’26.5.8 一期は夢よ

2021年10月23日土曜日

すれちがう

 異なる方向へ行き合うのがすれちがいである。すれちがいは、お互いに相手との接点を見つけることのないまま通り過ぎる。あまり良い意味では使わない。

意志や思いのすれちがいは、人の関係を壊すことにもなる。すれちがってばかりで、一生わかり合えないことや出会えないこともある。すれちがいの物語は枚挙にいとまがない。悲劇の典型である。あまりすれちがいがつづくと、滑稽に思えることさえある。

 自転車で走れば、歩いている人や同じように自転車に乗った人とすれちがう。相手もスポーツ自転車に乗っている人だと、挨拶を交わすことも多い。軽く会釈をしたり、手を挙げたり、ときにはことばをかけ合う。

 追い抜いたり抜かれたりするのは、同じ方向に向けてすれちがっているのと同じことになる。自転車どうしのときは、追い抜かれるときにも、ちょっと声をかけて追い抜かれると気分がいい。黙って脇をすり抜けられると驚かされる。だいいち危ない。

 追い抜く時には、こちらが声をかけることになる。脚力のない自分は、走っている自転車を追い抜く頻度は低い。追い抜くのはほとんど歩行者である。農道などで犬と散歩をしている人や、のんびりとウォーキングを楽しんでいる人を追い抜くのは気が引ける。そんなときには、少し離れたところから相手を驚かせないように、静かに「おはようございます」とか「こんにちは」と声をかける。

 「お邪魔しまぁ~す」と呼びかけることもある。ベルを鳴らすのは、どけどけと言っているような響きがあって気が咎める。自分が車に抜かれるときに、クラクションを鳴らされると、邪魔者扱いされたような気分になるのと同じだろう。

 中には道いっぱいに広がって歩いている人がいたり、散歩中の犬のリードが道をふさいだりしていることもある。そんなときも「お邪魔します」と声をかけるとほとんどの人は「ごめんなさい」といって道を空けてくれる。ところが、中には怖い顔をして振り向く人もある。「本当は、あんたの方が邪魔なんだけど…」と思うが、そこは大人、「ありがとうございます」と言って通りぬける。

 通りがかりに、小さい子どもが手を振ってくれることがある。これは気持ちがいい。手を振る、振りかえすというのは、遠くにいても、その距離がグッと縮まるものらしい。道の反対側にいる知らない人でも、手を振り合うとこちら側へ道を渡って会いに来てくれたような気がする。

 見ず知らずの、もう二度と会うこともない人とのすれちがいが、ちょっとしたことばがけや手を振ることで、さわやかな瞬間に変る。下校途中の小学生に「こんにちは」と声をかけたら、可愛い声で「こんにちワンワン」と応えてくれた。つい笑みがこぼれ、ペダルが軽くなった。 すれちがうことが楽しいときもある。

秋と風と水の音と
すれちがって走る

遠くを見て佇んでいると
時の流れていく音がすれちがっていく

この道を行くと
どれくらいのすれちがいがあるのか

雨の予感を背負って走る
自転車乗りたちとすれちがう

立ち止まると遠くに月
惑星も衛星たちもすれちがう

萩が静かに咲いていて
すれちがってしまいたくない


2021年10月16日土曜日

自由業

 自由業という職業が成り立つのかどうか。辞書に乗っているので、職業の類型にはあるのだろう。勤務時間や場所に縛られず、独立して働く職業をいうのなら、思いつくのは画家や物書き、昨今流行りのYoutuberやブロガー、医師や弁護士も含まれるのか。どんな仕事でも縛りがないとは考えられないのだが。

 私の前歴は公立中学校の教員なので、職業の類別は公務員。地方公務員で、教育公務員である。自由業とは対極にある。職務上は「地方公務員法」(任用、職階制、給与、勤務時間その他の勤務条件…)で規定される。さらには、「教育公務員特例法」(任免、分限、懲戒、服務及び研修について)でがんじがらめにされる。それを承知で選んだ職業なので仕方がない。とはいえ、若いころにそんなことまで深く考えて、職業選びをしたわけではない。

 前に髭のことを書いたが、髭といえば自由業の人に多いというイメージがある。外国ではそうでもなさそうで、リンカーンのように立派な髭の大統領までいる。自由業でない職業は、不自由を強いられるといことになるが、自分の職業生活を通して、あまり不自由を感じたことはなかった。本人が自由にふるまっているつもりでいると、傍から見れば危な気で、ちょっと変わった奴と思われていたかもしれない。

 退職してからも、元教員と知れると、人は先生と呼び、何となく堅苦しい奴という先入観を持たれることも多い。先生と呼ばれるのは、学校の中だけで、しかも、生徒から呼ばれるだけで十分である。退職しても先生なんて呼ばれると、いまだに教育公務員特例法に縛られているようで、窮屈この上ない。

 学校では、教育基本法、学校教育法やその施行細則に縛られ、授業の内容は学習指導要領で規定される。決められたことを決められたようにこなすのでは、何とも味気ない。指導内容やともするとその方法まで決められてしまうことがあっても、教員は自由業よりも自由な精神が必要である。

 目の前にいる子どもたちとのつき合い方は、自由自在でなければならない。教える中味は決まっていても、その過程では子どもたちと自由に考え、学び合う。教員は画家のように、詩人のように、そして妙なる音楽を奏でる人のように、自由に発想し、自由に表現したい。自由な遊びごころも欲しい。実に自由業の筆頭に分類してほしい職業である。

 長年続けた仕事を辞したということもあるが、自転車に乗り始めてからは、自由自在にどこにでも行けて、思いのままに楽しめるものがあるいうことに、今更ながらに気がついた。

 それが自転車ではなくても、向き合い方によって、自由な世界を開いてくれる手段や方法はいくらもあるだろう。仕事をしていた頃から自転車に乗っていたならば、自由の極意を会得することができただろうと思うと残念だ。今、専念している年寄業では、自由業を超える自由をめざしたいものだ。

 

今年は今年のコスモスが
一輪一輪ていねいに咲いて
今年は今年のコスモス畑

一輪一輪が違った色で織りなして
今年は今年の
今日は今日の
コスモス畑の色

咲きそろって秋のひまわり
同じ方をむいて咲いていても
見ているものはみんなちがう

すすきの海ひろがる
すすきの穂の1本1本に
朝には朝の光
夕暮れには夕暮れの影

夏にたくわえた緑を
やがて土にかえすときを
待っている樹々の梢

自転車で帰る帰り路
今日は夕焼けが美しい



2021年10月9日土曜日

デジャヴ déjà-vu

 自転車はデジャヴである。家から自転車に乗り出すときも、見知らぬ人の自転車とすれちがうときも、駅の駐輪場に置き去りにされた自転車たちを眺めていても、それは懐かしい。それは過去につながり、いつか見た光景につながる。子どものころに同じようなことがあった気がするし、学生のときに出会った場面にいるような気にもなる。

 自転車で訪れる場所はデジャヴである。風に向かって田んぼの中の道を行くときも、風に押されてほの暗い森を抜けるときも、辿り着いた寺院の石段を自転車から降りて登るときも、そこは懐かしい。そこは過ぎ去った時間の中で、いつか見た場所につながる。そこでは、(せん)遠くへ逝ってしまった母や妹、友人たちに逢えるような気がする。

 デジャヴ(déjà-vu)、既視感(きしかん)。実際は一度も体験したことがないのに、前にどこかで体験したように感じる現象のことで、フランスの超心理学者エミール・ブワラックが『超心理学の将来』(1917年)の中で提唱した概念である。前世の記憶だという人もあるが、科学的には、記憶のメカニズムや無意識が影響していると説明されている。

 『デジャヴ』(2006年)という映画があった。主人公のダグ・カーリンを演じるのはアフリカン・アメリカンの俳優、デンゼル・ワシントンである。SF仕立てのサスペンスで、主人公のダグが時間を行き来して事件の解決に挑む。D・ワシントンの凄みのある、それでいてどこか憂いをたたえた、物静かな目の光が、やや無理のある筋書きをリアルなものにしている。

 アフリカン・アメリカンの俳優は悪役を演じることが多かった映画界で、ヒーロー像を確立したのがD・ワシントンだといわれる。彼の立ち居振る舞いは、1960年代に映画『野のユリ』、『招かれざる客』などに出演した名優、シドニー・ポワティエのオーラにつながる。彼ら二人の遠くを見つめているような目、毅然としているがどこかさびし気な表情、そして時折見せる人懐っこい笑顔を重ねると、これもデジャヴかと思わせる。

700年も前に、吉田兼好も、また、デジャヴについて書いている。「(略)また、如何(いか)なる折ぞ、ただ今、人の言ふことも、目に見ゆる物も、我が心の中に、かかる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや」(『徒然草』第71段)「これと同じことがいつかあったと思えて、いつとは思い出せないのだけれど、本当にあったような気がするのは、私だけがこんな風に思うのだろうか」とこの人も感じているのだ。

つれづれなるままに、日ぐらし、自転車なるものに乗りて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつけていると、これもいつかやっていたように思えてくる。


ここに来た覚えがある
それがいつだったのか
ここはどこだったのか

蕎麦の花は空の下に咲いているのか
蕎麦の花は私の中に咲いているのか

昨夜見た深更の天の川に
かさなって白昼の天の川

路上に人影が見えなくなった
明るいさみしさが通りぬける

昔語りは記憶の中の実存か
今を生きている幻想なのか

友とみじかい旅に出た一日の帰るさ
家路をいそぐ夕暮れとすれちがった
前にも同じ夕暮れに会った気がする




2021年10月2日土曜日

道案内いたし〼

 自分の家を中心に半径15㎞の円を描く。その中におさまる道は、どんな細い道も、舗装のされていない田んぼの中の道も、たいがい一度は通りぬけている。地図の中に通った道や面白い場所を書き込んでおけば、もっと正確に覚えておけたかもしれない。曖昧なところもあるが、記憶の中ではかなり多くの点や線がつながる。

面白い形の大樹や見晴らしのきく場所、通りぬけると気分の軽くなるような道や懐かしい家並みなど、気に入っているところがたくさんある。このブログにも「七つの池を巡る冒険」と題して書いたことがある。自転車に乗らなければ、死ぬまで行かないような場所が家から近い所にも点在する。

大きなことをいったが、よくよく探してみれば、知らない道だってあるだろうけれど、これまでに走った道をつなげば、迷うようなことはない。すべてを網羅したなどと思ってしまうと、好奇心が涸れるので、まだまだ足を踏み入れたことのない場所もきっとあるだろうと思っている方がいい。

 半径15㎞を50㎞の円に広げると、さすがに小径に至るまでとはいえないが、幹線道路ならかなり走った。記憶をたどって走れば、ほとんどの道がよみがえる。何しろ、自転車で放浪するような走り方を初めて9年にもなる。義務教育を修了する年限だ。ほぼ一日中サドルの上で過ごした日もある。多少は道路事情や名所旧跡に詳しくもなろうというものだ。

遠くへ出掛けた帰り道は、多度養老山系と鈴鹿山脈の山の峰を目印に帰れば、家に帰り着く。曇っている日は、山が見えないので方向が判らなくなる。ランドマークがないと、西も東も皆目見当がつかない。そんな時は自分なりのやり方も発見した。民家の玄関はたいがいが南向きである。大きな窓は南側についている。これで、方角の見当をつけて走れば、半径50㎞圏内は自分の庭も同然である。

 日帰りの自転車旅なら、実用自転車、スポーツバイクを問わず、面白いコースを選んで、いか様にも道案内ができると密かに思っている。パンクや変速機の不具合くらいは、応急処置程度の修理ならお手伝いもできる。

 2時間で、平坦な道を通って、梅を見に行く、桜を探す。紅葉狩りをする。多少は坂道があっても、見晴らしのいい場所を駆けぬける。半日かけて、知らない町まで出かける。裏町の路地を探訪する。あるいは、1日走って、海を見に行く。県境を越えて、大きな河を上流へとさかのぼる。ご希望に合わせて、どなたでも、どんな場所にでもご案内いたします、と看板を出しても偽る(いつわる)ないろう

 ただし、一つだけお断りしなければならないことがある。当方、脚力には自信がないので、ゆっくりゆったりとしたペースで、たっぷり休憩も取りながらのご案内となります。


休日の朝
今朝は通勤電車に乗らない
自転車ででかける

休日には時間をかけて
川面に映る空を辿って
遠くまででかける

休日の昼下がり
船溜まりの船たちが
談笑している

休日の遅い午後
水面に光る時間の粒子を数えている
数え終えるころには夕暮れが迫る

休日は夕暮れまぢか
静謐は樹々をつたっておりてくる
庭は音のない光につつまれる

休日も黄昏どき
残り火が足許にちろちろと燃えていて
曼殊沙華パーティーは終焉をむかえる


  


2021年9月25日土曜日

自転車関連本のこと

 2012年の春、「じぃちゃんは退職金をもらったので、フェラーリを買うぞ」、と孫に宣言した。コンピュータを開き、孫と一緒に売りに出ているフェラーリを探した。R/C 1/20  フェラーリ FXX2,019円。太っ腹で、姪の息子にも1台買った。R/C 1/32エンツォ・フェラーリ、1,173円。ラジコンのフェラーリ2台、総額3,192円。アマゾンの購入履歴に残っている。実車なら中古でも2台で3千万円を下るまい。

 おもちゃのフェラーリを探していて、自転車にもフェラーリ製があるのを見つけた。コルナゴ、ビアンキといったイタリアの高級自転車メーカーとフェラーリがコラボして作った100万円を超えるものから、3万円で買える中華バイクまである。スポーツ自転車に興味がなかったので、値段による違いはよく判らない。自転車とはこんなに美しいものだったかと、改めて気づくきっかけにはなった。

 その夏、クロスバイクに乗らせてもらう機会があって、スポーツバイクの面白さが見えた気がした。自転車に関する本や雑誌を買ってみた。最初の一冊は『街乗り&通勤バイクカタログ 2012』(枻出版,2012)。次に『自転車と旅 週末の自転車の楽しみ方』(実業之日本社,2011,Vol.5)。この2冊とネットの記事の乱読で、自分は近々スポーツバイクを買うだろうなという予感がした。

 秋口にはネット通販でクロスバイクを買った。通販店が『要点早わかり ロードバイクメンテナンス』(枻出版,2008)という本をおまけに付けてくれた。これがよくできた手引書で、今も自転車いじりには欠かせない。自転車の整備をしながら汚れた手でページを開くので、この本はオイルや泥で真っ黒になっている。

 自転車を手に入れてからは、自転車関連本が書架に並ぶようになった。            

 整備や構造に関する本では、『ロードバイクの科学』(スキージャーナル,2008) 『クロスバイクがいちばんわかる本』(スタジオタッククリエイティブ,2011) ・『自転車組立、検査及び整備マニュアル』(日本車両検査協会,2020) といった具合だ。

 乗り方や効能、自転車旅に関する本を推薦するなら、・丹羽隆志『大人のための自転車入門』(日本経済新聞社,2005) ・米津一成『自転車で遠くへ行きたい』(河出文庫,2012) ・疋田智『だって、自転車しかないじゃない』(朝日新聞出版,2013)  ・石田ゆうすけ『行かずに死ねるか 世界95千㎞自転車ひとり旅』(幻冬舎,2009といったところか。

 電子本なども合わせればかなりの冊数になるが、中には読まなければよかったと思う本もある。自転車に乗れば簡単にダイエットができるといってみたり、無用な高級自転車を薦めたり、そんな本は眉唾物だ。本は選んで、乗ってから読み、読んでから乗れば、自転車の面白さが広がる。先達がいない自分には、自転車に関する書籍が何よりの道しるべなのだ。


雑誌やカタログは保存したい物だけにして
人にあげたり処分したりしてもまだ貯まる

石田ゆうすけ『行かずに死ねるか…』
これは自転車に乗らない人にもきっと面白い
           
電子ブックも何冊かタブレットに保存中
志賀直哉さんも、朔太郎さんも、
漱石さんだって、自転車での失敗は多い

秋、好天、曼殊沙華妖艶
本を読んでいる暇はない

秋、紺碧、曼殊沙華炎上
本は机上に開けたままで

秋、明澄、曼殊沙華昇華
本は書架にしまいこんで

空と華は溶けあい
青と朱が染めあう
秋色の光のなかで
いなごがとまどう








2021年9月18日土曜日

このブログ

  このブログの更新が先月で100回を超えた。YouTuberBloggerは世界中に数多あまたる。自分一人インターネット

 自転車で出かけるようになって、行く先々で写真を撮った。自転車でなければ通らないような道や沿道の景色が珍しいし美しい。用途の違う自転車を乗り換えて出かけるようになって、写真を撮影する場所や枚数が増えた。撮りためた写真を見ていて、その印象をまとめておこうと思いついた。

 その頃、公民館で文学講座の講師のようなことをしていた。講座の内容に自信が持てず、受講料をいただいてまで聴いてもらうのは心苦しいので講師を辞した。学校で仕事をしていた頃には、入学式や卒業式の式辞を文章にして練ったり、短い文章を書いたりする機会があった。現役を退き、引き受けていた講座も辞めたので、読み手を意識した文章を書かなくなった。

日記は、20年来毎日書いている。ここ10年ほどは、1000字ぴったりと字数を決めて書く。人に読まれることはないので、起承転結、序破急などという構成は考えない。推敲もしない。誤字脱字もそのままの書きっ放しである。

 そうだ、ブログにして写真と文章を公開しよう。人の目にふれる文章を書こうとすれば、下手なりにまとまったものにしたい。写真に短い言葉をつけて公開するだけでは芸がない。写真を貼って、「今日は100㎞走った!風が心地よい」「見知らぬ道に迷い込んだ。迷って正解!!」などとやっても、だいいち自分が面白くない。

 撮りためた写真を見ながら、文章を書く。公開版の自転車日記、絵日記ならぬ写真日記である。しばらく書いてみて、文章は1200字と決めた。ワードで400字詰め原稿用紙の罫線を作っておき、3枚目の最期の行まで埋める。それをブログ作成ページにコピーする。余程面白い文章でないと、読んでもらうには長すぎるが、多くの人に読んでもらうことよりも、自分の文章修行が目的である。

 ブログを開設した当初は、一気に何ページも公開した。これは長続きしない。毎週1回更新するというペースにおさまった。

 駄文ではあるが、べーえんべーさんには毎回丁寧に読んでもらい、コメントをいただく。これは励みになる。今年の年賀状にブログのことを書いたら、閲覧数が増えた。中学校で教えた当時の生徒やかつての同僚が、近況が判るといって読んでくれる。ときどきは感想をメールしてくれる。個人的なメールの内容が面白いので、コメント欄にも書いてほしいが、公開するのは抵抗があるらしい。

 自転車にまつわる話題と決めているので、こじつけになることもある。自転車で身体を動かし、ブログでちょっと考える。週1回の更新は、適度のプレッシャーになり、ストレスの耐性をつけるのにもちょうど良い。しばらくは、勝手気儘に書きつづける。

夏、遠くまで行った
わだちがそこに残る
心象は私の中に残る

心象が無造作に
積み上げられる

自転車を停めた所が
今日の私の居場所だ

ダム湖の向こうに
早い秋が来ている

走りはじめて思う
今日は、もう秋だ


2021年9月11日土曜日

走行会受難

  不定期とはいいながら、週に一度は走行会を行う。四人いるメンバーが、それぞれに災厄に見舞われ、走行会は受難続きである。メンバー全員が70歳になろうかという年齢で、病気、怪我、事故に失敗と次々に降りかかって来ても不思議ではない。同情、なぐさ、心配や憂慮という気持ちは抑えて、事実だけを挙げる

 昨年の夏、自分自身が膝の痛みに襲われてしばらく走行会を休んだ。普段は縁のない医者にも掛かった。無理をせずに、ときどきは無理をして、自転車に乗っているうちにかなり良くなったが、完治はしていない。

 一昨年暮れには、メンバーの一人に癌がみつかり、しばらく走行会を欠席した。今年になって、すっかり良くなり本格的に自転車に乗りだした。復帰も束の間、木彫り細工をしていて、カッターナイフで指を切った。かなりの深手で、またしても欠席が続いている。指の神経が切れているので、今もリハビリ中である。指は十分曲がらないが、少しづつ自転車に乗り始めた。

 86日、別のメンバーからメールが届いた。「石垣の草取りの最中に誤って羊歯に紛れた蜂の巣をむしり取り、右手指を5か所も刺され…医者に駆け込みました」。825日、同じメンバーから、「除草に使った噴霧器を洗浄、腰を伸ばしたところ出窓の端で額を切り…、医者に駆け込みました」。自転車にはすぐにも乗るつもりらしい。

 さらに別のメンバーから、「肩から肘にかけて痛みが走るので整形外科で診てもらったら、頸椎症と診断され…」「主治医の先生からは、自転車で走るのは、首が固定され負担がかかるので、良くなるまでは自重したらとのこと…」とコメントがあった。主治医に止められても、自転車は11時間と勝手に決めて乗っている。腕が痛むからか、自転車で出かけてカメラを地面に落とし、全損するという災難が重なった。

 走行会の仲間宛に、「みなさん受難続きの折柄、『日々是警戒』ですね。私も自戒します」というコメントを送った。その矢先、自分が、またしても災厄に見舞われた。身体の不調ではないので比較にはならないが、かなりの痛手だ。

 はなはだ尾籠(びろう)な話ではある。自転車で出かけてもめったにトイレを使うことはないのに、昨日にかぎって通りがかりの公園のトイレを借りた今どき珍しい汲取り式和式便所である。用を足し終え我が分身たちとは別れを告げたはずなのにさらにポトンと音がした。さてはとズボンのポケットに手をやる果たして、あるべきはずのスマホがない。茫然自失、そしてそのあと奈落の底へ、スマホは便所の底へ深く沈んだ。

走行会を代表して、私が厄落としを引き受けた。運はしっかり身方についたことだろう。ここらで受難の連続を断ち切りたい。歳とともに身体能力も注意力も衰える。それは承知で、それでも、リスクを恐れていたのでは「日々是自転車」は楽しめない。明日に向かって、我と我が身を励ますのみだ。

夏、去る
そっと見ている

夏、去る
そっと見おくる

 難儀なことはあっても
 その先には展望もある

今日、今年最後の夏に別れをつげた
来年、また会う

止まれといっても
止まってくれないものもある
止まれといわれても
止まれないときだってある
それでも時には止まって
休んだり考えたりしながら
また前にすすむ