’26.5.8 一期は夢よ

2022年3月5日土曜日

早春賦

 吉丸一昌作詞、中田章作曲の『早春賦』鮫島有美子、芹洋子、斎藤昌子、他にもダークダックスや由紀さおりと安田洋子姉妹などの、多くの歌唱がYouTubeで視聴できる。

春は名のみの 風の寒さや /  谷のうぐいす 歌は思えど / 時にあらずと 声もたてず / 時にあらずと 声もたてず 

早春の自転車の世界は、この歌にぴったりかさなる。春とは名ばかりで、風は冷たい。そろそろ温かくなるだろうと期待はしているが、まだ冬装束のままだ。手套も冬用の分厚いものを使っている。

 里山を走れば、うぐいすの初鳴きにであう。キョ、キョと鳴いているだけで、きれいな旋律にはならない。発声練習なのだろう。ときなお早いというところだ。それでも、うぐいすはまったく声をたてないわけではない。健気に初鳴きを始めている。

 「春は名のみ」というのが、子どものころには判らずに、「菜の実」かと思っていたが意味が通じない。「和み(なごみ)」と聞き違えているのではないか思っても、和むはずなのに、風が冷たいとはこれ如何に。のちに「名前ばかりの」という意味と判って納得がいった。 

氷融け去り 葦はつのぐむ / さては時ぞと 思うあやにく / 今日も昨日も 雪の空 / 今日も昨日も 雪の空

 川辺を走れば、葦は芽吹き始め、下草も青くなりかけている。気の早いスイセンが咲き、桜のつぼみがうすく色づく。いよいよ自転車の季節の到来と思いきや、雪が時雨れ、霙が降ることもある。すぐにも温かくなると思っていたが、そう簡単に春は来ない。意味が解らず「葦は角ぐむ」を「足をどう組むのか」とか、「あやにく」とは、「やわらかい肉か何か」だとか思っていたこともあった。生憎(あいにく)ならば合点がいく。

 春と聞かねば / 知らでありしを / 聞けばせかるる 胸の思いを / いかにせよとの この頃か / いかにせよとの この頃か 

 春と聞くだけで、温かくなればどこへ行こうか、誰と一緒に走ろうかと、思いは巡る。何とも気の早いことである。はやる気持を抑えて、寒さの中を走る。子どもころには、3番の歌詞は完全にお手上げだった。春を待つ歌なのだろうという気分はわかるが、歌の意味には歯が立たない。誰も歌詞の解説はしてくれなかった。美しい歌の響きだけを聴いていたのかもしれない。

 ありきたりのいい方ではあるが、自転車に乗って野へ山へ、川へ海へ、出かけることがなければ、『早春賦』は記憶の彼方へ押しやられて、思い出すこともないだろう。今になって、懐かしい『早春賦』的早春を改めて感じるのは、自転車があればこそである。

山に向かう現実
地上は混沌としていて
ときに道を失う

山に憧れづづけ
春を待ちづづける

うぐいすの初音がみなもをわたる
私の大切な場所を奪うな
私の大切な人を奪うな

この美しいふるさとを奪うな
ふるさとの人を奪うな

地上にあまねく
春が来るのを待つ
遠い国に
春が届くのを待つ
春の光明を待つ





 


 


2022年2月26日土曜日

詩人と自転車

  静物のこころは怒り そのうはべは哀しむ / この白き器物(うつは)の瞳(め)にうつる /   窓ぎはのみどりはつめたし

 萩原朔太郎の『純情小曲集』に収められた「静物」という詩である。朔太郎さんは、処女詩集『月に吠える』の再版にあたり、自筆の前書きにはこうも書いている

「私の詩集()は正に今日の詩壇を予感した最初の黎明であったにちがいない。()この詩集によって、正に時代は一つのエポックを作ったのである。げにそれは夜明けんとするときの最初の鶏鳴であった。そして、実に私はこの詩集に対する最大の自信が此所にある」。日本近代詩の父といわれる詩人の自負であり、抱負である。

 ところがこの人の『自転車日記』という短い文章を読むと、これが同じ人とは思えない。「今日より自転車を習わんと欲す。()操縦すこぶる至難。ペダルを蹈めばたちまち顚倒す()身体皮肉痛苦甚だし。寄りて止めて帰る」。翌日には、「弟を伴いて教師となし…、弟曰く、さながら酔漢の漫歩に似たりと」。三日目にはようやく乗れるようになるが、坂道で転倒し「数ケ所の打傷を負えり」おまけに自転車を壊し、「再度自転車に乗らざるべきを約せり」と結んでいる。

 それでも、2週間後には練習を再開し、遠乗りができるようになる。そのひと月半後に、老婆とぶつかって騒動を起こしたところで「記して日記に銘す」と書いてこの日記は完了する。近代詩の父も自転車ライフの黎明期は覚束な気で、悲惨でもある。

 まるい空がきれいに澄んでいる  /  鳥が散弾のようにぼくの方へ落下し  /  いく粒かの不安にかわる  /  ぼくは拒絶された思想となって  /  この澄んだ空をかき撩(みだ)そう

 これは知の巨人といわれた吉本隆明の初期の詩集『転移のための十編』の中の「その秋のために」という詩の冒頭である。代表的な著書『共同幻想論』、『言語にとって美とはなにか』などは極めて難解で、何度も読むことを断念した記憶がある。この人の著書を持つことが知のステイタスだと考えられていた。

 その吉本さんの『自転車哀歌』という晩年のエッセイを読んだ。「足腰と視力がままならなくなった昨今では、二百メートルくらいを境に、それを超えたところに行くのには、自転車をたよるしかない」。自転車で転んでいると中学生や高校生が「小父さん、大丈夫?」といって助けてくれる。「『俺もそんな年齢になったか?』と恥ずかしかったが、『たしかにそうとしか呼ばれようがないよな』と諦めがついてからは『すいません』とか『有難う』と言えるようになった」。これがあの吉本さんかと疑うほど平易な文章で判り易い。

 近代詩の父も知の巨人も、自転車と出会った時期や自転車ライフも終わりに近づくころには、私のような凡人と大差ない。自転車との関係性は、孤高の詩人や偉大な評論家・思想家でも同じようなものだと知れると、ちょっと嬉しい。

この細いフレームには
意思が宿り思想が宿る
自転車とはそういうものだ

タイヤの山に
遠くの山が重なる
山は重複し反復し
連なっていく

自立し自律するために
走りつづける
自転車とはそういうものだ

人の速さよりは速いけれど
機械というには遅すぎる
この絶妙の心地よさはどうだ

今日には今日の目的地まで来ても
明日には明日の目的地があって
また走り始める
自転車とはそういうものなのだ



2022年2月19日土曜日

電子メールのこと

 かつては電子メールといっていた。エア・メールなどの方が市民権を得ていた時代だ。「電子」とことさらに言わないと何のことか判らなかった。今ではメールだけで通じる。英語と同じように動詞扱いでメールするともいう。私などはいまだにメールを打つというが、これは電報の名残か。

 内容が込み入っているメールの送受信には、パソコンのメールソフトを使うことにしている。これは手書きの書簡に近い感覚だ。ネットで買い物をしたときの領収書の受け取りや、知人に資料を送ったり、送ってもらったりするのにファイルや画像を添付することもできる。関係書類を同封するというのに似ている。スマホでは、年寄りには画面が小さすぎるし、文書の現実味に欠けるのでパソコンの方がよい。

 自転車の走行会もメールには大いに助けられる。前日に、「急ですが、明日走ります」とメールして「雨雲が来るので、走るのはやめます」と1時間前に中止することもできる。相手の都合で読んでもらえるので、電話のように相手を呼び出す必要がない。。仲間内では一斉に同じ内容を送信できるのも便利だ。集合場所や目的地を知らせるには、地図に場所を書き入れて、それを添付して送るという手もある。

 メールには弊害もある。喫緊の連絡が入る可能性があるので、スマホを手放せない。家に置き忘れて外出するようなことがあると落ち着かない。来もしないメールに縛られているようで窮屈な思いをする。

 メールでは簡潔に意図を伝えるのが目的なので、余計なことを省略する。まだるいことは書かない。時候の挨拶はもちろん、定型の拝啓や敬具、前略に早々は全く使われない。省略された文章を使うのが普通で、極端な場合は単語だけということもある。助詞や助動詞、接続詞や感嘆詞は置き去りにされ、敬語も無視される。まるで失語症である。 

    走行会の案内をメールすると「了解です」と返信が来る。正確には、「内容を了解しました。参加します(または、申し訳ないが欠席します)」というべきところだろう。「ご案内ありがとうございます」がその前にあってもよいが、仲間内ではかえって他人行儀か。返事を受け取った方も、「了解」は「走行会に『参加』」の意味と解釈して了解しているが、了解しているようで実は双方とも正確な結論に達していない

 自転車に乗っていて危険が迫れば、「危ない」と言っている暇はない。「あっ!」と叫ぶのが精一杯だ。登り坂でどうしようもなく苦しいときには「苦しい」と言えず「くっ!」という音だけが口をついて出る。単語にもならない、あっ、くっ、という音こそ魂に近い表現なのだ。メールで言葉を省略するのも、意志を速く伝えるための工夫かもしれない。メールにはメールの作法がある。ただし、電子メールで意思を通じ合うには、ことば足らずを補う忖度や斟酌が要るように思う。


電子の画面のなかに
短く切られてしまった
ことばが閉じ込められる

電子の画面のなかで
ことばは切り取られ
ことばは貼り付けられ
ことばは繰り返され
ことばが意味を失う

了解とは同意だと了解するか
了解だが拒否だと了解するか
ことばが波立って揺れている

電子の媒介に耐える
新しい意味をさがして
飛びたて、ことば

電子の介入に耐える
新しい意味をせおって
飛びつづけよ、ことば


2022年2月12日土曜日

晴輪雨輪

 本を読まなくなった。仕事をしているころは、商売柄、子どもの成長や発達に関する本を多く読んだ。学校経営や教員研修についての本も読んだ。授業をするために、教材に関係のありそうな本を何冊も読むことがあった。文献にあたり、学んだことを生かす機会があれば、次々と新しい本を探すが、最近はその必要がない。自転車関連の本を読んでいれば十分といったところだ。

 生意気にも、小説くらいは原語で読むのがいいだろうと思って、簡単な推理小説などは英語で読む。これは時間がかかるが、理解できない単語は意味を想像しながらとばし読みすれば、それなりに理解はできる。慣れれば案外読めるものである。それも最近は中断している。

 退職後は、悠々自適の生活ですねと人から言われる。父親や叔父の老後に付き合っているので、なかなかそういうわけにもいかない。悠々自適といい、晴耕雨読という。いずれも、俗事に煩わされない理想的な生活を指して使われるが、悠々自適というと何もしないでのさばっているという感じがするのは自分だけか。

 それに比べると、晴耕雨読は多少勤勉さを感じて、それほどわるい語感はない。塩谷節山(えんやせつざん)の詩、「晴耕雨読、優游(ゆうゆう)するに足る」に由来する。天気のよい日は畑を耕し土に親しむ。雨の日は書を読む。ゆったりと日々を楽しむにはそれで十分ということか。やはりのさばっている感じだ。

私の場合は耕す畑がない。天気のよい日は自転車に乗るので、これは晴輪。雨の日は自転車に乗れないので、本を読んだり映画の観だめをしたりする。これなら雨読である。ところが、最近は雨の日も自転車の整備などに没頭することが多い。これだと晴輪雨輪である。

 田舎住まいの走行会仲間は、みんな大きな納屋やガレージを持っている。冬でもストーブなど持ち込めば十分温かい。ときどきは、誰かのガレージを借りて、メンテナンスの会をする。気前のいい人ばかりなので、いつでもうちのガレージを使って自転車いじりをすればいいと言ってくれる。

近くに住む先輩は、自分のいないときにでもガレージを使って構わない、必要な工具も自由に使ってもいいと言ってくれる。ありがたい話だが、オーナーのいないガレージは使いにくい。

 自分の家では、風の吹き抜けるカーポートの下で自転車を整備する。仲間たちのガレージに較べると環境は劣悪だが、雨や雪の日でも自転車をいじっていれば寒さを忘れる。晴輪雨輪の生活がすっかり定着しつつある。雨の日にも本を読まない。時間ができたら読もうと思って買い込んだ本は埃をかぶっている。いずれ身体が動かなくなって、晴読雨読ということになれば、買い込んだ本の出番がくるかも知れない。 


色は色と出会い
色をつくる

色は色と出会い
きわだつ

私は人と出会い
私をみつける

私は人と出会い
新しい私になる

きのうはきのうの出会い

きょうはきょうの出会い

2022年2月5日土曜日

エロイカ

  エロイカといえば、ベートーベンの交響曲第3番を思い浮かべる。ベートーベンが敬愛するナポレオン・ボナパルトのために作った曲である。ナポレオンがフランス皇帝に即位すると「彼もまた俗物に過ぎなかった。いずれ自分が優れていることを誇示する暴君になるのだろう」と言って激怒したベートーベンは、楽譜の表紙を破り捨てたという逸話がある。真偽は不明だが、「ボナパルト」と名付けられたこの曲は、後に「シンフォニア・エロイカ(英雄的交響曲)」と改題されている。

 エロイカ。イタリア語で英雄を意味する。自転車のイベントにもこの「エロイカ」を冠したものがある。ツール・ド・フランスと並ぶ、有名なジロ・デ・イタリアとは趣を異にする「エロイカ」と名付けられたレースが毎年イタリアで開催される。

参加できるのは、1987年以前に製造された自転車に限られる。イベントの趣旨は自転車を楽しむこと。ロードレースのように順位は競わない。参加者は距離の異なる5つのコースから自分の実力に合わせたコースを選択する。10月に開催されるレースは、ガイオーレ・イン・キャンティ村をスタートし、同じ村に戻る。

コース途中のエイドステーションで振舞われる、トスカーナ産の生ハムやワインなどの軽食を楽しみ、疲れたら自転車を押してのんびり歩く。年代物の自転車がレース途中で壊れたら、力を貸し合って修繕をしてレースを続ける。自転車が走り抜けるトスカーナ地方の未舗装の白い道はかぎりなく美しい。

レースが誕生したきっかけは、素朴な砂利道の風景が失われることを憂える地元の有志が、往年の自転車レースの雰囲気を残そうとしたことだった。イベント名の「エロイカ」には、過酷な未舗装路を走破した往年のアスリートたちへの敬意がこめられている。

 エロイカのレースの模様は、インターネットの記事やYouTubeの動画で見ることができる。レースの主人公ともいうべき自転車が何とも魅力的だ。ヴィンテージバイクの典型、細いクロモリのフレームに使い込んだサドル。サドルバッグなどにも往時の粋が見てとれる。参加者には、乗っているヴィンテージものの自転車同様、年季の入った人が多い。自転車を心底楽しんでいる様子がうかがえる。

 ヴィンテージとは製品が作られてから最低30年を経過しているもののことをいう。私の愛用している自転車はまだまだヴィンテージの範疇に加えてもらえない。エロイカへの参加資格はない。レースには参加できなくても、いつか同じコースを自分の自転車で走って、レースの気分だけでも感じたい。今のところは、「エロイカ」に参加しエロイカになった気分で、トスカーナの風景に想いを馳せながら、いつもの道を走ることにする。いなべの道も満更捨てたものではない。


古い自転車も
新しい気持ちで乗れば
新しい走り方をする

歳を重ねたからといって
人間も自転車も
古びたわけではない

歳を重ねても
毎日毎日
新しい日が来る

次の日もその次の日も
新しい自分に出会える

歳を重ねながら
新しい自分になっていく

古い建物の前を
じいちゃんもそのまたじいちゃんも
通ったかも知れないが
初めて通るわたしには
新しい建物だ

古い公衆電話から
電話をかければ
じいちゃんやそのまたじいちゃんと
話せるような気がする


2022年1月29日土曜日

ワイヤーが切れた

 初乗りのつもりで、今年初めてクロスバイクに乗ったら、変速機を操作するワイヤーがプツリと切れた。何の前触れもなく、変速装置のレバーが効かなくなった。慣れた操作の手ごたえが急に変わると、本能的に危険を感じる。

   昔の自転車は鉄の細い棒でリンクを使ってブレーキを引っ張っていた。変速機はなかった。今は金属のワイヤーでブレーキを引く。変速機もワイヤーを引いたり緩めたりしてギアを替える仕組みである。

 最近は、油圧を使ってブレーキをかける仕組みや、変速には電気式のものもある。スイッチを入り切りする要領で、重いギアや軽いギアに切り替える。システムひと揃えで20万円もするので、高級な自転車が十分買える。自転車もワイヤーレスの時代である。私のクロスバイクは旧来のワイヤー式なので、そのワイヤーが経年劣化や、過剰な力を加えることで切れてしまう。

 下駄の鼻緒が切れるのは縁起が良くないという。野辺の送りで死者を火葬するときに、送る人が履いていた下駄の鼻緒を切って、一緒に燃やす習慣があった。黄泉の国から悪霊がその下駄をはいて蘇えらないようにというまじないらしい。まるでゾンビの世界である。下駄の鼻緒が切れるのは、葬送につながるので凶兆とされた。

 変速機のワイヤーが切れるのも、気分は最悪である。しかし、これは凶兆ではない。変速機のワイヤーが切れても、難儀さえ承知なら走りつづけることはできる。特に前のギアの場合は、ワイヤーが切れると一番軽いギアで固定されてしまう。スピードは出ないが、それほど無理なく走れる。後ろのギアは、構造上、一番重いギアを使う位置に固定される。かなり厳しいが、走れなくはない。

   もしもブレーキのワイヤーが切れたら、これは命取りだ。急な坂を下っているときに、ワイヤーが切れようものなら、大事故につながることは必至である。一般に変速機のワイヤーは直径1.2㎜のものを使い、ブレーキには1.6㎜のものが使われる。ブレーキのワイヤーの方が太いのは、大きな力で確実にブレーキを効かせるためだという。劣化すれば、変速用の細いワイヤーが先に切れる。そのときには必ずブレーキのワイヤーも新しいものに取り換えれば、劣化による切断は未然に防げる。

 ブレーキのワイヤーが切れる前兆を、変速ワイヤーが切れることで教えてくれる。そう考えれば、初乗りでワイヤーが切れてくれたのは吉兆だった。とはいえ、いつも安全第一で自転車に乗ろうとすれば、ワイヤーが切れて吉兆などと喜んでいてはいけない。どのワイヤーも切れる前に交換しておくのが最善策なのだ。1万㎞または12年も使えば交換すべきなのだ。年初めのメンテナンスは、今ある自転車全てのワイヤー交換から始めることになりそうだ。


知り合ったころ
初々しさがある

知り合って時間がたって
今ではいい相棒だ

相棒となら
どこへでも行く

こんなに細いもので
つながっていれば
切れることもある

切れたら
修復すればいい

部品を買い込んだ
お祭り騒ぎだ

慌てることはない
つなぎ直しには
いつだって時間がかかる

修復ができたら
またどこへだって行ける




2022年1月22日土曜日

車上の計算

 冷たい北風の吹く日が多い。自転車は向かい風にはからきし弱い。風の日に乗るには、身体にも気持ちも強さがいる。風に向かって、姿勢を低くして、ひたすらペダルを踏む。思ったようには進まない。

 気持ちが折れそうになるので、がんばりすぎないように他のことを考えながらペダルを踏む。昨日、風に向かって走りながら考えた。こんなにペダルを踏んでいるけれど、いったい、この自転車はどれだけ進んでいるのか。

 これは、簡単な算数である。だがこれは、高等な自転車の科学でもある。ペダルを1回転させると、自転車はどれだけ進むか。

 自転車の前のギアと後ろのギアが同じ大きさ、ギアの歯数は前も後ろも20()と仮定する。ペダル(実際にはクランク)1回まわせば、後ろのギアも1回転する。後ろのタイヤが1回転するということである。スポーツ自転車なら、タイヤの直径は普通70㎝である。タイヤの外周は円周率をかけて約2mなので、ペダルを1回漕げば2m進むことになる。1分間に50回ペダルを回すと100m進む。1時間なら6㎞走れる。時速6㎞である。

 前のギアだけを2倍の大きさ、ギアの歯数を40丁に増やす。ペダルを1回転させれば、チェーンが40コマ動き、後輪はそれに合わせて2回転する。ペダル1回転で2倍の距離を進むので、1時間に12㎞進む。この時、力は2倍必要になる。理科で習う仕事の原理だ。(実用車〔ママチャリ〕はペダル1回転で後輪2.5回転くらいに設定されているので、この組合せに近い)

 後ろのギアを半分の大きさ、歯数を10丁に減らす。前が40丁、後ろが10丁。ペダルを1回回せば、後輪はチェーン40コマ分噛合って4回転する。ひと漕ぎで進む距離が4倍になる。同じペースで1分に50回漕げば、1時間に24㎞進む。時速24kmである。パワーは4倍必要になるが、かなり速い。

 スポーツ自転車は、前に2、3枚のギアをつけ、後ろには10枚もギアを装備して、組合せを2030通りも選べるようになっている。実際には、4対1、3対1、2対1、それに加えて1対1と4通りのギアの組合せがあれば十分である。その間の細かい組合せは、チェーンがスムーズにギアに懸かるためのつなぎと考えればよい。

 マウンテンバイクの場合は、ギアの比率を前1に対して後ろを0.5くらいにできる(後ろのギアの方が大きい)ものもある。これだと、1時間に3㎞しか進めないが、ペダルの重さは半分になる。山を登ったりぬかるみを走ったりするには都合が良い。

 暗算をしながらペダルを踏んでいたら、向かい風の中を、いつのまにか10㎞程走っていた。計算に夢中になって、強風に逆らわないのはいいことだが、自転車の操作がおろそかになるのは危険だ。気をつけたい。

 因みに、計算しながら走っているときに使っていたギアの組合せは、2対1くらいで、10㎞走るのに、45分もかかった。これは1分間に何回ペダルを回したことになるのか。今度風の強い日に乗るときは、この問題を考えることにするか。


風が走る
川面は西高東低

やがて雪が来るか
風が強まる


里はみぞれ
山は吹雪いているだろう
自転車乗りたちに訊きたい
風も空気だと信じられるか

たし算とかけ算で
自転車に乗る

風が吹けばひき算
気持ちはわり算


前に進むのがつらくなれば
風の懐で休む


資料
クロスバイクの後ろのギアを改造
 ①交換後は後ろのギアの最小歯数が2丁減って
  より速く走れるようになったが力もいる
 ②交換後は後ろのギアの最大歯数が2丁増えて
  より遅くも走れるようになり力も軽くて済む
 ③実際に使用する組合せは青く塗ったギア