’26.5.8 一期は夢よ

2021年11月27日土曜日

ブログのご縁

  少し前にデジャヴについてブログに書いた。池から現れた巨大な乙姫さまの写真を添えた。この写真のことで、ブログを読んでくれた知人からメールがあった。どこで撮影したものかという問い合わせだった。

地図に撮影場所を書き込んで返信した。岐阜県安八郡輪之内町海松新田の「乙姫公園」。京都の伏見稲荷、愛知の豊川稲荷と並び、日本の三大稲荷といわれ「おちょぼさん」として知られるお千代保稲荷の近くにある。

昔、魚獲りが達者な若者が、寄りつかないように言われていた川へ投網をした。すると不思議な力で川の中に引き込まれ、そこで、美しい女性に「ここへ来てはいけない」と咎められたという輪之内町に伝わる「大榑川の竜宮」伝説をもとに作られた公園らしい。

写真の撮影場所を知りたいというメールにはその理由が書かれていた。

「高校時代、悪友と大晦日の夜、年越し詣りにおちょぼさんに行こう、となり、バイクで二人乗り、厳冬のなか揖斐川を北上。二人ともおちょぼさんの場所をしっかり把握できていない。遠くに車の明かりが見え始めた。そちらを目指してバイクはフラフラ走る。迷いながらすったもんだしていると、突然暗闇のなか池が現れる。通り抜けようとして浮かんだシルエットは大きな像。ギャーっ、とふたりは声も出せずにアクセルをふかす。そのあと、おそらくおちょぼさんに参らずに帰路のついた記憶。あれから50年。おちょぼさんに行くたびに、あの池の像はどこにあるのか、はたまたデジャヴかと気に留めて探したりしていました」

年越しに見た得体の知れない池の中の巨像が脳裏に焼き付いて、実際に見たものなのか幻想なのか、長い間メールの主を悩ませていたものらしい。偶然見たブログの写真がその時の像と重なったというわけだ。後日、追伸届いた自転車で乙姫公園を訪れて、50年も前に見た深夜の不思議な光景を、確認できたとのことであった。長年の謎がやっと解けたことに感動しきりという内容だった。

 自転車に乗っていると珍しい光景を目にし、いろいろな人に巡り合う。縁は異なもの味なものというのは男女の縁ばかりではなさそうだ。自転車のことをブログにしていると、ここでも思わぬ発見があったり、出会いがあったり、これも何かのご縁に違いない。

 先週は、膝に痛みがあったので、平坦な道をプラプラと走った。四日市市寺方町というところで、お堂の屋根が目に留まった。高角山大日寺。せまい境内には、しあわせ菩薩さんと幸福地蔵さんが並んで安置されている。門前には身代わり如来さんも鎮座ましまして、いかにも幸せになれそうな空間だ。本尊の一丈六尺の大日如来坐像は拝めなかったが、お寺を辞すると心なしか膝の痛みが和らいでいた。真夜中の乙姫さまとの強烈な出会いほどではないが、これもご縁。

ここはどこかと尋ねられた
昼間に行っても不思議な感じのする場所だ

50年ぶりに再会したと写真が送られてきた
厳寒の深夜、突然乙姫さまが現れたら
肝をつぶすに違いないない
「ここへ来てはいけない」

お千代保稲荷の鳥居が
ヘッドライトに浮かび上がるはずだった

ふとしたご縁で
しあわせ菩薩さんと
幸福地蔵さんに出会う

身代り菩薩さんとも
お会いできた

ご縁を運べるように
自転車に荷台を取り付た


2021年11月20日土曜日

E-bikeと走る

  10年ほど前に、父が電動アシスト自転車を買った。初めて乗ったときには驚いた。自分が怪力の持ち主になったかと錯覚する。ペダルに脚を乗せて軽く踏むと、自転車は大きな力で前に押し出される。最近、知人が電動アシスト付きのスポーツバイクを手に入れた。E-bikeといわれる新種の自転車である。

 電動アシスト自転車に初めて乗ったときにも驚いたが、E-bikeにはもっと驚かされる。外観は、ほとんどクロスバイクやロードバイクと見分けがつかない。これまでのアシスト付き自転車のように大きな電池をサドルの下につけているわけではない。アシストするモーターも小型のものがクランクの付け根にあって、ほとんど普通の自転車と見分けがつかない。しかも、驚くことに、スポーツバイクと同じような外装の変速機が装備されている。

 アシスト付きの自転車は、電池切れのときには重くて走りが難渋する。E-bikeは変速機を駆使すれば普通のスポーツバイクのようなスピードで走れる。電池が切れても自分の力で充分に走れるし、電源を切っておくこともできる。電池を節約し、アシストの量を抑えて走れば、航続距離は100㎞を超える。驚くほど長い時間、モーターの力を借りられる。

 E-bikeに乗る人たちと一緒に走りに出かけた。40㎞程の距離を2時間で走った。自分一人が普通のロードバイクで、あとの三人はE-bikeである。

 自転車は自分の力で「転がす」車という意味に解釈していたが、E-bikeは自転車が自分の力で「転がる」車だと考えを変えた方が良さそうだ。乗り手が転がすというより、転がる車に乗せてもらうことになる。もちろん、乗り手も多少の力を出さないと動かない。自転車なのでペダルは踏む、そうすれば勝手に走り出すという感覚だ。電源を切れば、普通の自転車のように自分の脚力だけでも走れるが、向かい風のときや登り坂でモーターの力を借りるうま味を覚えたら、電源を切る気にはなれないだろう。

 E-bikeは時速24㎞までアシストが使える。向かい風がどんなにきつくても、そのスピードまでならペダルを軽く踏んでいれば巡航できる。坂道でも我武者羅に力を入れる必要はない。モーターが見えない力で速度を保ってくれる。

 きつい向かい風の中、E-bikeと一緒に走ってもアシストのない私は、前を行く人の真後ろについて、スリップストリームを使わせてもらった。かなりパワーを節約して走れる。それでも、一度離されると、再びすぐ後ろにつくためには相当の力が要る。坂道では、スリップストリームの効果を期待できない。登坂はすべて自分の脚力に頼ることになる。

 E-bike一緒に走りながら考えた。E-bikeと同じペースで走るべきではない。こちらの走りに合わせてもらえば兎も角、E-bikeに合わせて走ったら、力のない私の脚や膝はまちがいなく壊れる。E-bikeは自転車ではない。全く次元の違う新種の乗り物なのだ。

ブリヂストン アシスタ U STD
売れ筋の電動アシスト自転車
自分が力持ちになったような気になる
ヤマハYPJ-R
外装22段変速のロードバイク
驚異的な走りを見せる
E-bikeという名の新しい乗り物(?)

E-bikeに乗る人たちと走る
同じペースで走るには
超人的な脚力が欲しい

アシストもなく
サポートもなく
心細さと一緒に走る


一緒に走るだけで
アシストされている

季節の色や風の匂い
この先にある風景が
気持ちをアシストしてくれる





2021年11月13日土曜日

いつか遠くへ

  定年退職後は、ゆっくりと旅行を楽しむとか、外国へ時間をかけて出かけるという人の話をよく耳にする。北海道へ行ったことがないので、自由な時間ができたら、行ってみたい。35年前に3年間勤務した、懐かしいイギリスの日本人学校や当時住んでいた場所を、もう一度訪ねたい。

 そう思いつつ、未だに実現していない。定年退職した当時、父は90歳を迎えようとしていた。高齢の父を一人家に残して、長い旅に出るわけにはいかない。父を連れての長旅も難しい。旅とは全く縁のない生活が続いている。この10年間に出かけたのは、京都への一泊二日の旅一度きりである。

 自転車に乗り始めてからは、ちょっと出かければ遠出をした気分になり、少し走ればひとり旅の気分も味わえる。それが旅への思いを代行してくれる。自転車ではるばる訪ねたと思うような場所でも、家からたかだか50㎞圏内である。父に何かあっても、タクシーに自転車を積んでもらって1・2時間もあれば家に帰り着く。安心な旅だ。

 松尾芭蕉の『奥の細道』の序文ほど格調は高くないが、自分も「いずれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」にいる。「舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いをむかふるものは、日々旅にして旅を(すみか)とす」と、芭蕉は云うが、近場で自転車に乗っているだけで老いてしまっては、本当の旅を住処にしたとはいえない。旅に出た気になって、自分を(あざむ)いている

 自転車に乗り始めるまでは、いずれ旅に出るときは車を使うことを想定していた。今なら、どんな長旅でも断然自転車で出かける。

 本物の自転車旅のプランも漠然と描いている。北海道へ行くなら、苫小牧まで車に自転車を積んでフェリーで行く。翌日から、午前中に自転車で50㎞ほど走り、次の町へ移動する。例えば初日は函館までか。妻は車で同じ行程を走る。町に着いたら、午後は妻の自転車も車から降ろして、二人で町を訪ねて回る。それを繰り返して、最北の宗谷岬まで行く。

 少々無謀かもしれないが、イギリスへ行くのもプランは同じだ。ロンドンまで飛行機で行く。自転車を2台、現地で調達する。レンタカーを借りる。私は自転車で、妻は自分の自転車を車に載せて、午前中に次の町へ移動する。例えば、オックスフォードまで行く。午後は自転車2台で町を訪ねて回る。35年前には妻もロンドンで車を運転していたので、今も乗れるだろう。

 このパターンに現実の町を当てはめて、旅をつづける。いつ旅立つチャンスが来てもいいように、午前中は自分一人で50㎞、午後は妻と二人で2030㎞と決めて、毎週2、3回は自転車で走るようにしている。

何歳になっても、準備さえしていれば旅に出られる。心配することはない。芭蕉も芭蕉が崇拝した西行も、晩年になって奥州を歩いて旅している。私には、自転車、ところによっては自動車という強い味方もある。

いつも走っている道が
北海道の道に変るだけだから
そりゃ走れるにちがいない

走りなれてるこの道が
イギリスの道に変っても
そりゃ走れるにちがいない

朝から一人で50㎞
午後には二人で20㎞
毎日それだけ走れたら
そりゃどこだって走れるさ

雨にも負けて
風にも負けたら
年寄りだから休めばいいさ

なぁに案ずることはない
芭蕉さんも西行さんも
てくてく歩いてその昔
みちのくまでも旅をした


2021年11月6日土曜日

私と私の自転車の限界

  「人生、下り坂最高」というのは、NHKの『こころ旅』という番組で、自転車旅を続けているメインキャラクターの火野正平さんが、下り坂にさしかかったときのセリフである。人生の下り坂に歩を進めてしまえば、それほど力みかえることもない。火野さんと年齢の近い私にもその心境はよく判る。自分の身の丈に合わせて無理なく生きていられるのはしあわせだ。

自転車は自転車で、これまた下り坂は最高なのである。同じように自転車に乗る自分にも火野さんの感覚がよく判る。何しろペダルを踏まなくても進む。位置エネルギーを使って、転がり下りるのだから、進むどころかどんどん加速する。そこに追い風でも加わろうものなら、さらにスピードは上がる。脚力には見合わないスピードで坂を下っていて、時速40㎞を超えると、ここらがほぼ限界かと思う。これ以上は危ない。

人によって、スピードの限界は異なる。私の瞬間最高速度の記録は、安物のサイクルコンピュータの計測によれば時速57㎞だ。計測値に誤差があるだろうし、人に言えば無用の心配をおかけするだろうから、大きな声で言うべき数値でもない。プロのロードレーサーともなれば、最高速度は時速80㎞にも達する。

 坂道ではなく、無風の平坦地ではどうか。私の場合、スピードが出過ぎるという危険はない。危険なほどスピードを出す脚力がないからである。本気でペダルを踏んでも、限界は時速35㎞。しかも、10分も走れば息が上がる。

 では、1日に走れる距離はどうか。これは100㎞程度である。日の長い時期であれば、もう30㎞くらいは余計に走れる。平均速度20㎞で走れば5時間で走り終える距離である。距離が長くなればなるほどスピードが落ち、休憩は多くなる。100kmの後半ともなれば、休憩の時間も長くなる。100㎞を走るには、都合7時間ほどかかる。

 安全に時速50㎞の速度まで走ることができて、トラブルなく1日に100㎞走るためには、自転車のコンディションを保つ整備も必要だ。自分でやれる整備は、これくらいのコンディションを維持するのが限界である。

 時々は仲間とも走るが、一緒に走るのは4人までが限界だと思っている。何台かで走れば、前と後ろの自転車に気を遣う。安全への配慮が数倍必要になる。一人なら1日100㎞走れても、何台かで走れば、その半分くらいが限界だろう。トラブルの発生率も高くなるし、休憩時間のおしゃべりも長くなる。助け合って走るとはいうものの、疲労も大きくなる。

 乗る人の脚力も自転車の性能も違うので、限界を決めるのは難しい。私と私の自転車との組み合わせに限って考えると、限界はこんなものだろう。70歳がすぐそこまで来て、私を待っている。私と私の自転車の限界が、今後広がることは考えにくい。あわてて限界など決めなくても、いずれは向こうからやってくる。下り坂にいることを甘受するふりをして、前方に登り坂があれば密かに挑戦してみる。限界は曖昧なままにしておいて、私は私の自転車で無理のない走りを心がける。


空が澄んでいてマリア像に出逢う
砂の一粒ひとつぶが限界を結び
砂の一粒ひとつぶで像を結んでいる

やがて限界を解かれる砂の像は
一粒ひとつぶの砂に還る
マリア像のための一粒だったことを
砂は砂の記憶に刻みつける

今週は東海道関宿まで行った
随分と遠出をしたが
道に限界の線は引かれていない

琉球朝顔が
限界を知らぬ気にひろがる

空の蒼が
限界を超えて深まっていく











2021年10月30日土曜日

取扱説明書

 家電製品や機械製品には取扱説明書がつきものだ。それを読めば、電気や機械に詳しくない人でも、製品を正しく安全に使いこなせるはずである。自転車は構造がシンプルとはいえ、命をあずける機械である。多くの人は子どものころから乗っていて、ごく自然に乗れるのが当たり前のようなところがある。取扱説明書など不要と思う人も多いだろう。ところが、スポーツ自転車を乗りこなそうとすると、そうはいかない。正しい乗車姿勢や複雑な変速機の使い方が求められる。

 はじめて手に入れたブリヂストン・アンカーというスポーツバイクには、「取扱説明書(オンロードスポーツ車編)」がついていた。自転車に関する法律の紹介から始まって、各部の名称、乗る前の重要点検ポイント、してはいけない危ない乗り方とつづく。正しい取扱いと使用条件も詳しく解説されている。説明は38ページに及び、ブレーキの使い方や変速の方法についても懇切に説明がされている。それでも、初めてスポーツバイクに乗る者が説明を熟読すれば、性能を活かし安全に乗れるかというと心もとない。    

作家の三島由紀夫が何かのインタビューに、「文学は薬や栄養剤ではないので、時には(太宰治の作品のように)死に誘っても構わない」と応えていたが、取扱説明書は絶対に死に誘ってはならない。文学作品のように感動や共感・反感を呼び覚ますことはないが、人の行為を正しく確実に導く役割がある。取扱説明書の作者は、文学者よりも表現力の才能を求められるかもしれない。説明書を作る人は、初心者でも間違いなく製品が使えるようにと、ことばの使い方や図説に苦心惨憺しているに違いない。

 2台目、3台目に買ったロードバイクとマウンテンバイクは、ブランド名は違うが、同じ新家工業(株)の製品である。使用目的の違う自転車に、全く同じ内容の取扱説明書が添えられている。必要なものは添えてありますというアリバイ作りのような気がしなくもない。作り手にもユーザーにも、自転車の取扱説明書など必要ないだろうという判断がどこかにあるとすると怖い。

 最近では、電子版の取扱説明書が普通になっていて、インターネットでダウンロードしないと手に入らないということもある。自転車販売店では、初めから乗りこなせることを前提にスポーツバイクを売っている。取扱説明書や販売店での製品説明が形式だけのおざなりなものになっているとするとそれも怖い。

 『妻のトリセツ』、『夫のトリセツ』から『わたしの取扱説明書』や『老いの取扱説明書』など、何だかわけのわからない取扱説明書も巷にはあふれている。不要なトリセツはともかく、自転車を手に入れたら取扱説明書を丁寧に読んでみることである。説明が多少不十分でも、自転車の意外な機能や特性、便利さに潜む危険などを発見するかもしれない。取扱説明書の取り扱いが大事なのである。 

乗り出す前に取扱説明書を読んで
乗ってからも取扱説明書を読んで
そうするうちに自転車が形を変えて
だんだん面白い乗り物になってくる

取扱説明書のお手入れの仕方を読んでも
自分流の手入れをきちんとしていないと
10年近くも乗っている自転車は光らない

ひらりとまたがって
ペダルを踏めば
どんなところへでも
連れて行ってくれる

幼稚園児のころに教わった乗り方で
どんな自転車にでも乗れてしまう
『人生に必要な知恵は
 すべて幼稚園の砂場で学んだ』
         (R.フルガム)
自転車の乗り方は
 すべて幼稚園児のころに学んだ

それでも遠くまで乗ろうとすれば
取扱説明書を読んでおくのがいい
里山の取扱説明書なんていうのも
そのうち欲しくなるかもしれない

ブリヂストン・アンカーの取扱説明書
そもそもどうやれば倒れずに乗れるのか
そんな説明はどこにも見当たらない

2種類の自転車に添えられた
内容は同じ取扱説明書
自転車の用途によって乗り方は違うし
説明の仕方によっては乗り方も変わる




2021年10月23日土曜日

すれちがう

 異なる方向へ行き合うのがすれちがいである。すれちがいは、お互いに相手との接点を見つけることのないまま通り過ぎる。あまり良い意味では使わない。

意志や思いのすれちがいは、人の関係を壊すことにもなる。すれちがってばかりで、一生わかり合えないことや出会えないこともある。すれちがいの物語は枚挙にいとまがない。悲劇の典型である。あまりすれちがいがつづくと、滑稽に思えることさえある。

 自転車で走れば、歩いている人や同じように自転車に乗った人とすれちがう。相手もスポーツ自転車に乗っている人だと、挨拶を交わすことも多い。軽く会釈をしたり、手を挙げたり、ときにはことばをかけ合う。

 追い抜いたり抜かれたりするのは、同じ方向に向けてすれちがっているのと同じことになる。自転車どうしのときは、追い抜かれるときにも、ちょっと声をかけて追い抜かれると気分がいい。黙って脇をすり抜けられると驚かされる。だいいち危ない。

 追い抜く時には、こちらが声をかけることになる。脚力のない自分は、走っている自転車を追い抜く頻度は低い。追い抜くのはほとんど歩行者である。農道などで犬と散歩をしている人や、のんびりとウォーキングを楽しんでいる人を追い抜くのは気が引ける。そんなときには、少し離れたところから相手を驚かせないように、静かに「おはようございます」とか「こんにちは」と声をかける。

 「お邪魔しまぁ~す」と呼びかけることもある。ベルを鳴らすのは、どけどけと言っているような響きがあって気が咎める。自分が車に抜かれるときに、クラクションを鳴らされると、邪魔者扱いされたような気分になるのと同じだろう。

 中には道いっぱいに広がって歩いている人がいたり、散歩中の犬のリードが道をふさいだりしていることもある。そんなときも「お邪魔します」と声をかけるとほとんどの人は「ごめんなさい」といって道を空けてくれる。ところが、中には怖い顔をして振り向く人もある。「本当は、あんたの方が邪魔なんだけど…」と思うが、そこは大人、「ありがとうございます」と言って通りぬける。

 通りがかりに、小さい子どもが手を振ってくれることがある。これは気持ちがいい。手を振る、振りかえすというのは、遠くにいても、その距離がグッと縮まるものらしい。道の反対側にいる知らない人でも、手を振り合うとこちら側へ道を渡って会いに来てくれたような気がする。

 見ず知らずの、もう二度と会うこともない人とのすれちがいが、ちょっとしたことばがけや手を振ることで、さわやかな瞬間に変る。下校途中の小学生に「こんにちは」と声をかけたら、可愛い声で「こんにちワンワン」と応えてくれた。つい笑みがこぼれ、ペダルが軽くなった。 すれちがうことが楽しいときもある。

秋と風と水の音と
すれちがって走る

遠くを見て佇んでいると
時の流れていく音がすれちがっていく

この道を行くと
どれくらいのすれちがいがあるのか

雨の予感を背負って走る
自転車乗りたちとすれちがう

立ち止まると遠くに月
惑星も衛星たちもすれちがう

萩が静かに咲いていて
すれちがってしまいたくない


2021年10月16日土曜日

自由業

 自由業という職業が成り立つのかどうか。辞書に乗っているので、職業の類型にはあるのだろう。勤務時間や場所に縛られず、独立して働く職業をいうのなら、思いつくのは画家や物書き、昨今流行りのYoutuberやブロガー、医師や弁護士も含まれるのか。どんな仕事でも縛りがないとは考えられないのだが。

 私の前歴は公立中学校の教員なので、職業の類別は公務員。地方公務員で、教育公務員である。自由業とは対極にある。職務上は「地方公務員法」(任用、職階制、給与、勤務時間その他の勤務条件…)で規定される。さらには、「教育公務員特例法」(任免、分限、懲戒、服務及び研修について)でがんじがらめにされる。それを承知で選んだ職業なので仕方がない。とはいえ、若いころにそんなことまで深く考えて、職業選びをしたわけではない。

 前に髭のことを書いたが、髭といえば自由業の人に多いというイメージがある。外国ではそうでもなさそうで、リンカーンのように立派な髭の大統領までいる。自由業でない職業は、不自由を強いられるといことになるが、自分の職業生活を通して、あまり不自由を感じたことはなかった。本人が自由にふるまっているつもりでいると、傍から見れば危な気で、ちょっと変わった奴と思われていたかもしれない。

 退職してからも、元教員と知れると、人は先生と呼び、何となく堅苦しい奴という先入観を持たれることも多い。先生と呼ばれるのは、学校の中だけで、しかも、生徒から呼ばれるだけで十分である。退職しても先生なんて呼ばれると、いまだに教育公務員特例法に縛られているようで、窮屈この上ない。

 学校では、教育基本法、学校教育法やその施行細則に縛られ、授業の内容は学習指導要領で規定される。決められたことを決められたようにこなすのでは、何とも味気ない。指導内容やともするとその方法まで決められてしまうことがあっても、教員は自由業よりも自由な精神が必要である。

 目の前にいる子どもたちとのつき合い方は、自由自在でなければならない。教える中味は決まっていても、その過程では子どもたちと自由に考え、学び合う。教員は画家のように、詩人のように、そして妙なる音楽を奏でる人のように、自由に発想し、自由に表現したい。自由な遊びごころも欲しい。実に自由業の筆頭に分類してほしい職業である。

 長年続けた仕事を辞したということもあるが、自転車に乗り始めてからは、自由自在にどこにでも行けて、思いのままに楽しめるものがあるいうことに、今更ながらに気がついた。

 それが自転車ではなくても、向き合い方によって、自由な世界を開いてくれる手段や方法はいくらもあるだろう。仕事をしていた頃から自転車に乗っていたならば、自由の極意を会得することができただろうと思うと残念だ。今、専念している年寄業では、自由業を超える自由をめざしたいものだ。

 

今年は今年のコスモスが
一輪一輪ていねいに咲いて
今年は今年のコスモス畑

一輪一輪が違った色で織りなして
今年は今年の
今日は今日の
コスモス畑の色

咲きそろって秋のひまわり
同じ方をむいて咲いていても
見ているものはみんなちがう

すすきの海ひろがる
すすきの穂の1本1本に
朝には朝の光
夕暮れには夕暮れの影

夏にたくわえた緑を
やがて土にかえすときを
待っている樹々の梢

自転車で帰る帰り路
今日は夕焼けが美しい