’26.5.8 一期は夢よ

2024年7月27日土曜日

夜型改善計画

  猛暑が続く。気温は体温を越え、入浴温度さえも上回る。熱中症アラートが出される。日中、自転車に乗るのは危険である。

 夏休みになると思い出す。朝の間の涼しいうちに勉強や読書をしましょうと先生からいわれた。夏休みになって3日くらいは、涼しいうちに勉強らしきことをやった気もする。

 数日もすれば、チャンネルは完全に遊びに切り替わる。宿題は置き去りにされ、朝から蝉捕り、虫捕り、魚捕り。友だちを訪ねて自転車で徘徊する。夏休みの計画と日課表は崩れ去り、真っ黒に日焼けする。勉強は涼しいうちにする方が効率が上がるのなら、遊びも涼しい時間の方が集中できる。そんな風に考えたかどうかは兎も角、夏休みは終日遊びの時間へとシフトする。

 走行会の仲間と一緒に走るのも、早朝の涼しい時間が良かろうということになった。次回は、いつもの場所へ7時に集合すると決めた。メンバーの中には、集合時刻は6時でもよいという者もいる。それには賛同しかねる。とにかく私は朝に弱い。

 7時に集合ということになれば、逆算して5時半には起きたい。前の晩に早く就寝すれば良いとはいえ、急に早く寝つけるものでもない。夜の時間は貴重である。本を読む、映画を観る。ネットで自転車の新しい情報などを調べる。YouTubeの動画で自転車の修理や改造の方法などを視ているとアッという間に夜は更ける。就寝時刻は午前1時から2時になる。

 仕事をしていた頃には、早く起きて出勤していた。当時も夜は遅くまで起きていたのだから、その気になれば朝早くに起きることもできる。夜の時間を削って早寝早起きにこれ努めるか、多少の寝不足を我慢するか。夜型から朝型への変更は、子どもころに作った夏休みの計画や日課表を実行するよりも難しそうだ。

きのうとは決別してきた

今日は今日のことだけを見る

明日のことは明日になって思う

そうやって
完結していたはずの日々が
いつかつながってしまって
断ち切れずに流れていく

決められた場所に
決められた時間に
自分がいないことが
気にかかる

2024年7月20日土曜日

パンク恐怖症

  パンク。語源は英語のpuncturepunkだけだと「若造」とか「くだらない」といった意味だ。タイヤのパンクはflat tireともいう。運がよければ、初めて自転車に乗った日から、一度もパンクを経験したことがないという人もいるだろう

 軽快に踏んでいたペダルが少しずつ重くなる。ガタガタと振動が突き上げる。前輪であればハンドル操作が鈍くなる。ぐにゃりとした感触が手と腕に伝わる。さてはパンクか。自転車を停める。ぺしゃんこになったタイヤは見たくない。言うに言われぬ暗澹とした気分になる。 

 コンビニや公園で休憩していると、ときどき同年輩の人に声をかけられる。実用自転車とは違う自転車が珍しいのだろう。一番多いのが、タイヤが細くて大丈夫かという問いかけだ。実用自転車に較べれば、タイヤの幅は半分くらいに見える。

「こういう自転車は安定して走れるのか」、「パンクはしないのか」、さらに「パンクをしたときはどうするのか」と、よく似たことを尋ねられる。

 予備のチューブを携帯していて、パンクをしたときには新品のチューブに交換すると言うと納得してもらえる。パンクを心配してくれる人は、パンクで苦労した人にちがいない。パンクした自転車を押して自転車屋さんを捜した。出がけにパンクに気づいて遅刻をした。パンクは苦い思い出だ。

 タイヤの性能が良くなっても、パンクは避けられない。1本は予備のチューブを携行しているが、2回つづけてパンクすることも考えられる。そのときは、ゴム糊とパッチを使って現場で修理することになる。

 これまで何度もパンクに見舞われた。その場で自転車を停めてチューブを交換した。幸い、同じ日に2回パンクしたことはない。考えた矢先にそれが現実になることもある。パンクの話題は避けた方がよかったかもしれない。

タイヤがパンクしたとか
だれかに出会ったとか

それはどの道を
来たからとか

どの道を
行くからとか

今ここにいて
考えてみても
よくわからないのだ

来し方を
振り返っても
なおさら
わからないのだ

2024年7月13日土曜日

小説『自転車泥棒』

 台湾の作家、明益めいえきの小説『自転車泥棒』を読んだ。原題は『單車失竊記』。自転車泥棒の話ではなく、消えた自転車の物語である。「失窃記」ということからもそれはうかがえる。

同じ邦題の映画『自転車泥棒』は原題も『Ladri di Biciclette』。これも、盗まれた自転車を父子で探す物語で泥棒は出てこない。映画は盗まれた自転車を探し続ける父子の1日を描く。自転車はついに見つからない。

小説の方は、父の失踪とともに消えた自転車を「ぼく」が見つけるところから始まる。その自転車の来歴にまつわる100年の物語である。古い自転車のコレクターである「ぼく」は、20年前に失踪した父親が乗っていた自転車に偶然出会う。その自転車を買い戻そうとするが、持ち主が判らない。

 「ぼく」はこれまで自転車を所有していた人を捜せば、失踪した父のその後も判るのではないと考える。自転車の持ち主を辿り始めて、いろいろな人物と出会っていく。写真家のアッバス、彼の父バスアが残した戦争の記録。バスアは日本語名の森勝雄と改名され、日本軍の銀輪部隊という自転車部隊に入隊させられてマレー半島で戦った。自転車が兵器に使われた時代があった。

 「台湾で今『脚踏車』という単語が指すものを、もし『自転車』と言ったなら、それは戦前台湾の日本語教育を受けた人だろう。『鐵馬』や『孔明車』と言うなら、その人の母語は台湾語ということになる。『単車』や『自行車』という単語を口にすれば、おそらく中国南部からやってきた人たちだろう」。自転車は台湾の歴史であり国情でもある。

 物語は「ぼく」が父の自転車の遍歴を調べるうちに、時代をさかのぼり、国を超える。人と生き様が連鎖する。台湾の国情やそこに暮らす人々の思いを載せた自転車が、過去から蘇えって走り出したようだ。自転車には載せきれないほどの物語が積まれている。 

大きな街道を行く

せまい裏道を抜ける

なりわいの形があり

なりわいの跡がある

花の咲く季節があり

花の咲く場所がある

2024年7月6日土曜日

便利にはなったけれど

 何か困ったことがあると、スマートフォンでインターネットにアクセスして調べる。辞書を引くよりネットを引くという横着ぶりである。

 検索エンジンでキーワードを使って何かを調べる調べ方も随分変わった。チェーンがはずれたときの対処法を調べようとする。以前の検索エンジンでは、キーワードを文字入力して必要な項目がヒットするまで検索を繰り返さなければならなかった。

 「自転車のチェーン」「自転車のチェーンの修理」あるいは「自転車のチェーンがはずれたときの対処法」などと入力して、知りたい項目が出てくるまで探したものである。

 最近はそんな面倒なことはいらない。スマートフォンを使って調べてみる。検索のやり方も違えば、キーワードの概念も異なる。スマホの画面でマイクロホンのアイコンを押して、「チェーンがはずれた」と叫ぶ。叫ばなくても、静かに祈るように話してもいい。

 それだけで、チェーンがはずれたときの対処法についての動画がいくつも画面にあらわれる。候補にあがった動画から、再生時間やわかりやすそうなものを選んで視聴する。説明の通りにできれば、その場でトラブルは解決するというわけだ。

 何本か動画を観た限り、ごく普通の実用自転車の後ろのギアからチェーンがはずれたときの対処法は見つからなかった。

 後ろのギアからチェーンがはずれると、どんなに引っ張ってもこじってもギアにチェーンがかからない。そのときは、先ず前の大きなギアからもチェーンをはずす。それから後ろのギアにチェーンをはめて、最後に前のギアにチェーンをかけてもどす。ちょっとした知恵と技だ。

 インターネットの情報は手軽で便利だけれど、すべてを補えるわけではない。実際を見て試しておくことが、知恵になり技になる。こつを掴むということだろう。


点在するものたちを出会わせる

組み上げて形にしている

孤立する場所や時間を

つなげて走っている

仮想の森の中で出会うものと

今ここで出会うものを
つなげて走っていく





 

2024年6月29日土曜日

四人、四日市へ行く

 走行会の仲間四人で、街へ出かけてみようということになった。急な思いつきである。

 60年前にも同じようなことがあった。中学生になったばかりのころだった。友だちと遊んでいて、誰が言い出すともなく、街へ行ってみることになった。そのときも四人だった。本気で街へ出かけるというよりは、自転車で走っているうちに、勢いで四日市の街まで行ってしまったのかもしれない。

 街中をうろうろと走るうちに何も食べていないことに気がついた。パンを買って食べようということになった。ポケットの中を探っても、お金らしきものがない。「50円しか持ってないぞ」、「30円あるわ」。そんな会話をしたのではなかったか。みんなのお金をかき集めて、菓子パンを数個買った。パンを等分して食べ、公園で水を飲んだ。

 帰り道は、本当に家に着くのかという不安や空腹と戦いながら必死で自転車を漕いだ。それでも、二度と街へ行かないとは思わなかった。今度行くときは、200円くらい持っていこうと反省した。自転車で田舎から街へ出た中学生には大冒険の一日だった。

 無謀な中学生の遠出に比べれば今回は大人の走行会。道に不案内なわけではない。お金の入った財布もある。全員スポーツ自転車に乗っている。

 ところが、街の中を四人が連なって走るのは意外に大変だ。信号ではぐれ、踏切の遮断機に分断される。人や車が飛び出す。前を行く者は後続の安全にまで気を配る。街の景色を見るよりも自分の後ろが気にかかる。一旦停止の場所で白バイに注意される一コマもあった。無謀ですばしっこかった中学時代の自分たちとは様子が違う。

 懐かしい映画館の跡地やメンバーの一人が行きつけだった洋服店を訪ねた。無事に街乗りを楽しんだが、いつもの走行会よりはずしんと疲れた。イソップの寓話「田舎のネズミと町のネズミ」にならって、走り慣れた田舎道をのんびり走るが、今の自分たちにはふさわしい。とはいうものの、もう二度と自転車で街へは行きたくないかというと、そうでもない。

街の記憶を
いつ頃まで
たどれるか

初めて一人で
いった映画館

行きつけの
角の喫茶店

立ち読みが
常習だった
馴染の本屋

灯ともしごろの路地

街の記憶が
遠ざかったり 
近づいたりして
通りを歩いている

2024年6月22日土曜日

オーバーホールをする

 子どものころ、父のオートバイ仲間がエンジンのオーバーホール云々と話しているのを耳にした記憶がある。

 昔のエンジンは材質が良くなかった。長い間使うとシリンダーが摩耗して圧縮が効かなくなり不調を来す。シリンダーを削って、径の大きなピストンに付け換える必要があった。シリンダーをボーリング加工して穴を広げるので、「overhole」というのだと思っていた。

 ごく最近になって、「overhole」ではなくて「overhaul」だと知った。「機械や装置類を一つ一つの部品にまで分解・点検し、精度を回復するために必要な洗浄や修理、部品交換などを行う」「分解、洗浄、修理・交換、注油、組立、調整という手順で行う」ことである。間違った解釈の「overhole」は「overhaul」の一部だったということにしておこう。

 言葉をはき違えていたが、自転車のいろいろな部分のオーバーホールは試みている。例えば、車輪の軸と軸受け、ハブといわれる部分のオーバーホール。車軸が抵抗なく回ればタイヤは軽く転がる。長く使った車輪のがたつきをなくし軽い回転を取り戻すためにオーバーホールをする。

 抵抗を減らすために軸と軸受けの間には小さな鋼球がはめ込まれている。鋼球の周りにはグリスという粘度の高い油が詰められていて、さらに滑りをよくしている。長年使っているとグリスの粘度が失われ、しかも細かい埃や砂が入り込む。車軸と軸受けを分解し、汚れた部品を洗浄する。新しいグリスを補充して組み直す。

 慣れないと小さな鋼球がばらばらに飛び散ったり、組み立てのときには車軸の締め付け具合に苦労したりと散々な目に遭う。オーバーホールをした後は、タイヤが軽快に回ることを期待するが、効果覿面てきめんというほどでもない。苦労した分くらいは転がりが良くなったかなと思う程度である。

 オーバーホールをすることで調子が戻り、部品の寿命を延ばすことができれば、やってみる値打ちはある。何はともあれ、部品を徹底的にきれいにするのは気持ちがいい。 

大概のことには
取り返しがつく

洗い流して
組み直して
再生できる

抵抗とか摩擦とか
軋みとか異音とか
余計なものを除く

新しい気分で
新しい自分で
走りはじめる

使いつづけ
走りつづけ
歴史になる


2024年6月15日土曜日

検索できないもの

 住人のいない長男の部屋の本棚で百科事典を見つけた。私が子どものころに買ってもらったものだ。『原色現代新百科事典』学研、全8巻。親にとっては高価な買い物だっただろう。長男に譲ったものが今も残されている。

古い百科事典で「自転車」の項を調べてみた。1ページを割いて自転車の説明がされていて、図が7枚、写真が1枚添えられている。

 インターネットで検索すれば、こんなものまでという項目が解説され、動画まで見られる。自転車関連の記事や動画を検索すれば際限がない。今の子どもたちに百科事典はもういらない。

 自転車の種類、歴史。現在の自転車、しかも売れ筋のものを並べたページ。そのカタログ。自転車部品、部品の交換方法。整備の概要と詳細、手順や作業を解説する動画。故障とその原因、修理の方法、修理の費用。

 現実には存在しないことでも、チャットGPTが予想し類推して教えてくれる。思いつく限りのことから思いもよらないことまでインターネットで検索ができる。検索できないものを捜す方が難しい。それでも、検索できないものはある。

はじめて自転車に乗れたときのうれしさ、誇らしさ。自転車で走る爽快感。冬の朝の自転車の寒さ。夏の昼下がりの暑さ。寒さや暑さの対策は検索できても、厳しさやそれを克服する生の達成感は検索できない。

自転車関連本や映画の本編。これは著作権や売れ行きの問題があるからか、検索しても見当たらない。時間をかけて全編を読んだり観たりするほかない。それが真っ当な姿勢だ。

 検索に頼らず、好奇心に任せて自分で試してみるのが面白い。子どものころの、親に隠れて自転車で遠くまで出かける密かな楽しみ、暮れはじめる帰り道の心細さ、帰宅後の言い訳。自分の記憶の中を検索しても、どこかにうずもれてしまっているキーワードが多い。 


今夜は膝の上で地図を広げて
明日走る道を捜している

ナビゲーションシステムで
検索して走れば
地図をたたんだままにして
決められた道を行く

自分の道を捜す楽しみを
ナビの検索システムが奪う


私の地図を頼りに
辿り着いた場所は

私の記憶の中でしか
検索できない場所だ