある。

 家を出て、通行量の少ない田んぼの中の道を選び、菰野町の庁舎を目指す。途中、巡見街道や八風道など、古い街道を走ることもできる。常夜灯や石の道標から、古い街道筋の気配が感じ取れる。『みえの歴史街道』というWebサイトに、三重県内の主だった街道が紹介されている。サイトの地図で確認しなくても、走っていれば古い街道の匂いがする。

 菰野町を起点に、椿神社まではその日の気分と乗っている自転車の種類でルートを選ぶ。マウンテンバイクに乗っているときには山側の道を行くのが面白い。近鉄湯の山線の終点、湯の山温泉駅から林道湯森谷線と林道雲母きららヶ峰線の分岐点を目指す。

 ここからは、東海自然歩道を水沢町へと抜ける。杉の木立の中を走り、途中舗装の切れた坂道を登る。アップダウンの多いコースを走り切るともみじ谷に出る。茶畑の中を内部川沿いに水沢本町まで下ると、椿神社は目前だ。

ロードバイクやクロスバイクのときには、山の中のルートを避けたい。菰野の街を出はずれて、国道306号線沿いにある廣幡神社から金渓(かなたに)川を上り、巡礼道を辿る。急な坂を登るときらら湖が光る水を湛えている。一息ついてさらに急坂を登る。鈴鹿山麓リサーチパークの山の中には似つかわしくない研究棟が姿を現す。ここから見る伊勢湾は絶景である。これまで登って蓄えた位置エネルギーを使って、山側ルートと同じように水沢町へ下る。

 菰野町から水沢町へは、巡見街道をなぞるように整備された国道306号線を走るのもよい。この道は並行するミルクロードよりも側道が広く自転車は走りやすい。自動車が走ることしか想定されていないのか、1㎞以上あると思われる直線の急坂に遭遇する。何度も来るとこの激坂を攻略するのも楽しみになる。

 どのルートを辿っても、県道四日市関線に合流し、新名神高速道路の鈴鹿パーキングエリア付近で高速道路をくぐると、椿神社の社殿はすぐそこである。

 椿神社は標高220mに位置している。アップダウンを繰り返すので、走行状況を記録するスマホのアプリによると、獲得標高は500mになる。朝早くに家を出て、お昼には間がある時刻に到着したとしても、どうしようもない空腹感に苛まれる。参拝が目的ではないので、形ばかりのお詣りを済ませると、門前の椿会館で食事をすると決めている。自転車で出かけるときの食事は奢らない。この会館の550円のカレーライスが定番である。


今日はどこに行こうか
決めかねたら自転車にまかせる

長い坂道を登ったり
坂道はさけてみたり

山を越えたり

山の中を走り抜けたり

湖に出迎えられて
眺望を楽しんだり

季節も私も変わっていくので
何度来ても同じ場所なんてない

おまけにおいしいものにありつけたら
きょうも儲かった気がするではないか



















2022年5月21日土曜日

風のささやき

 俳句の季語では、東風(こち)が吹き、春一番が来て、風は光りはじめ、やがて薫る。自転車乗りには最高の季節だ。青葉風、若葉風それに緑風。風のささやきが聞こえる。

 『風のささやき』といえば、スティーブ・マックィーン主演、ノーマン・ジェイソン監督の映画『華麗なる賭け(The Thomas Crown Affair)』の主題歌である。原題は『The Windmills Of Your Mind 』。作曲はミシェル・ルグラン、作詞はアラン・バーグマン、マリリン・バーグマン夫妻。この曲はアカデミー賞主題歌賞を受賞している。映画ではマックィーン演ずるトマス・クラウンがグライダーで空を翔けるシーンでこの曲が流れる。

 『風のささやき』の歌詞を自己流に意訳してみる。

渦を巻く輪のように\まわる車輪のように\始まりもなく終わりもない\まわり続ける糸車\山から転がり落ちる雪の玉\カーニバルの風船\まわる回転木馬\月にかかる暈(かさ)\文字盤をまわりながら時を刻む時計の針\世界は宇宙を巡る静かなリンゴ\あなたの心の風車もそうやってまわる (もともとのフランス語の歌詞では[私の風車])

 自転車の世界にも通じる歌詞である。映画のシーンを観ると、曲名が「風のささやき」と訳されたのがよく判る。

 映画のストーリーはというと、大富豪トマス・クラウンが趣味のようにして銀行強盗の完全犯罪を目論む。その犯罪を追うフェイ・ダナウェイが演じる保険会社の調査員との攻防に恋の駆け引きも絡む。

 クラウン氏の趣味は、チェス、ゴルフから、ポロにグライダー。別荘ではサンドバギーを乗り回し、普段使いの車はロールス・ロイスのシルバーシャドー。ショーファードリブンではなく、自ら運転する。大富豪の趣味に自転車がないのが残念だ。マックィーンの個人的な趣味のオートバイも顔を出さない。富豪に自転車やオートバイは似合わないのだろう。

 映画製作の裏話だが、主役のマックィーンはこの役柄がどうしても演じたかったらしい。自らの生い立ちの中で、感化院に入院させられた経験もある彼は、大金持ちの紳士が憧れだったのかもしれない。そういえば、他の主演作品では、囚われの身から逃げ出す映画が多い。『大脱走』、『ゲット・アウェイ』それに『パピヨン』など、どれも、脱出や脱獄が絡んでいるが、この作品は少し趣が違っている。

 『風のささやき』というあいみょんの楽曲があるが、これは題名が同じでも全くの別物。1999年にピアース・ブロスナン主演でリメイクされた映画『The Thomas Crown Affair』も全く別物のようで、オリジナルには遠く及ばない。

 大富豪の聞く風のささやきは、マックィーン演じるトマス・クラウン氏にお任せしておいて、ささやかな年金生活者の私は私流に、自転車に乗りながら、五月晴れの風のささやきに耳を傾けることにしよう。

山の音
森の声
麦のざわめき
風のささやき

真っ新の田んぼを
吹きわたる
真っ新の風

風に吹かれて
風に押されて

新芽若葉青葉
本日緑色の風

風薫る私が私を映している

やがて風は
夕暮れの方角から
吹き始める



 

2022年5月14日土曜日

二輪の力

  爽やかな季節をむかえ、吹く風が軽くなった。寒い風は重く、行く手をはばむ。爽やかな風は向かい風でも心地がよい。つい遠出がしたくなる。関ヶ原まで行ったことを書いたが、自転車日和に出かければ、片道50㎞くらいは案外簡単に走れてしまう。

 関ヶ原の古戦場に着き、ホッと一服、紫煙をくゆらせる。こんなときにいつも決まって思うことがある。新しい場所を訪れて、そこに停めた自転車を眺めていると、こんなものでよくぞここまで来たものだ思うのである。

 通り慣れた道を走っているときにはそれほどでもない。遠出をして、行き着いたところで自転車を眺めていると、何とも心細い乗り物だとつくづく思う。華奢なフレームに細いタイヤ、軽量であることに越したことはないが、遠出に使うロードバイクは、総重量わずか10㎏ほどの重さである。タイヤの幅は23㎜。これで60㎏ちかい自分の体重とわずかではあるが携行品をここまで運んできたのかと思うと、信じがたい気がする。よくぞここまでと思うのは、自分の脚力もさることながら、自転車の頼りなげなたたずまいによるものだ。

 行ってしまえば、帰りも同じだけの距離を帰らなければならない。この細い車体とタイヤは、帰り道も同じように私を運んでくれるか。自分の体力よりも自転車のことが心もとない。

 オートバイで遠出をしたころにも、同じようなことをよく思った。走行距離の感覚は少し異なる。オートバイならば、日帰りのツーリングでも片道150㎞ほどを走る。今日はここまでと決めたところで、休憩をしているときに、フレームやタイヤを眺めるのは、その頃からの自分の癖らしい。自転車とは比較にならないほど頑丈ではあるが、それでも、よくぞこんなものでここまで来られたものだという思いは同じだった。それが自転車となると、その思いが強いのは至極もっともである。

 自動車のように、屋根付きで、よく身体にフィットするように考えられた椅子に座って移動するのとはわけが違う。爽やかとはいえ、風を切って、陽の光にさらされながら走るのはそれだけで体力を消耗する。縦に一列に並ぶ二つの車輪は、意識はしていなくても、走りつづけ御しつづけていないと転倒する。自動車のように車にお任せという時間はない。

 友人たちと遠出をするときは、1台の自動車に乗れば、走っている間も会話を楽しめる。通り過ぎる景色も一緒に眺められる。雨風の心配もない。オートバイや自転車に乗って、わざわざ別々に走ることもなさそうなものだ。

 なのに、この心細い乗り物で、また、遠くへ行く機会をうかがっているのは、二輪の力に魅力があるからに違いない。体力をつけるとか健康の保持というのではない。走るのが面白いのだ。難儀をしてもそれも楽しみ。二輪で走る乗り物を手放すわけにはいかない。

自転車を停めて思う
よくぞここまで来たものだ

そして、もう、次の行き先を探している

何かに誘われるように
何かを誘うように

二つの輪が光りながら
山を越えていく

二輪の力で走る
がんばれ自転車



2022年5月7日土曜日

関ヶ原まで

 先週、関ヶ原まで行った。朝8時に家を出た。我が家からスタートすると、多度から養老鉄道沿いに走り、養老からさらに北へ上るコースと、北勢線に沿って阿下喜まで行き、国道365号線で藤原をぬけて岐阜県に入り、多良峡を越えるコースがある。

 この日は、関ヶ原まで行くと決めて家を出たわけではない。自転車日和なので、新緑を求めて遠出をしてみようと漠然と考えながら走り始めた。阿下喜方面へ向かい、調子を見ながら藤原岳を回り込むように国道365号線を走る。大型のトラックが多いので、国道に沿った脇道に点在する集落を縫って走る。

 幹線道路の横には大概集落の間を通る旧道や生活道路がある。長距離トラックや先を急ぐ車が少ないので、自転車にちょうど良い。時には、集落の中に迷い込んでしまったり、思わぬ景観に出会って足止めをくったりすることがある。それもまた楽しい。

 藤原町古田のあたりは、巡見街道という古い街道が残っている。365号線から外れて、巡見街道をしばらく走る。江戸時代に巡見使が通った街道で、東海道亀山宿から北勢地域をショートカットし、関ヶ原で中山道に通じる街道である。この街道を走ろうと意図したわけではないが、図らずも関ヶ原までは巡見街道に沿って行くことになる。

 このルートで標高の最も高いと思われる辺りに明行寺、長楽寺という2ケ寺がある。標高250m。但し、250mを登りつづけたわけではなく、道は上ったり下ったりするので、家を出てからここまでに獲得標高は400mほどになっているはずである。

 岐阜県へ県境を越えると、国道365号線は「牧田川やまざくら街道」と呼ばれる。県境からしばらく走ると上石津トンネルに至る。長さ1.8kmの長いトンネルを抜けると上石津町牧田までは近いが、トンネルの中は空気が悪い。迂回して牧田川沿いに多良峡へ登ることにする。新緑がまぶしい。山桜の咲くころにはさぞやと思われる。

 多良峡を越えると道は再びやまざくら街道にもどり、牧田で「薩摩カイコウズ街道」に合流する。この道は大型トラックが多いので、並行する「九里半街道」を関ヶ原まで走る。関ヶ原までだらだらと登り坂が続くのはきついが、街道の両側に点在する旧家の佇まいや庭木の新芽が楽しませてくれる。

 走りぬける街道の名前を楽しみ、沿道の新緑を満喫しながら、古戦場に着き、開戦の地や決戦地を巡る。合戦の跡を訪ね、JR関ヶ原駅に戻ったのは11時30分、走行距離はちょうど45㎞に達した。途中、休憩を取りながら3時間半ほど走ったことになる。

 単純計算では、このまま家に帰ると走行距離が90㎞弱にしかならない。妙なこだわりで100㎞は走っておきたい。ならば、旧中山道を埀井宿まで走り、大垣から養老を経由して距離を稼いで帰ろうと、駅前でアンパンをかじりながらにわかに思いついた。


私がどこから来て
私がどこへ行くのか
私にだってわからない

この道を行けば
いいのかなんて
私にだってわからない

出会いは往ったり来たりする
待ってなくても出会ったり
待っているのに出会えなかったり

ここにいるぞと旗を立てても
誰も気づいてくれないときもある

ここにいたぞと石を立てておけば
誰かが訪ねてくれることもある

これより先に道があれば
これより先へ進んでみる


2022年4月30日土曜日

ハイブリッドについて

   自転車仲間の何人かがe-Bikeに乗り換えた。今、注目株の自転車である。これまでの電動アシスト自転車とは少し趣がちがう。電動アシスト自転車は文字通り、電気モーターがペダルを踏む力を助けてくれる。ヘルプではなくアシストなので、全面的に助けてくれるのではなく、必要なときに補助してくれるという感覚だろう。

 e-Bikeもモーターのアシストを受けるという構造は同じだが、積極的にペダルを踏むのが前提になっていて、変速機が充実している。乗車姿勢もスポーツバイクと変わらない。乗り手に脚力があれば、モーターの力を借りずに変速機を駆使して自力で遠くまで行ける。電気に頼り切りでは、実用自転車をスポーツバイク風に作り変えただけという意地の悪い見方もできる。

 自動車の世界ではハイブリッド車が多くなった。HEV(ハイブリッド・エレクトリック・ヴィークル)という。内燃機関とモーターを組み合わせ、電気で(も)走る自動車が増えている。普段はエンジンで走るが、走りながら充電した電気を蓄えておいて、必要に応じその電力でモーターを回す。電気モーターの力も車の推進力に使う。これは、パラレル・ハイブリッドという。

 ハイブリッド車にはもう一つ方式があって、エンジンは発電の仕事だけをする。エンジンで発電した電力を使ってモーターを回し、自動車を走らせる。シリーズ・ハイブリッドといわれるものである。車を走らせるのはモーターの力だけなので、いわば電車である。

 車から完全にエンジンを降ろしてしまったのがBEV(バッテリー・エレクトリック・ヴィークル)である。これはもう完全に電車だ。燃料を燃やさないので走行中のCO2排出量はゼロになる。

 HEVやBEVは燃費が節約できて、環境にも優しいのが売りだ。カーボンニュートラルの時代に向けて、さらに技術革新が進み、いずれは電(気自動)車が主流になるだろう。それは好ましいことかもしれないが、エンジンのない自動車というのは古い者にはピンと来ない。  

 e-Bikeもハイブリッドの一種だが、これは、パラレル式でないと成り立たない。ペダルを踏む力に応じて電気モーターがアシストする。走り出す前に、ペダルを踏んで発電し、電力を蓄えておいてモーターを回すというのでは、出発までに時間がかかり過ぎる。ペダルを踏まなくても、モーターだけで走るようにすると、原動機付き自転車ということなって運転免許が必要だ。電動オートバイと区別がなくなり、もはや自転車ではない。 

 e-Bikeは発展途上の自転車なので、今後さらに進化を遂げて、自転車の主流になるかもしれない。自転車といえばハイブリッドのe-Bikeのことをいう時代が来たとしても、人力のみで走る自転車はきっと残るだろう。乗り手が健康でありさえすれば、燃料なしで走れる。こんな経済的で環境に優しい乗り物は他にない。


花から葉桜へ
季節が自転車を歓迎してくれる

自転車の季節の到来に
遠くの山が微笑む

今日はまたひとつ
新しい橋を渡る

新緑が出迎えてくれる
自転車が季節の色に染まる

今日はまた新しい季節の
花の香りに誘われて走る

風に背中を押されて走る
自然と私のハイブリッドだ


2022年4月23日土曜日

橋を渡る

  母の実家は、員弁川をはさんだ川向こうの在所にあった。川には大社橋という橋が架かっている。子どものころには、車が一台やっと通れるくらいの狭い橋だった。

 盆・正月の母の里帰りと報恩講という年に一度の法事には、妹と自分が母の両手にぶら下がるようにして、歩いて橋を渡った。いとこたちと遊べることや、祖母のくれる駄菓子を楽しみにして、うきうきと橋を渡った。帰り道の記憶がないのは、名残惜しい気持ちが強くて、あまり思い出したくなかったからかもしれない。

若い頃、大社祭の上げ馬神事には、川向こうの神社まで、馬に跨って橋を渡った。橋の上で、渡御を知らせる花火の音に驚いた馬が、後ずさりし前足を上げて立ち上がった。馬から振り落とされれば、欄干を終えて川まで真っ逆さまに転落するという恐怖があった。橋を渡ってしまうと、馬で神社の急坂を駆け上がる危険な神事が待っている。無事に乗りこなせるだろうかという不安や恐れにかられ、それでも多少は意気込んで橋を渡った。

 二日間の神事をすべて終えて、ろうそくを灯した提灯を手に、馬で橋を渡り帰還した。夕闇のせまる橋の上で、疲れ切った馬はもう後足で立ち上がることはない。安堵と名残惜しさが募った。祭は終わっても、馬から降りたくなかった。

 中学、高校時代の通学には、毎日自転車で渡っていたこの橋を、また、自転車で渡ることが多くなった。車やオートバイで走り抜けるときには、ほんのひとまたぎと思っていた橋が長くなった気がする。橋から川の上流を見ると、流れの向こうに季節の色に染まった鈴鹿の山並みが連なる。私の原風景だ。

 自転車で橋を渡ってしまうと、簡単には帰れないという気がする。家に近い橋を渡れば新しい場所へ出ていける。新しい場所を訪ねると、初めて出会う橋を渡る。いろいろな場所を経巡っていると、帰りの橋を見つけなければ川のこちら側へは戻って来られない。自転車の距離感では、橋を探し当てて川を渡って戻るのはかなり道のりになる。小さな橋を渡ってしまうにも、大きな決断がいる。

 機会があれば、いつか渡ってみたい橋がある。チェコ共和国の首都、プラハを流れるモルダウ(ヴァルタバ)川に懸かるカレル橋だ。建設に50年かかって1402年に完成した橋は、それから600年以上も使われている。

プラハの春には、この街も、この橋にも、旧ソ連の侵攻を受けた悲惨な記憶が残る。日々の営みの中で、何の邪気もなく橋を往来する人たちの命が、無残に奪われる惨劇には耐えられない。土地の人たちの原風景になっているはずの橋が、破壊されるのはあまりにもむごい。

 橋を渡る。思い出や密かな意気込みを慈しみながら橋を渡る。どんな小さな橋も、心無い侵略行為にさらしたくはない。


ひとまたぎで渡れそうな橋を
人の想いが時間をかけて渡る

ひとまたぎで渡れそうな橋を
越えれば季節が変わることもある

白い道の先に
長い橋の架かる予感

あの遠く長い橋を渡ってしまって
再び川のこちらへもどれるだろうか

通じ合えないのならば
橋を架けさえすればいい

橋が架かれば
人が流れ
意志が流れる

いつかは渡ってみたい橋がある



2022年4月16日土曜日

相棒

  「相棒」というタイトルをつけただけで、もう結論が見えたようなものだ。自転車はおまえの良き相棒だと言いたいのだろう、と簡単に言い当てられそうである。判りきったことを、今更ながらに書くこともないと思うが、書きながら気づくこともある。書き始めたら最後まで書いてみることだ。 

    確かに自転車はなくてはならない相棒である。ちょっと出かける、はるばる出かける、いずれの場合も、自転車が相棒なら存分に楽しむことができる。            
 
 仲間と一緒に自転車で出かけるということになると、彼らは相棒にしている自転車に乗って来る。一緒に走る気のおけない仲間たちが、相棒にしているのはどんな自転車なのかと観察してみるのも面白い。相棒に選んだ自転車とどんな付き合い方をしているのか、興味の湧くところでもある。乗っている自転車を見ると、なるほど、この人はこんな自転車を相棒に選ぶのかと納得できることが多い。自転車の選び方や付き合い方にも人となりが現れる。                                       

 相棒とは、もともと駕篭を担ぐときの相手のことをいう。駕篭を担ぐには前と後ろの担ぎ手の息が合わないとうまくいかない。駕篭に乗せてもらった経験はないが、担ぎ手の呼吸がぴったり合っていれば、高級セダンのように乗り心地がのいいだろう。反対に、担ぎ手の呼吸が合わない駕篭は、バランスの悪い自転車と同じで、妙な振動や揺れが出て、不快に感じるかもしれない。

 テレビドラマ『相棒』は、20年以上もつづく長寿番組である。主人公の杉下右京は、何度か相棒を代えながら、長い間活躍し続けている。よほどいい相棒に恵まれないと、これほど長くは視聴者を引き付けられない。

 名探偵の事件解決には相棒がつきものである。古畑任三郎と大泉真一郎というのもあった。海外のドラマでは、『白バイ野郎ジョン&パンチ』、『刑事スタスキーとハッチ』、それに、『マイアミバイス』のソニーとダブスのコンビも懐かしい。シャーロック・ホームズとワトソン博士という名コンビもある。彼らはお互いにいい相棒に恵まれている。

 相棒を描く物語は、天才肌と常識人、破天荒型と堅実型、もしくはベテランと新米などのコンビが登場し、片方をストーリテラーとして進行していくというのが典型である。相棒同士はお互いに引き立て合い、力を補完する。主人公はもちろん、名脇役の相棒がいないと物語は成立しない。

 自転車の場合、主人公は乗り手なのか自転車なのか判然としないところもある。乗り手が自転車を選ぶとすると、破天荒型や天才型で高性能の自転車は扱いが難しい。かといって、堅実型で常識を超えない自転車では物足りない。現実の相棒選びは難しい。自分の方では気に入って選んでも、自転車に拒絶されて、乗りこなせないということもある。  

相棒と出かける日

相棒とむかえる
あたらしい季節

同じ風の中にいても
想いがすれちがっていたり

同じ場所にいて
同じものを眺めていたり

この先も一緒に進んだり
この先は別れることになったり

道のない道に踏み入る
異を立てるのではなく
通じるものを探したい